新・ユートピア数歩手前からの便り -15ページ目

見えるものと見えないもの(9)

好むと好まざるとに拘らず、純文学はこれからも衰退の一途を辿るだろう。それは「見えないもの」への究極的関心の衰退でもある。「見えるもの」を本質とする大衆文学(ミステリーやSFも含む)は強かに生き残るかもしれないが、それも早晩マンガやアニメに太刀打ちできなくなるのは目に見えている。既にテレビドラマの原作はその大半がマンガに占められている。一般市民の欲望が「見えるもの」の快楽に集中している以上、この流れは変わらない。既に太宰治は次のように喝破している。「フロオベエルはお坊ちゃんである。弟子のモオパスサンは大人である。芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である。このかなしいあきらめを、フロオベエルは知らなかったしモオパスサンは知っていた。……ボオドレエルこそは、お坊ちゃん。」一日労働して帰宅する。夕飯と入浴を済ませてテレビを観る。ドラマやバラエティ番組で疲れを癒し、また明日も頑張ろうと思う。芸術は娯楽。それ以上のものではない。太宰は「かなしいあきらめ」と言っているが、今や殆どの人が「面白くなければ意味がない」と思っている。娯楽結構。その快楽が生を充実させる真実を否定するつもりはない。しかし、それが「見えるもの」だけに支配されている限り、「見えるもの」の堕落(世界の腐敗)を止めることはできない。そこにはどうしても「見えないもの」の力が必要になる。その力を胚胎する純文学(純粋芸術)を滅ぼしてはならない。

見えるものと見えないもの(8)

相変わらず私は映画やテレビドラマをのべつ幕無し観続けているが、どうしてこの愚行を止められないのか。土台、無理な話ではないか。私は「見えないもの」を見ようとしているが、それを映像作品に求めるのは明らかに筋違いだ。人は通常、見たいものを求めて映像作品に向かう。また映像作家の方も、観客が見たいものを創ろうとする。ただし、人の「見たい!」という欲望は実に複雑怪奇なもので、残酷でグロテスクな「見たくないもの」まで見たいと思う。例えばホラー映画。身の毛もよだつ戦慄の場面を人は見たくないけど見ようとする。またポルノ映画では見てはならないものまで見ようとする。かつて「何でも見てやろう」と宣言した作家がいたが、「見えるもの」の快楽には際限がない。最近ではVFXなどの技術によって現実にはあり得ない映像まで見ることができるようになった。こうした「見えるもの」の快楽を私は否定するつもりはない。そもそも私が日々映画やテレビドラマを観続けているのも、やはり見たい場面に遭遇したいからだと思われる。しかし、それらを観れば観るほど、私が本当に見たいものはそこにはないと痛感せざるを得ない。性懲りもなく私は「見えないもの」を求めているからだ。では、「見えないもの」は如何にして表現されるのか。音による可能性があるだろうが、音痴の私にはよくわからない。ここでは言葉による可能性について考えてみたい。因みに「行間を読む」という表現があるが、そこに一つの可能性がある。ドーナツの穴のように、行間には何もない。しかし、ドーナツなくして穴ができないように、言葉(文章)がなければ行間はできない。言語芸術としての文学も言葉によって「見えるもの」を創造する。殊に大衆文学は「見えるもの」の創造が全てだと言ってもいい。だから容易に映像化される。純文学は違う。決して映像化されない。また映像化が可能な作品は純文学ではない。何故か。純文学の本質は「見えないもの」の表現にあるからだ。誤解のないように断っておくが、私は「大衆文学は駄目で、純文学の方が優れている」と言いたいのではない。それぞれの本質(目的)が違うことを明確にしたいだけだ。実際、大衆文学は「見えるもの」の快楽を満たしてくれる。それは映像の快楽、更には映像と音楽の総合である映画の快楽には敵わないかもしれないが、言葉による「見えるもの」の快楽には別して独特なものがある。その点、純文学もまた言葉による「見えるもの」の創造であることに変わりはない。ただ純文学の「見えるもの」はあくまでも「見えないもの」を目指している。そこに絶対的な差異がある。

見えるものと見えないもの(7)

