新・ユートピア数歩手前からの便り -13ページ目

ユートピアの実現(3)

まぐだら屋もカミハテ商店も、それ自体は再生の場所ではない。未だない(あるべき)再生の場所への中継点にすぎない。いや、「すぎない」という言葉は適切ではない。中継点は転換点にもなり得ることを考えれば、それはなくてはならぬ貴重な場所だ。かつて「新しき村は駆け込み寺ではない!」と主張した村人がいたが、私は駆け込み寺でもいいと思っていた。その村人としては「行き場をなくしたホームレスのような輩が村に溢れては堪らない」という思いだったと推察するが、行き場のない人たちを拒絶する村にどんな存在意義があるのか。少なくとも、それは「新しき」村ではない。だけど、これはキレイゴトだ。薄汚い、胡散臭い連中が大挙して押しかけてきたらどうするのか。「行き場のない人たち」と一口に言っても千差万別だ。誠実な苦悩者もいればブリューゲルの『怠け者の天国』に描かれたような愚者もいる。全てを救うことなどできない。これは難民問題にも通じることだが、行き場のない難民の受け容れが住民の居場所を奪う結果になることもしばしばだ。善きサマリア人として生きることにはどうしようもない限界がある。救うべき人の制限もしくは選別を余儀なくされる現実。この点からすれば、「新しき村は駆け込み寺ではない!」という主張にも一理あると言わざるを得なくなる。とは言え、自然災害が発生すれば自ずと避難所が必要になるように、戦争・貧困・虐めなどの人災に対する避難所も社会に不可欠だ。実際、公的私的を問わず、様々な理由で行き場を失った人たちのための福祉施設はたくさんある。寺院や教会などの宗教施設から子供食堂まで、そうした場所を運営している社会活動家の努力には本当に頭が下がる。先述したように、善きサマリア人の活動には限界があるものの、避難所を維持存続していく努力を諦めるべきではない。新しき村も駆け込み寺としての機能を可能な限り備えた場所であるべきだ。しかし、その機能は尊重すべきだとしても、新しき村の本質はそれに尽きるものではない。避難所はやはり一時的な居場所でしかなく、仮設住宅はホームにならない。被災者でなくても、ネットカフェや居酒屋にしか居場所がない人たちもいる。贅沢な悩みだと嗤われるかもしれないが、立派な建物としての家(ハウス)があっても、そこに居場所がないという意味でのホームレスは巷に溢れている。ホームなき現代社会に求められているのはホームの再建、更に言えば古きホームのディコンストラクションによる「新しきホーム」の再構築に他ならない。そこにこそ世界を彷徨う人たちの再生の場所があると信じるが、それは如何にして実現されるのか。

ユートピアの実現(2)

先日、『まぐだら屋のマリア』というテレビドラマ(原作は原田マハ)を観た。尽果(つきはて)という架空の最果ての地に死に場所を求めて一人の青年がやって来る。そこにポツンと一軒だけある飲食店がまぐだら屋だ。青年は何かに導かれるように店内に入り、マリア(本名は有馬りあ)と出会う。明るく元気に店を切り盛りしているマリアだが、彼女もまた死にたくなるような(実際、首を切って自殺未遂している)過酷な過去を背負ってこの地に流れ着いている。他にも様々な苦悩に苛まれて生きている人たちが登場するが、そうした人間模様の中で青年はやがて再生の光を見出していく。死に場所から再生の場所へ――これもBildungsromanの一種だと思われるが、私はこうしたドラマが好きだ。『カミハテ商店』という映画(監督は山本起也)にも同じようなモチーフが認められる(雰囲気は全く異なる)が、問題はドラマに込められた垂直性にあると私は考えている。死に場所は行き場を失った絶望者が最後に辿り着く希望の地であり、正に水平の次元の最果ての地に他ならない。死が最後の希望であるような場所で如何に生きるか。この逆説を孕んだ問いに答えることに垂直的ドラマの真骨頂がある。もとより水平的ドラマを軽視するつもりはないが、ここでは垂直的ドラマの可能性を求めたい。前者がパラダイスを夢見るものだとすれば、後者は「ユートピアの実現」を求める。再生の場所が依然としてパラダイスであるのならそれでもいい。自分なりのパラダイスを見出していく人生を私は否定しない。そんな資格など私にはない。だが、私は敢えてパラダイスの先の可能性、すなわち「ユートピアの実現」に執著する。それは垂直的ドラマの可能性と密接に関係している。

