円環×直線=螺旋(3) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

円環×直線=螺旋(3)

人は通常水平の走行に忙しく、「垂直の運動」など意識しない。人生の諸問題は水平の次元に生じる。明日食うコメがない。職がない。誰からも愛されない。水平の問題は様々な欠乏によるものだ。欠乏が人を不幸にすると言ってもいい。中でも最大の不幸は健康の欠乏であろう。病気や怪我で失われた健康を人は本能的に取り戻そうとする。その衝動に疑問の余地はない。他の欠乏についても然り。失われた欠乏の回復、これが生きることの原動力であり、人生の基本を成す。欠乏が回復された状態を円環と解するならば、欠乏を回復せんとする運動は直線だ。そして一般的に「欠乏は不幸で、円環は幸福だ」と見做される。しかし、本当にそうか。円環の幸福は、実は新たな不幸の始まりではないか。登山家は頂上を目指す。幾つもの苦難を乗り越えて頂上に辿り着けば欠乏は満たされる。大きな達成感がある。しかし、頂上で何をするのか。頂上でしか見られない絶景が楽しめるにしても、頂上の先には何もない。下山するだけだ。結果、頂上での喜びは長続きせず、達成感もやがて空虚感に転化していく。ゲーテの詩に大略「険しい山と谷を超えて、やっとの思いで穏やかな平野に出るが、そこは空漠としていて緊張がなく、再び新たな山と谷を求める」という内容のものがあるが、人は欠乏に苦しんでその充足を求めながら、欠乏が全くなくなった状態(円環)をも恐れている。それ故、一つの欠乏が満たされると、また別の新たな欠乏を見つけて直線に生き始める。そうした「水平の走行」が延々と続く。勿論、円環の幸福を一生涯享受する妙好人もいるだろうが、ここでは円環にとどまることができない人の絶望に注目したい。それは欠乏のニヒリズムとは質的に異なる、全く新しいニヒリズムの形態生み出す。欠乏の充足である円環を生きることに絶望する過剰のニヒリズムだ。欠乏のニヒリズムを弱さの絶望だとすれば、過剰のニヒリズムは強さの絶望と言えるかもしれない。前者は果てしなき直線を生きる苦悩であり、円環の永遠回帰に救いの可能性を見出すことができる。では、その円環運動に絶望する後者に如何なる救いの可能性があるのか。「垂直の運動」しかない、と私は考えている。