不幸にして視力を失っても、見たいものを見ようとする意志は変わらない。ジッドの『田園交響楽』におけるジェルトリュードもまた、盲目の中で見たいものを育んでいた。しかし、手術によって回復した視力によって見た現実は彼女の見たいものではなかった。盲目の中の「見たいもの」と視力によって「見えるもの」との断絶。彼女は絶望した。煎じ詰めれば、それは「見えるもの」と「見えないもの」との狭間で引き裂かれる絶望に他ならない。宗教的には、その絶望は罪と表現される。イエス曰く、「私がこの世に来たのは裁くためだ。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためだ。……もしあなた方が盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなた方が『見える』と言い張るところにあなた方の罪がある。」盲人は見えない人だが、「見えないもの」を見ている。しかし、その「見えないもの」を見えるようにするや否や罪が生まれる。この罪は不可避だ。さりとて盲目を理想とすべきではない。盲人に罪は発生しないとは言え、見えない人は見えるようにならねばならない。と同時に、見える人は見えていないことを絶えず自覚しなければならない。かなり衰えてきたが、幸い私には未だ視力がある。しかし、本当に見たいものは見えていない。つまり、理想(イデア)は依然として「見えないもの」のままだ。いっそ「見えないもの」を理想とすることに安住すべきだろうか。醜悪なる「見える教会」を排して、美しい「見えない教会」を理想とするように。坐禅や瞑想で「見えないもの」を観照するのも一つの生き方だが、それは人生の往相にすぎないのではないか。たといその還相が罪に堕ちる道だとしても、私は「見えないもの」を「見えるもの」にする道を全うしたい。

見えるものと見えないもの(6)

日本の「Angry Young Men」とも言うべき全共闘の人たちはその名の通り「闘争の世代」だ。しかし、同時に「敗北の世代」でもある。一度も闘ったことのない世代の私にその敗北を非難する資格はないが、その意味は問い続けている。確かに当時の若者たちは時代の流れに怒り、それを変革しようと闘った。その闘いについては既に様々な分析がなされているが、五月革命の意味も含めて、私は「見えるもの」をめぐる闘いと解したい。人は見たいものを見ようとする。現実が見たくないものであるならば、それを見たいものにしなければならない。しかし、全共闘は「見たくない現実」とは闘ったが、その現実を超えて「見たい世界」を実現することに敗北したのではないか。それは今も続く闘争についても言えることだ。勿論、「見たくない現実」との闘争は重要なことだ。しかし、それ以上に「見たい世界」のヴィジョン、すなわちユートピアこそが問題ではないか。そこでは「見えるもの」以上に「見えないもの」が問われることになる。

見えるものと見えないもの(5)

「私が社会を変える」というタイトルに誘われて、人気歌手「ちゃんみな」を取材した『クローズアップ現代』を観た。Z世代から絶大な支持を得ているというこの歌手の存在を私は初めて知ったが、その魅力は何か。短時間のインタヴューとヒット曲の歌詞だけで判断するのは早計だが、彼女もまた既存社会(「大人の社会」)の価値観と闘っていることは間違いない。実際、彼女にはかつてブスと言われて酷く傷つけられた経験があるそうだが、今の彼女は「何が美しいかは私自身が決める」と力強く言い切っている。彼女が変えようとしている社会は「見えるもの」の見方が固定された序列社会だと言ってもいいだろう。その闘いが多くの若者から支持されている現実を心から喜びたいと思う。しかし、それに水を差すつもりは全くないが、その主張は今に始まったものではない。以前のヒット曲にも「ナンバーワンの花なんてない。それぞれの花がオンリーワンだ」という歌があった。「ちゃんみな」の闘いは、こうした多様性を重視する主張と何が違うのか。もし「何が美しいかは私自身が決める」という発言が単なる「ナンバーワンの否定」にすぎないなら、そこに差異は認められない。そもそもナンバーワンとオンリーワンの差異は何か。競争原理と共生原理の差異なのか。「見えるもの」をめぐる闘いは一筋縄ではいかない。

見えるものと見えないもの(4)