ユートピアの実現

「一人でも私は生きられるけど、でも誰かとならば人生は遥かに違う」と中島みゆきは歌っているが、最近つくづく本当にそうだと思う。殊に単独者を気取って侘しい末路を辿りつつある自分には痛切に身に沁みる。人には「人間になる場所」が必要だ。一人では人間になれない。どんなに経済的に豊かになっても、絶大な名声を得ても、一人では未だ人間ではない。しかし、私は単独者として生きることにおいて対幻想や共同幻想を蔑ろにして個人幻想の充実だけにかまけてきたわけではない。対幻想については不幸にも縁がなかったと諦めるしかないが、共同幻想は個人幻想と相即すべきだと考えている。あるいは、対幻想も共同幻想も個人幻想を中心とした同心円上にあると言うべきか。ただし、個人幻想から共同幻想に至る遠心力(往相)と共同幻想から個人幻想に還る求心力(還相)は逆対応する。その意味において、個人幻想の充実なき共同幻想は単なる群集心理の妖怪にすぎない。決して群れることのない単独者のみが人と人との連帯を可能にする。そこに「人間になる場所」も生まれてくる。――と性懲りもなく相も変らぬゴタクを並べているが、私の寂しい生活は微動だにしない。何とかして今の生活を根源から変革しなければならない。おそらく、この思いは私一人だけのものではないだろう。家族のあるなしに拘らず、実に多くの人たちが自分の本当の居場所を求めている。寂しいからだ。底なしに寂しいからだ。生きることの寂しさ故に人は群れるとも言えるが、歓楽街の群衆の中で人の寂しさは更に際立つのではないか。私はこの拙い便りを「人間が本当に人間らしく生きられる場所」を求めて書き続けているが、残念ながら殆ど誰にも届かぬ便りなれど、そろそろ一区切をつけねばならぬ衝動に駆られている。それはユートピア実現に向けての一区切でもある。しかし、「ユートピアの実現」とは何か。それは「何処にもない場」を一つの場所にする逆説を孕んだ運動に他ならない。当然、そこには実定性の魔力に囚われる危険性がある。その危険な運動について更なる思耕を試みたい。

補足:大審問官の論理

垂直に生きることを阻む最大の壁は大審問官の論理だ。彼は見えないものを見えるものにする。一般大衆には見えない神の絶対性が教会の絶対的権威として見えるようになる。大審問官によれば、人はこうした絶対的権威の下でのみ自由に生活することができる。もはや何が善で何が悪かを自分で考えて悩む必要はない。全ては大審問官が定めた法によって律される。結果、悪人は徹底的に排除され、世界は善人ばかりの理想社会になる。本当にそうか。確かに、大審問官が善人でその法が理不尽なものでない限り、人はその絶対的権威の下で幸福に暮らせるだろう。事実、徳川幕府もその絶対的権威が維持できている間は総じて天下泰平の世を人々にもたらした。その幕府も絶対的権威が揺らいで倒されたものの、天皇を中心とする明治新政府はそれを継承したにすぎない。絶対的権威は死なず、敗戦でGHQに一時占められたが、様々に形を変えて今も存続している。鄙見によれば、日本に限らず、世界の如何なる国も未だ大審問官の論理から解放されたことがない。むしろ、常に「善き大審問官」を求めているようだ。しかし、「善き大審問官」などというものが存在するだろうか。アメリカ国民にとってのトランプ、ロシア国民にとってのプーチン、他にも幾つかの顔が脳裡をよぎるが、彼等は「善き大審問官」だと言えるだろうか。これは何も国家レヴェルの大きな物語だけのことではない。学校や会社などの組織についても言えることだ。もし水平に生きることの幸福しか人々の念頭にないならば、大審問官の論理は永久に死滅することはない。大審問官は幸福な生活を確約してくれるからだ。ここでイヴァン・カラマーゾフの叙事詩に戻れば、こうした大審問官に対してイエスは何も反論しない。大審問官はイエスが「本当の自由」を説いていることを知っている。そして、「絶対的権威の下での自由」を説く自分はイエスの教えを已むを得ず変更していることを深く認識している。端的に言えば、大審問官はキリスト教の名の下にイエスを確信犯的に裏切っている。その裏切りをイエスは知りながら、何も言わない。ただ静かに接吻するだけだ。これは実に感動的な場面ではあるが、私は不満を懐く。野暮を承知で言えば、私はイエスに反論して欲しい。勿論、イエスが言葉を口にすれば、たちまち実定性の魔力に囚われ、世界は歪むに違いない。イエスの沈黙の接吻は賢明な判断だ。しかし、それにもかかわらず、たとい世界が歪む結果になったとしても、イエスは言葉を発するべきだと私は思う。そこに純文学の使命もある。沈黙を超える言葉は不可能であろうか。

