新・ユートピア数歩手前からの便り -11ページ目

円環×直線=螺旋(10)

イキモノは円環を生きる。小さな円環もあれば、大きな円環もある。生来の才能や生まれ育った環境に応じて、円環が様々であるのは当然だ。これはあらゆるイキモノに共通する事実であり、何も人に限ったことではない。しかし、幸か不幸か、人だけがゾーエーの円環を超えて、更なる生の充実を求める。それはゾーエーとは質的に異なる、ヒリヒリとした「ビオスの充実」だ。ただ平穏無事に暮らしているだけではつまらない。もっと刺激的な、「本当に生きている!」と実感できるような生き方がしたい。かくして人は夢を懐く。大金持になりたい。アイドルになりたい。立派な医者になりたい。その内容は十人十色なれど、それぞれの夢に向かって一直線に生き始める。勿論、夢が叶う人ばかりではない。むしろ、夢に破れる人の方が大半だろう。それでも人生は続く。直線の道が行き詰っても、円環は回り続ける。直線に生きる成功と失敗を繰り返しながら、円環は積み重なっていく。これが一般的な人生ではないか。すなわち、ゾーエーの円環とビオスの直線の掛け合わせだ。そうして積み重なる円環がやがて螺旋と化していくわけだが、問題は直線の暴走だ。恰もギャンブル依存症のように「ビオスの充実」に溺れ、ゾーエーの破滅という最悪の結果に至ることもある。近代以降、膨張し続ける直線の欲望が今の世界の腐敗をもらしたと考えることもできる。それ故、全く「ビオスの充実」を諦めることは不可能だとしても、極力「ゾーエーの充実」を中心に生きること、すなわちアルカディアの理想が水平の次元に生きる現代人の救いになる。実際、ホメラレモセズクニモサレズ、ささやかな円環を生きる水平人の幸福は素晴らしい。皆が過度な成長発展の夢を棄てて、イキモノの理に則した円環の充実だけを楽しんで生活するならば、この腐敗した世界は再び楽園になるに違いない。しかし、誤解を恐れずに言えば、そうした楽園回復は同時に現実逃避でもある。パラダイスの魔力はそう易々と抑制できないからだ。アルカディアの理想は人を安心させるが、パラダイスの理想は陶酔的に生きる活力を人に与える。結果、水平人は二つに分断される。鄙見によれば、この分断を超克する可能性は螺旋の理想にしかない。螺旋とは何か。私なりに定義すれば、それは「垂直に運動していく円環」に他ならない。夢の追求は水平の直線運動だが、理想は垂直の直線運動を要請する。どちらも円環運動が基本であることに変わりはないが、垂直人の闘いは究極的な理想の実現を目指す。私はそう確信している。

円環×直線=螺旋(9)

どうして執拗に異族を問題にするのか。ユートピアの追求には異族として生きる覚悟が不可欠だからだ。既に述べたように、それは少数派の問題に尽きるものではない。コリン・ウイルソンが問題にした「アウトサイダー」も異族だが、そこには「水平人を戦慄せしめる垂直人の闘い」がある。この殆ど誰にも読まれない便りを私が性懲りもなく続けているのも垂直の力によるものだ。容赦なく腐敗し続ける世界の中で一人でも多くの「垂直に生きる異族」と出会い、その連帯を築くこと。それが私の使命だと勝手に思い込んでいる。救いようのない阿呆だ。しかし、それ以外に自分のやるべき仕事が見つからないから仕方がない。もとよりボンクラの私に大したことはできないが、垂直人の闘いを断念するわけにはいかない。命ある限り続けていく。それが「垂直に生きる異族」の覚悟でもある。ただし、垂直人の闘いと言っても、それは水平人に敵対するものではない。「水平人はバカで、垂直人はエリート」という見解は致命的な誤解だ。円満に生活する水平人をバカにするエリートほど愚かな存在はない。そんなエリートは垂直人ではなく、単なるバカモノの一人にすぎない。垂直人は水平人を批判するが、それは水平人を否定するものではなく、あくまでもその理想に対するものだ。では、水平人の理想とは何か。アルカディアとパラダイスだ。人が現実に生活しているのは水平の次元であり、それ以外に我々の現実世界はない。そこで人はゾーエーの円環を生きる。それが人生の基本であり、円満な生活は人を幸福にする。循環する自然に即した生活の幸福がアルカディアの理想だ。ところが、ゾーエーの円環は人を退屈させ、絶えず新たな欲望に駆り立てるビオスの次元を切り拓く。人はパンのみにて生くるにあらず。さりとてパンなしでは生きられない。ゾーエーの充足を基本としながらも、ビオスの充足に向かって一直線に生きるその果てにある幸福、それがパラダイスの理想だ。水平人はアルカディアとパラダイスという二つの理想の間を揺れ動いている。その根柢にあるのは「円環と直線の葛藤」であり、それが結果的に世界を腐敗させている。問題はもはや「円環か、直線か」ではない。究極的な問題は「円環と直線の葛藤」を超えて、全く新しい理想を生み出すことに見出される。それこそが「水平人を戦慄せしめる垂直人の闘い」の真意に他ならない。

