嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(5) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(5)

「嫌な奴とも仲良くする」はキレイゴト、不自然なキレイゴトだ。自然は「嫌な奴は殺せ!」と叫ぶ。この自然の叫びには真実がある。しかし、真理ではない。私は真理の物語を求めている。既に何度も話題にしたが、或る幼女殺害事件の加害者家族と被害者家族の葛藤を描いた『それでも、生きてゆく』というドラマ(脚本は坂元裕二)がある。比較的最近観た台湾の『悪との距離』もほぼ同様のドラマであった。犯罪者を赦すことはできない。犯罪者がどんなに深い反省を示しても、また法によって下された刑罰(死刑も含む)に服しても、その罪は消えない。被害者家族の憎悪も消えない。ドイツ人がユダヤ人にしたこと、ユダヤ人がアラブ人にしたこと、日本人がアジアの民衆にしたこと、そうした歴史は修正されない。「ボクたちは未だ生まれていないから、そんな歴史なんて知らない」と今の若者たちは嘯いて、あらゆる国の人たちと仲良くできるかもしれない。結構なことだ。歴史を超越した友好は世界を平和にする。しかし、その平和は何だか薄っぺらな感じがしないか。単なる観光客として外国を訪れて歓迎される。逆に、単なる観光客として日本を訪れた外国人を歓迎する。国際的な友好の輪が広がる。それでいいのかもしれない。相手のことをもっと深く理解しようとすれば墓穴を掘ることになる。知らなくていいことまで知ることになる。しかし、「知らなくていいこと」とは何か。そんなものがあるのか。あるとすれば、やはりそれは歴史だろう。アウシュヴィッツを知らない世代がユダヤ人にもドイツ人にも増えれば、両国民はわだかまりなく更に仲良くなれるだろう。殴った者は殴ったことをすぐに忘れてしまう。その忘却は殴られた者が殴られたことを忘却すれば完璧になり、殴った事実は歴史から葬り去られる。白人が黒人にしてきたこと、民族を問わず帝国主義者が先住民にしてきたこと、その他一切の虐殺をチャラにする歴史のリセットボタンを押せば、この世界から「嫌な奴」はいなくなる。そして、初期化された人と人との新たな歴史が始まる。しかし、この「新たな歴史」は再び「嫌な奴」を生み出すことはないのか。そもそも「嫌な奴」のいなくなった初期化された世界は理想だと言えるのか。