補足:実定性の魔力

学生時代から私が悩んできたのは実定性であった。実定性とは何か。私はその問題を若きヘーゲルから学んだが、私なりに解釈すれば「見えないものを見えるものにする時に生じる世界の歪み」だ。イデアは見えない。見えないからこそイデア足り得る。この場合の「見える」とは単なる視覚に尽きるものではない。スウェーデンボリやヘレン・ケラーは感性界を超えた霊界を見たかもしれないが、その叡智界とイデアとは厳密に区別すべきだと私は考えている。キリスト教その他の宗教的瞑想や禅の悟りによって見性される世界も同様だ。確かに、視霊者によって見られた超感性界は現実の目に見える世界とは質的に全く異なっており、それを理想世界(本質世界)とすることは可能だろう。実際、そうした理想を中心としたコミュニティ(宗教教団)はピンからキリまであり、常に多くの人を魅了し続けている。そこに汚れた現実(見える世界)にはない純粋性があることは間違いない。しかし、正にその純粋性に恐るべき陥穽がある。それが実定性だ。最終解脱者が凡人には見えない「純粋な理想」を見えるものにする。この見えるものと化した理想が「世界の歪み」を生み出す。その最悪の一例がオウム真理教だが、麻原亡き後も形を変えて存続している。「世界の歪み」の元凶は教祖麻原ではなく、彼を生み出した実定性だと言うべきだ。では、実定性を否定すれば「世界の歪み」もなくなるのだろうか。論理的にはそうなる。しかし、それは汚れた盥の水と一緒に大切な赤子をも流してしまう愚行にすぎない。実定性は恐るべき魔力を胚胎しているが、さりとて我々は実定性なしに現実に生きることはできない。イデアが見えないものだとしても、我々は見える理想に生きる。見えないものを見えるものにする拠点、それが垂直に生きる拠点に他ならない。ただし、それを可能にする実定性は凡百の宗教やファシズムのそれとは全く異なるものでなければならない。その「新しき実定性」を生み出せない限り、不可視のコミューンは「世界の歪み」の温床であり続ける。

補足:垂直に生きる拠点

我々が現実に生活している水平の次元は聖なる場所と俗なる場所に大別される。では、垂直の次元は何処にあるのか。何処にもない。垂直の次元は「何処にもない場」なのだ。何はさておき、この一点だけは強調しておきたい。私自身、垂直の次元に聖なる場所を見出すという誤解に囚われてきた。しかし、垂直と水平の関係と聖と俗の関係は質的に異なっている。垂直の次元はそこから聖と俗の関係を含むあらゆる差異が生まれてくる場、言わば絶対無に他ならない。古来、この絶対無はcoincidentia oppositorumなどと表現されてきたが、その真理は何か。或る哲学者は「同一性と差異性の同一性」と称したが、当然「同一性と差異性の差異性」と理解することもできる。世界を構成する根源的力は差異性なのか同一性なのか。能産的自然(natura naturans)と所産的自然(natura naturata)。プロセス神学では神のthe primordial natureとthe consequent natureが語られるが、その関係をどのように理解するにせよ、世界は常に揺れ動く。永遠に変わらぬものを求めながら日々変わるべきものとの闘いを余儀なくされている。それは世界の歪みとの闘いでもあるが、既に述べたように、水平革命に尽きるものではない。そこにはどうしても垂直の次元が要請される。しかしながら、垂直の次元は「何処にもない場」なので闘いの拠点とすることは原理的に不可能だ。果たして、垂直に生きる拠点は何処に見出されるのか。

垂直に生きる(10)