円環×直線=螺旋(8)

東京ではジャイアンツのファンが大半だとすれば(スワローズも無視できないが)、ドラゴンズを応援する者は異族と見做される。しかし名古屋では、その関係が逆転する。横浜、大阪、広島でも同様だろう。異族は常に少数派だ。一つ目小僧の世界では二つの目の持ち主が異族となる。しかし、異族の意味は多数決の問題ではない。例えば、絶滅が危ぶまれている少数民族の保護は重要な問題だが、それはあらゆるイキモノについて言えることだ。人に限った問題ではない。絶滅危惧種の鴇(トキ)やパンダなどと同様に、未開の異族の保護が問題になる。しかし、私がここで思耕しようとしている異族の問題はそれに尽きるものではない。そうした少数派の尊重もさることながら、私はあくまでも異族が異族である意味を問いたい。そもそも少数派の尊重とは何か。鴇などの保護には問題がないとしても、少数民族の保護とは何か。彼等や彼女等を前近代的な生活に閉じ込めておくことか。たといそうだとしても、そうした「保護」は少数民族にとって幸いなことなのか。もしかしたら、少数民族の人たちも実は近代的な生活を望んでいるのかもしれない。さりとてその望みが叶えば、少数民族はもはや異族ではなくなり、多数派の現代人に同化していくことになる。果たして少数民族にとって、そうした同化が幸福なのか。そこで問われるのが「異族が異族であることの意味」に他ならない。便利で快適だと思われている文明生活を拒絶して、敢えて未開の生活を続けることの意味、すなわち異族であり続ける意味とは何か。冒頭の例に戻れば、東京人はジャイアンツを応援するのが「常識」(共通感覚)とされる中で、敢えてドラゴンズを応援して異族を貫く意味は何か。そこには「常識」を超える、東京人でありながらドラゴンズのファンであることの特別な意味がなければならない。醜い家鴨の子は異族だが、後に美しい白鳥になった。しかし、美しさとは何か。多数派と異なることが醜さであれば、成長した白鳥も醜いままの筈だ。ところが、家鴨として育った白鳥は他の白鳥の群れを見て「美しい」と思う。これは同族の本能による美の認識であろうか。家鴨の世界では「家鴨が美しく、白鳥は醜い」、そして白鳥の世界では「白鳥が美しく、家鴨は醜い」というのが同族の「常識」であるとすれば、美は相対的なものにすぎないことになる。それにも拘らず、その「常識」を超えて「白鳥こそが美しい」と言えるのか。「文明生活が善で、未開生活が悪」という「常識」も然り。異族を問題にする本当の意味は、そうした「常識」をディコンストラクトする力に見出されるべきだと私は考えている。

円環×直線=螺旋(7)

