嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(3) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

嫌な奴とも仲良くする必要があるのか(3)

やなせたかし作詞の『手のひらを太陽に』では「ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんな、みんな、生きているんだ、友だちなんだ」と歌われている。更に歌詞の二番ではトンボ、カエル、ミツバチ、三番ではスズメ、イナゴ、カゲロウが友だちの輪に加えられている。生きているものみんなが友だちのようだが、ゴキブリやムカデ、ヘビなども仲間に入れてもらえるだろうか。この歌の視点が人だとすれば、人はゴキブリなどの不快なイキモノとも友だちになれるのか。良寛さんは片足だけ蚊帳の外に出して蚊に血を吸わせていたそうだが、蚊を友だちだと思っていたのかもしれない。誰もが良寛さんのように生きられるわけではないが、多くの人がその生き方に憧れている。ちなみに新美南吉は子供たちに向けて次のように述べている。

 

君達の中には、西郷隆盛や、乃木大将や、ナポレオンや、ジンギスカンなどの本を読んだ者があるだろう。そしてそういう子は、本というものは、人間の中で偉かった人、何か大きなてがらを残した人に就いて、書かれるものだということを、知っているに違いない。そうだ。その通りだ。ところで…良寛さんは、偉かったろうか。君達は…不思議な気がするだろう。こんな坊さんの何処が偉いのかと思うだろう。こんな乞食のような坊さんが偉いのなら、そのへんの乞食やルンペンは、みんな偉いじゃないかという者があるかも知れない。……兎も角、良寛さんは偉かったと大人達がいっている。そればかりか、良寛さんの偉さが、どれ程であったかということは、大人達にもまだよく解っていないのである。(「良寛物語 手毬と鉢の子」)

 

実は私にもよくわからない。野暮を承知で言えば、蚊と友だちの良寛さんはムカデやマムシとも友だちになれるのか。良寛さんほどの人ならば友だちになれるかもしれないが、付き合い方を間違えると命取りになる。咬まれたら大変だ。インドの蛇使いなら決して咬まれないだろうが、それは徹底した調教によるものだ。つまり、蛇使いは蛇を支配しているのであって、そこに友だち関係はない。従って、対等な関係が友だちの大前提であるならば、忠実な警察犬や盲導犬も友だちにはなり得ない。ペットに関しても、いくら熱愛して友だちになろうとしても、それは飼い主の自己満足にすぎない。既に「飼い主」という立場がペットとの支配関係を表している。残念ながら、これは人が人を愛する場合にも言えることだろう。実際、「本当の友だち」と言える関係がどれだけあるのか。「愛している」と言いながら、その大半は相手を支配しようとしているのではないか。逆に言えば、自分が支配できる相手だけを愛することができるのだ。惜しみなく愛は奪う。嫌な奴も完全に支配できれば仲良くすることも可能になる。この世界を動かしているのは依然として「主人と奴隷の弁証法」だと言ってもいい。鄙見によれば、良寛さんはそうした支配関係とは無縁に自由に生きた。あらゆるイキモノとの対等な関係を築くこと、それが如何にして可能になるかは今後の課題だが、そこに「良寛さんの偉さ」があると私はボンヤリ考えている。