世界は「見えるもの」で構成されている。人は「見えるもの」で判断し、モノゴトを評価する。是非もなし。問題は「見えるもの」が正しく見えないことにある。しかも、この「正しく見る」は至難の業だ。「ありのままに見る」と言っても、何が「ありのまま」なのか。見た目、家柄、学歴など、「見えるもの」は表層にすぎない。そして、その表層は権力やメディアによって巧みに作られる。然り!「見えるもの」は作られる。因みに、最近は検察や警察の横暴が指摘され、自白の強要や証拠の捏造などによる冤罪という名の「犯罪の創作」が問題にされている。一体、何が「見えるもの」の真実なのか。私は昨日、東海テレビが2016年に制作した『ヤクザと憲法』というドキュメンタリイを観たが、そこにヤクザの真実を垣間見る思いがした。もとより私はヤクザや暴力団の存在を擁護するつもりはない。むしろ、そんなものは一刻も早くこの世界からなくなればいいと思っている。しかし、暴対法で一方的に「ヤクザの人権」を蹂躙するような今のやり方、暴力団に少しでも関係するものは全て容赦なく犯罪とする方針には問題があるのではないか。勿論、それが暴対法の目的だと言われれば身も蓋もない。多少の無理を通してでも、暴対法を徹底させて暴力団を壊滅に追い込むことは善良なる市民の望むところでもあるだろう。殆どの人はその正義を疑わない。しかし、その目に見える「正義」に私は違和感を懐く。唐突ながら、先の大戦でフランスが解放された際、それまでナチの支配に迎合していた人たち、殊にナチの将校の愛人だった女性たちが善良なる市民によって丸刈りにされて殴られたりしている光景を連想した。ナチやヤクザの悪を徹底的に糾弾することは正しい。その「正義」を疑わない善良なる市民には「ナチやヤクザの人権」は見えない。問題をヤクザに絞れば、そもそも「ヤクザの人権」などというものを認めるべきだろうか。先のドキュメンタリイでは憲法第十四条(すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。)に言及していたが、果たしてヤクザは国民に含まれるのか。「見えるもの」だけを見ている限り、ヤクザは排除の対象でしかない。しかし、「ヤクザになるしかなかった人の真実」というものがあるのではないか。家庭にも学校にも居場所がなかったアウトサイダーが路上に出る。そして、いつしかアウトローのヤクザ組織に居場所を見出していく。言うまでもなく、アウトサイダーとアウトローの間には質的な断絶がある。私はアウトサイダーの進むべき本来の道を摸索する者ではあるが、アウトローへの転落は醜悪なる邪道だと思っている。ただし、アウトローを闇雲に排除するだけではその邪道に迷い込む可能性を断つことはできない。暴対法という「見えるもの」には限界がある。ヤクザの根絶には「見えないもの」の力が不可欠だ。

見えるものと見えないもの(3)

「見えるもの」並びに可視化ということを私は決して蔑ろにするつもりはない。むしろ、それは我々の一般的な判断にとって不可欠だ。教育現場における生徒の評価がその典型だが、何事も数値化して「見えるもの」にしなければ始まらない。世の中、すなわち水平の次元は「見えるもの」で動いている。勿論、生徒の能力は偏差値だけで理解できないし、国の力もGDPだけで判断することはできない。本当の力は「見えないもの」だ。しかし、我々は取り敢えず「見えるもの」で判断するしかない。「見えるもの」は現象であり、それは様々な方法で理解することができる。それに対して決して現象にならない「見えないもの」は如何なる現象学も受け付けない。では、「見えないもの」を理解する道はないのか。メルロ=ポンティの究極的な苦悩もそこに収斂すると思われるが、「見えないもの」の理解は我々の永遠の問題に他ならない。とは言え、我々は「見えないもの」に逃避してはならない。現実の「見える社会」がどんなに腐敗堕落していても、理想の「見えない社会」への憧憬を救いにすべきではない。実際、「見えないもの」の理解もさることながら、「見えるもの」の真実を明らかにすることも喫緊の課題であろう。余談ながら、私は最近『新聞記者』と題する映画と、そのモデルである東京新聞の望月衣塑子記者の活動を描いたドキュメンタリイを観て、メディアの闇の深さを痛感した。名張毒ぶどう酒事件や袴田事件をめぐる司法の闇も含めて、我々と真実の間には醜悪な壁がある。もとより心あるジャーナリストたちはその壁の破壊に日々励んでいるものの、日本のみならず世界で何が起きているのか、その真実を知ることは至難の業だ。だからこそ、権力が隠蔽しようとしている「不都合な真実」の可視化が切実に求められるわけだが、それを持続的に可能にするのは「見えないもの」の力ではないか。「見えるもの」の真実と「見えないもの」の真理は密接に関係している。

見えるものと見えないもの(2)

「百聞は一見に如かず」と言うが、人は通常、理解を可視化によって処理をする。象を知らない人にいくら言葉で説明しても埒が明かないが、写真を見せれば「これが象か!」と一応納得できる。しかし当然のことながら、写真を見ただけでは象を本当に理解したことにはならない。動画で見ても、動物園などで実際に象を見ても、象の本質は目に見えない。では、通常は目に見えない部分を解剖で明らかにしたり、血液検査や遺伝子分析などによって象を本当に理解することができるのか。それも所詮可視化の試みにすぎず、かなり象を詳しく知ることにはなるものの、やはり象の本質には辿り着けない。余談ながら、ネットで調べてみたら、「百聞は一見に如かず」の後には次のような続きがあるそうだ。