異族とは何か。厳密に言えば、同族である日本人の中にも様々な異族はいる。そもそもヒトのDNAは99.9%同じであり、ヒトのレヴェルに異族などあり得ない。皆、「同じ赤い血が流れるヒト」だ。こうした「人類皆兄弟」の境地は根源的なゾーエーの円環に基づく共生だと言えよう。神話的に言えば、この根源的共生は始源の楽園だが、ヒトが人になると同時に失われる運命にある。ゾーエーの円環は破綻し、ビオスの次元における差異性が目立つようになる。そして、同族と異族の対立が生まれる。ただし、人種とか民族の差異性による対立は本質的なものではない。肌の色の違いなどはゾーエーに付随するものであり、ビオス以前の問題だからだ。とは言え、現実の対立は未だ根深く、血で血を洗う民族紛争は世界各地で深刻な問題となっている。実際、異族への憎悪は理性を超えた自然感情であり、公民権法などの法律によって抑えきれるものではない。憎いものは憎い。嫌なものは嫌だ。理屈じゃない。しかし、心ある人たちは既に自然感情に身をゆだねることの愚かさに気づいている。傾向性の呪縛との闘いは容易ではないが、人は道徳性に生きなければならない。傾向性の奴隷から道徳性の自律へ。こうしたカントの言う啓蒙において、人種差別は実質的に人として許されない行為となった。先述したように、その啓蒙の真理は未だ現実のものとなっていないものの、問題としては結着している。それ故、私は人種とか民族の差異性による異族とは質的に異なる異族を問題にしたい。例えば、資本家にとって労働者は異族であろう。あるいは、会社などの組織全体に尽くすことに生き甲斐を感じてきた人たちにとっての個人主義的な若者(新人類)、経済的発展を優先してきた人たちにとっての「忘れられた日本人」も異族に違いない。そうした階級対立や人生における価値観の相違こそビオスの次元の異族だと理解することができる。人種上の異族なら根源的ゾーエーの次元への回帰によって或る程度の和解(人類皆兄弟)も可能だが、ビオスの次元における異族は一筋縄ではいかない。「人類皆兄弟」という円環を基本としながらも「我は我也」という直線の道を生きる。そこから生まれる異族は如何にして「されど仲良き」という境地に辿り着けるか。

円環×直線=螺旋(6)

川口市民にとって、クルド人は邪魔者か。フェイクニュースに扇動されたクルド人に対するヘイトスピーチは実に醜悪だ。その愚かさに疑問の余地はない。しかし、クルド人に限らず、生活習慣の異なる者同士の共生は本当に可能なのか。一つ屋根の下に家族でない者がいれば、それは異物でしかない。異物は自ら異物であることを否定して、家族の一員として承認されることが要求される。同様に、日本という国を日本人の家だとすれば、そこに住むためには日本人にならねばならない。クルド人はクルド人であることを否定して、日本人に同化しなければならない。クルド人に対するヘイトスピーチに怒りを感じている善良なる市民も、それが本音ではないか。しかし、この「本音」は何を意味するのか。「共生は同族であることを大前提とする」という自然感情だと思われる。客として異族を迎え入れることはあっても、家に定住できるのは同族のみだ。同族であっても、血縁が薄ければ居候として冷遇されることもある。異族など以ての外。異族が家に居座れば、居候どころか不法侵入者として警察に通報されるだろう。では、クルド人やその他の在留外国人は何者なのか。厳密に言えば、在日外国人や来日外国人と区別して考えなければならないが、私がここで思耕しようとしているのはそうした社会学的問題ではない。外交官、技能実習生、研究者(留学生も含む)など、在留資格がどうであれ、また長期・短期に拘わらず、彼等や彼女等が異族であることは間違いない。その大半は日本での要件が済めば本国に帰っていく。問題は日本に生活の場を求めてやって来る難民の人たちだ。周知のように、日本では難民申請が認められることは極めて少ない。それが国際社会から厳しく批判されているが、日本ではやはり同族意識が支配的なのだろう。政治的・宗教的事情によって住み慣れた土地を追われた人たちは「安全に暮らせる場所」を求める。それは当然のことであり、様々な迫害によって破壊された円環の修復場所でもある。そのような場所に日本が選ばれることは誇らしいことであり、日本も「駆け込み寺」としての使命を果たすべきだと思う。しかし、その一方で、日本が総じて今でも曲がりなりにも「安全に暮らせる場所」であり得るのは、島国で自然に異族との軋轢を避けてこられたからではないか。そういう思いも当然ある。実際、観光地などで日本のマナーを無視したインバウンドたちの傍若無人ぶりが報じられると、異族に対する嫌悪感が湧いてくる。短期の旅行者でさえそうなのだから、異族と日常的に生活を共にするのを避けたくなる気持も無理はない。それに難民の人たちも日本に生活の場を求めてはいるものの、別に日本人になりたいわけではないだろう。日本人も移民の地に「リトル東京」をつくるように、外国の地に自分たちの住みやすい「生活の場」が生まれるのは自然だ。クルド人も独自の「クルド人街」をつくっているに違いない。そうした同族と異族の住み分けが現実的な共生の在り方だと言えるかもしれない。しかし、それは「可能な共存」ではあっても、決して「理想の共生」ではない。私は以前に「坩堝」と「サラダボウル」の対比を問題にしたが、「理想の共生」はそのどちらをも超えるものだと私は考えている。では、自然な「同族の共生」を超える、「同族と異族との共生」は如何なる理想を求めることになるのか。