「垂直の瞬間」は日常生活の至る所にあり得る。学校で級友が虐められている時、見て見ぬふりをするなら「垂直の瞬間」はやって来ない。同様に沖縄の米軍基地や福島の除染土の問題に関しても、我々は「垂直の瞬間」を生きるかどうかを試されている。もし水平に生きる幸福だけにしがみつくのなら、NIMBY(=Not In My Back Yard)を決め込むことになるだろう。私も偉そうなことは言えない。世界の歪みが日々報道されても、それが我が身に降りかからなければ行動を起こさない。実に情けない話だ。「食うに困る人が一人でもいる限り、世界は未だ理想ではない」という実篤の言葉も「世界がぜんたい幸福にならなければ、個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉も、今のままでは単なるキレイゴトとして歴史的遺物と化してしまう。醜悪な現実に理想を取り戻したいと私は切望しているが、理想は単なるキレイゴトではない。断じてキレイゴトで終わらせてはならない。歪んだ現実はキタナイが理想はキレイ。それが通常の認識だが、歪んだ現実に受肉する理想こそが問題なのだ。当然、理想は無傷ではいられない。受肉は理想を現実の泥沼に突き落とす。汚れっちまった理想はもはや理想ではない。そこに「理想の敗北」を見る人も少なくないだろう。私は違う。「理想の敗北」を認めない。確かに、受肉は理想の絶対性の敗北(否定)かもしれないが、むしろその敗北からの復活(否定の否定)にこそ真の絶対性があると信じたい。そうした受肉の運動を通じて、理想は俗なる現実を聖化する。聖化とは何か。その真理を私はずっと求めてきた。文字通りに解せば「俗なるものの徹底排除」が主張される。キタナイものが一切なくなって世界はキレイになる。しかし、私はそこにどうしても真理を見出せなかった。キレイはキタナイ、キタナイはキレイ。美は乱調にあり。それが真実だとしても、世界の歪みはなくさねばならない。強者が弱者を抑圧する。その抑圧から貧困や戦争などの歪みが生じる。歪みはキタナイ。歪みをなくせば世界はキレイになる。本当にそうか。キレイになった世界は新たな歪みの温床になる。何故か。歪みは水平の次元で生じるが、そこには限界があるからだ。それは水平革命(世界の水平化)の限界でもある。いくら水平的歪みをなくしても歪みそのものはなくならない。とは言え、水平革命が無駄だと言うつもりはない。逆だ。現実に可能な我々の活動は水平革命しかないと言っても過言ではない。世界の歪み、現代社会に渦巻いている理不尽なことの一掃のために微力ながら私も働きたいと思っている。「世界の水平化」の政治的表現が民主化であるなら、国の大小を問わず、あらゆる国の民主化が望まれる。ただし、民主化の徹底が水平革命の最終目標だとしても、我々の究極的理想はそこにはない。水平化=民主化を超えていく。今の私の言葉に説得力はないが、水平革命は水平の次元だけでは成就しない。それは必ず垂直の次元を要請する。その意味において「水平革命は垂直革命に接続する」と言えるが、両者は相即すると考えるべきだ。決して二段階的に理解してはならない。「垂直に生きる」理想は「水平に生きる」現実に胚胎する。聖なる場所でキレイに生きることには理想も現実もない。

垂直に生きる(9)

かつて「新しき村は修道院であるべきだ」と或る長老が語った。私は半ば同意し半ば反撥した。人間が本当に人間らしく生きられる場所。私はそれを求め続けていたが、常に修道院や禅の僧堂に対する憧れがあった。醜悪な欲望に塗れた俗世間の腐敗は明白であったから、そんなものとは絶縁した聖なる場所に理想を見出したのだろう。しかし、やがて俗なるものを徹底的に排除する聖なる場所に疑念を懐くようになった。そうした徹底排除は厳格な戒律なくして実現しない。言い換えれば、厳格な戒律生活に耐え得る者のみが聖なる場所に生きることができる。私には到底無理だと思った。と同時に、そんな情けない自分を正当化するつもりはないが、難行苦行を全うする強者のみが住める聖なる場所は人間らしくないとも思った。「人間らしい」とは何か。人間は弱い。その弱さを肯定して生きることが「人間らしい」のか。私は自分の弱さを痛感しているが、そこに安住する気にはなれない。私にとって聖道門と浄土門はウロボロスの関係にある。「難行苦行の強さ」の尾を「弱さを受容する強さ」が噛んでいる。私は強くなりたい。ただし、それは水平の次元における強さではなく、あくまでも垂直の次元における強さであるべきだ。修道院にせよ僧堂にせよ、そこが聖なる場所であることは否定できない。しかし場所である以上、そこは依然として水平の次元に属する。水平の次元には聖なる場所と俗なる場所があり、私はその狭間で二つの場所に引き裂かれて生きている。修道院がそうした意味における聖なる場所であるならば、新しき村がわざわざ修道院である必要はないだろう。聖なる場所は修道院や僧堂で事足りている。問題は聖俗二つの場所を生き抜く理想に他ならない。それは「垂直に生きる」強さを要請する。