 

百見は一考に如かず(多くを見ても、考えなければならない)

百考は一行に如かず(多くを考えても、行動せねばならない)

百行は一果に如かず(多くを行動しても、結果を出さねばならない)

百果は一幸に如かず(多くの結果を出しても、幸福にならねばならない)

百幸は一皇に如かず(自分が多くの幸福を得ても、皆が幸福にならねばならない)

 

『漢書』にあるのは「百聞は一見に如かず」だけで、その続きは後世に付け加えられたものらしいが、「見ること」だけで満足できなかった事実は興味深い。とは言え、人は未だ「可視化による理解」という呪縛から自由になっていない。「見えないもの」を見えるようにする――極大の宇宙から極小の素粒子の理解。そこに人の大いなる進歩発展の歴史があることは間違いない。しかし、我々は「本当の理解」に近づいているのだろうか。

見えるものと見えないもの

星の王子さまは「本質的なものは目に見えない」とキツネから教えられたが、私の問題はそこから始まる。私は本当に美しいものを見たいと思った。しかし、「本当に美しいもの」は目に見えない。「美しい花がある。花の美しさというものはない」とは小林秀雄の言葉だが、美しさは花というモノを離れてあり得ない。私に見えるのは「美しい花」という現象であってイデアではない。かくして目に見えないイデアは「虚」として葬り去られ、目に見える現象だけが「実」として人々の問題となった。しかし、私は敢えてイデア、すなわち理想をこそ問題にしたい。余談ながら、最近始まったテレビドラマに『私は整形美人』という作品(原作はマンガ)がある。自分の顔の醜さに悩んできた女性が大学入学を期に「整形美人」に変身するものの、その事実が暴露されて…とドラマは展開していく。未だ二話までしか観ていないが、結末は凡そ予想できる。姫野カオルコにも『整形美女』という作品があるが、「本当に美しいものとは何か」がテーマであることは間違いない。ただし、ドラマとしての成否は「本当の美しさ」と「見た目の美しさ」との相剋によるだろう。果たして、「目に見えない美しさ」は「目に見える美しさ」を本当に凌駕できるのか。私はここに理想主義の問題中の問題を見出すが、それは「何処にもない場」としてのユートピアの実現という逆説にも通じている。

補足:問題中の問題

ヒトは苦しみ、人は悩み、人間は苦悩する。ヒトの苦しみは、全てのイキモノに共通するものであり、剥き出しのゾーエーの危機に瀕してもたらされる。直接イノチに関わるという意味ではイキモノにとって最も切実な問題だ。このヒトの苦しみが何とか解消されて初めて人は悩むことが可能になる。それはビオスの充実をめぐる悩みだ。ゾーエーの安泰が人生の大前提である現実は動かないが、人はそれだけでは満足できない。単に食欲を満たすだけではなく、もっと美味しいものを食べたいと思う。ゾーエーの食欲とビオスの美食への欲望。前者が「実」だとすれば、後者は「虚」だ。戦争や大災害の限界状況に直面すればビオスの次元など瞬時に吹っ飛び、ゾーエーの現実だけが残される。そして、この現実以外は全て不要不急の「虚」と化す。ここに人生の真実がある。しかし、人はこの真実を超えて悩む。たといこの「超える」ということが非倫理的な行為であったとしても、人はビオスの充実という真理を求めて悩む。余談ながら私は先日、久し振りに『太陽の季節』の映画を観た。この石原慎太郎原作の作品は当時非倫理的だと非難されたが、その主人公の青年は何に苛立ち怒っているのか。映画の最後の場面で、青年は亡くなった恋人の葬儀の遺影に仏具のおりんを投げつけて「バカヤロウ!」と叫ぶ。そして、驚く遺族たちに向かって「あんたたちは何もわかっちゃいないんだ!」と吐き捨てる。一体、何をわかって欲しいのか。青年の家庭は裕福で、食うに困らないどころか、その無軌道な学生生活は殆ど遊んで暮らしているようなものだ。後に「太陽族」と称された若者たちの生活は、戦争に苦しめられた旧世代の人たちには理解できないだろう。何が不満なのか。それは所詮、贅沢な悩みではないのか。この作品と同時代(一九五〇年代半ば)に、イギリスでは「怒れる若者たち」(Angry Young Men)が声を上げていた。その時代に対する苛立ちと怒りは「虚」かもしれないが、私はそこに私自身の問題中の問題を見出す。