円環×直線=螺旋(5)

生命は円環だ。ぐるぐる回転し続ける。その回転が止まる時、人は死を迎える。円環なしに人は生きられない。それは他のイキモノも同様だ。根源的イノチ、すなわちゾーエーの円環はあらゆるイキモノを包摂していく。この円環としてのゾーエーが傷つけられれば、直ちに修復が試みられる。とは言え、自分のゾーエーを脅かす他者が現れたら、その他者を殺す。それは他者のゾーエーを破壊する罪を意味するが、背に腹は代えられない。自分のゾーエーが一番大事。生きている限り、回転し続けるゾーエーの円環は止められない。邪魔者は消せ!これがゾーエーの鉄則だ。ところが、この鉄則に反抗する別のイノチがある。ビオスだ。ビオスは夢を見る。そして、その夢はやがて理想となり、自己と他者との共生を求める。勿論、そのような共生の実現は容易なことではない。自分が他者を受け容れても、他者が自分を受け容れてくれるとは限らない。何故か。お互いのゾーエーは共通していても、それぞれのビオスが異なるからだ。ゾーエーとビオスは質的に断絶している。「ビオスは夢を見る」と述べたが、「ビオスはゾーエーが見る夢だ」と言うべきかもしれない。何れにせよ、ゾーエーは同一でも、ビオスの次元に差異は生じる。それは生活習慣などの文化の多様性となり、延いてはそれぞれの国民性を形成する。多様な国民性は豊かな国際社会の理想となるが、同時に悲惨な戦争の火種にもなる。豊かな国際社会も悲惨な戦争も、どちらもビオスの次元の産物だ。例えば、今も戦争中のウクライナ人とロシア人に如何なる和解が可能なのか。ビオスの次元を虚妄だとして否定し、両者共に同じ赤い血が流れるゾーエーの次元にまで遡れば、その根源的なヒトの次元が「共通の地平」になるに違いない。そこでは「お互いのイノチを尊重する」というゾーエーの鉄則のみが意味を持つ。もし他者のイノチを脅かす不埒者がいれば、ウクライナ人であろうとロシア人であろうと、ゾーエーの鉄則に従って等しく厳罰に処せられるだろう。そうした根源的ゾーエーの次元に和解の大きな可能性があることは間違いない。しかし、私は敢えて危険なビオスの次元に和解の可能性を求めたい。ゾーエーの次元における和解は同一性(同じ赤い血が流れるヒト)に基づくが、ビオスの次元に求められる和解には差異性の壁が立ちはだかる。しかし、その壁を乗り越えてこそ真の和解が成立するのではないか。