垂直に生きる(8)

『尼僧物語(The Nun's Story)』(1959年 監督:フレッド・ジンネマン、原作:キャスリン・ヒュウム)を観た。修道院に垂直の次元はあるか。私はずっと考えていた。オードリー・ヘプバーン演じるガブリエルがシスター・ルークとして生き始める。それは「垂直の瞬間」であったのか。厳格な戒律に服して神を愛する生活は明らかに世俗的な生活と質的に異なっている。後者が自然に即した生活だとすれば、前者は神に従う生活だと言えよう。神と自然。修道院では、自然に湧き上がってくる欲望を抑制することが神に従うことだと教えられる。そこにシスター・ルークの苦悩がある。無批判に戒律生活を続けることが神に従うことなのか。勿論、修道院の活動は戒律生活に尽きるものではない。修道院の外に出て、未開地などの医療現場にて看護師として奉仕する活動もある。マザー・テレサがその典型だが、シスター・ルークもコンゴでの医療活動に生き甲斐を見出す。しかし、そうした活動と戒律との間の軋轢がやがて顕著なものになってくる。時代はナチの暴虐がヨーロッパを席巻するようになり、シスター・ルークの父親もナチに虐殺されたという知らせが届く。彼女はレジスタンス運動に参加したいという欲望を懐く。それは「愛する父親を殺したナチは赦せない。ナチが憎い!」という自然に湧いてくる感情に基づいた欲望だ。当然、それは戒律に反する欲望に他ならない。結局、深く悩み抜いた末、シスター・ルークはガブリエルに戻ることを決意する。彼女が修道院を出て、俗世に踏み出して行くロングショットで映画は終わるが、そこにこそ「垂直の瞬間」はあると私は思った。

垂直に生きる(7)

日常生活において垂直を意識することは殆どない。同時に水平に生きていることも意識しない。ただ自然に湧いてくる様々な欲望のままに生きているだけだ。その欲望の一環として、立身出世や自ら選んだ道でテッペンを取るといった上昇志向に熱中する生がある。誤解されやすいが、この上昇志向は垂直性とは関係がない。質的に全く異なるものであり、それは水平の次元を超越するものではない。懸命に努力して「上級国民」になろうとする意欲などは極めて水平的だ。とは言え、上昇志向は水平の生活としてはやはり歪んでいる。致命的な病だと言ってもいい。おそらく、水平に生きることの理想は上昇志向とは無縁に、日々ノンビリと楽しく過ごすことに見出されるだろう。モーレツからビューティフルへ。しかし、そこに水平的理想があるとしても、人はその理想に耐え得るか。植木等が演じて一世を風靡した無責任男・平均(たいらひとし)なら水平の生活を満喫できようが、それは所詮映画の中だけで可能なことではないか。実際、我々は幼い頃から上昇志向の競争に否応なく駆り立てられてきた。少しでも良い学歴、そして少しでも上流の生活ができる就職。その競争からドロップアウトした人々は下流意識に開き直り、「寝そべり族」の生活に甘んじようとする。かつてのヒッピーもモーレツな競争社会に対する反抗ではあったが、それを生涯貫けたとは到底思えない。長い髪を切り、再び競争社会に渋々戻った者が大半ではなかったか。結局、猫も杓子も「わかっちゃいるけどやめられない」とスーダラ節で憂さを晴らすことになる。それでいいのか。「上級国民」を目指して日々励んでいるエリートたち。そこから落ちこぼれた有象無象。どちらも水平に生きていることに変わりはない。その格差が水平革命を要請するが、それは如何なる革命なのか。単に上下関係の逆転に終始するものであるならば、そこに革命はない。真の革命は水平の次元を超越する「垂直の瞬間」において始まる。