円環×直線=螺旋(4)

『大草原の小さな家』(Little House on the Prairie)という西部開拓期のアメリカで貧しいながらも幸福に生きる一家を描いた人気ドラマがある。その再放送を観ているが、私はそこに円環生活の典型を見出す。実に心地いい。日本人の私が観てもそう思うのだから、現代のアメリカ人は更に一層強く「古きよきアメリカ」を意識するに違いない。それはトランプが掲げる「再び偉大になるアメリカ」とどう関係するのか。おそらく、トランプの「偉大なアメリカ」とは質的に全く異なる理想が大草原にはあるだろう。大草原の生活が円環的に偉大なアメリカだとすれば、トランプの求めているのは直線的に偉大なアメリカだ。端的に、前者はアルカディア、後者はパラダイスだと言ってもいい。どちらも理想であることに変わりはない。しかし、その偉大さは互いに鋭く対立する。どちらの偉大さを選ぶかはアメリカ国民の自由だが、「円環のアルカディアか、直線のパラダイスか」という問題は決して他人事ではない。何処の国民であろうと、その問題は不可避だ。ただし、この問題は単純な「あれか、これか」では決められない。何故か。大草原では円環が生活の中心であるとは言え、直線と全く無縁ではないからだ。一家は経済的に豊かになろうと刻苦勉励しているし、子供たちも日々成長する。そもそも開拓のフロンティア・スピリットは直線の精神であり、世界の成長発展は止められない。大草原もやがて開発され、大きな都市に変貌していく。それが時代の流れだ。そして、その流れの果てにトランプの夢見るような「偉大なアメリカ」の復活もある。それを熱烈に歓迎している人たちもいれば、その流れに危機感を募らせている人たちもいる。円環か、直線か。直線のパラダイスを求めて突き進むことが危険だとしても、人はその欲望に抗し得るか。余談ながら、『大草原の小さな家』からの大きな影響が感じられる倉本聰の『北の国から』では円環と直線の葛藤が更に深く掘り下げられている。果たして、我々は黒板五郎のように生きられるだろうか。

円環×直線=螺旋(3)

人は通常水平の走行に忙しく、「垂直の運動」など意識しない。人生の諸問題は水平の次元に生じる。明日食うコメがない。職がない。誰からも愛されない。水平の問題は様々な欠乏によるものだ。欠乏が人を不幸にすると言ってもいい。中でも最大の不幸は健康の欠乏であろう。病気や怪我で失われた健康を人は本能的に取り戻そうとする。その衝動に疑問の余地はない。他の欠乏についても然り。失われた欠乏の回復、これが生きることの原動力であり、人生の基本を成す。欠乏が回復された状態を円環と解するならば、欠乏を回復せんとする運動は直線だ。そして一般的に「欠乏は不幸で、円環は幸福だ」と見做される。しかし、本当にそうか。円環の幸福は、実は新たな不幸の始まりではないか。登山家は頂上を目指す。幾つもの苦難を乗り越えて頂上に辿り着けば欠乏は満たされる。大きな達成感がある。しかし、頂上で何をするのか。頂上でしか見られない絶景が楽しめるにしても、頂上の先には何もない。下山するだけだ。結果、頂上での喜びは長続きせず、達成感もやがて空虚感に転化していく。ゲーテの詩に大略「険しい山と谷を超えて、やっとの思いで穏やかな平野に出るが、そこは空漠としていて緊張がなく、再び新たな山と谷を求める」という内容のものがあるが、人は欠乏に苦しんでその充足を求めながら、欠乏が全くなくなった状態(円環)をも恐れている。それ故、一つの欠乏が満たされると、また別の新たな欠乏を見つけて直線に生き始める。そうした「水平の走行」が延々と続く。勿論、円環の幸福を一生涯享受する妙好人もいるだろうが、ここでは円環にとどまることができない人の絶望に注目したい。それは欠乏のニヒリズムとは質的に異なる、全く新しいニヒリズムの形態生み出す。欠乏の充足である円環を生きることに絶望する過剰のニヒリズムだ。欠乏のニヒリズムを弱さの絶望だとすれば、過剰のニヒリズムは強さの絶望と言えるかもしれない。前者は果てしなき直線を生きる苦悩であり、円環の永遠回帰に救いの可能性を見出すことができる。では、その円環運動に絶望する後者に如何なる救いの可能性があるのか。「垂直の運動」しかない、と私は考えている。

円環×直線=螺旋(2)

車輪による走行のスピードには限界がある。より速く、極限まで速く走行しようとすれば、車輪を超越するしかない。かくしてジェット機、ロケット、リニアモーターカーなどが生まれた。しかし、地上の走行に車輪は欠かせない。ジェット機なども地上の移動には車輪が必要になる。また、いくら車輪自体を高速度で回転させても、車輪が地面に接しなければそのスピードは直線的な走行に反映しない。日常生活に車輪は不可欠だが、車輪だけでは意味を成さない。問題は常に「車輪の下」で生じる。ただし、それはあくまでも水平の走行に限られる。実際、多くの現代人が悩んでいる問題は水平の走行に関することだ。殊にスピード。現代人の生活にはスピードが要求される。スピードが出せない人は「負け組」として社会からの脱落を余儀なくされる。勿論、近代以降のスピード優先社会には今や根源的な批判がなされている。このまま突き進めば破滅しかないという警鐘も鳴らされている。しかし、スピードを否定すれば問題は解決するのか。車輪をゆっくりと回転させるスローライフが、スピード優先社会に疲れ切った人々を癒すことは事実だ。たとい束の間の癒しであったとしても、それは今の社会に必要であろう。とは言え、やはり根源的な解決にはならない。では、どうすべきか。私は「車輪(円環)の超越」に一つの可能性を見出している。先述したように、スピードの極限を求めれば「車輪の超越」が要請される。しかし、それだけではない。水平の走行から「垂直の運動」に問題の視点を移す場合も「車輪の超越」が要請される。それは如何なる場合なのか。

円環×直線=螺旋

世界の腐敗は円環の破壊から始まる。小さな円環もあれば、大きな円環もある。身体の円環異常については日々進化する医療の力で或る程度修復できるが、戦争・貧困・環境破壊といった円環の歪みはどうすべきか。抑圧者を抹殺し、経済格差をなくし、利益優先の開発をやめる。論理的にはそんなことが脳裡に浮かぶ。端的に言えば、「世界の水平化」だ。確かに、水平化によって差異は消滅し、社会の円環は滑らかに回り出す。誰かを差別することが一切なくなり、全ての人が平等に自然と調和して生きる。その世界は正に神話で語り継がれてきた始源の楽園に等しい。それは非現実的な空想の産物にすぎないかもしれないが、もしそうした始源への回帰が可能なら、差異なき楽園は腐敗を免れるのか。その答えは既に楽園喪失の神話に見出される。円環もまた腐敗する。差異なき楽園に生きる倦怠に耐え切れず、人は楽園を出て直線に生き始める。様々な技術を発展させて自然を改作し、昨日より今日、今日より明日とより豊かな生活を築いていく。その不断に差異化する直線の果てにも楽園が遠望できるが、それは円環とは質的に異なる腐敗をもたらす。直線による腐敗は円環の腐敗以上に深刻だ。かくして再び円環の回復に救いが求められるものの、結局は同じことの繰り返し。人は円環と直線の間を行ったり来たり。それが人の歩んできた歴史だと言ってもいい。では、これまでの歴史を一変させる新たな力とは何か。円環も直線も世界を腐敗させてきた。そして、円環の腐敗を直線が批判し、直線の腐敗を円環が癒してきた。癒しの力としての円環の可能性もさることながら、私は直線の可能性について思耕したい。鄙見によれば、世界を腐敗させてきた直線は水平に伸びる直線、すなわち水平線に限られる。垂直線が直線の新たな可能性を切り拓くと私は考えている。