補足:問題中の問題
ヒトは苦しみ、人は悩み、人間は苦悩する。ヒトの苦しみは、全てのイキモノに共通するものであり、剥き出しのゾーエーの危機に瀕してもたらされる。直接イノチに関わるという意味ではイキモノにとって最も切実な問題だ。このヒトの苦しみが何とか解消されて初めて人は悩むことが可能になる。それはビオスの充実をめぐる悩みだ。ゾーエーの安泰が人生の大前提である現実は動かないが、人はそれだけでは満足できない。単に食欲を満たすだけではなく、もっと美味しいものを食べたいと思う。ゾーエーの食欲とビオスの美食への欲望。前者が「実」だとすれば、後者は「虚」だ。戦争や大災害の限界状況に直面すればビオスの次元など瞬時に吹っ飛び、ゾーエーの現実だけが残される。そして、この現実以外は全て不要不急の「虚」と化す。ここに人生の真実がある。しかし、人はこの真実を超えて悩む。たといこの「超える」ということが非倫理的な行為であったとしても、人はビオスの充実という真理を求めて悩む。余談ながら私は先日、久し振りに『太陽の季節』の映画を観た。この石原慎太郎原作の作品は当時非倫理的だと非難されたが、その主人公の青年は何に苛立ち怒っているのか。映画の最後の場面で、青年は亡くなった恋人の葬儀の遺影に仏具のおりんを投げつけて「バカヤロウ!」と叫ぶ。そして、驚く遺族たちに向かって「あんたたちは何もわかっちゃいないんだ!」と吐き捨てる。一体、何をわかって欲しいのか。青年の家庭は裕福で、食うに困らないどころか、その無軌道な学生生活は殆ど遊んで暮らしているようなものだ。後に「太陽族」と称された若者たちの生活は、戦争に苦しめられた旧世代の人たちには理解できないだろう。何が不満なのか。それは所詮、贅沢な悩みではないのか。この作品と同時代(一九五〇年代半ば)に、イギリスでは「怒れる若者たち」(Angry Young Men)が声を上げていた。その時代に対する苛立ちと怒りは「虚」かもしれないが、私はそこに私自身の問題中の問題を見出す。
補足:苦悩の自負
「私には、誇るべき何もない。学問もない。才能もない。肉体よごれて、心もまづしい。けれども、苦悩だけは、その青年たちに、先生、と言はれて、だまつてそれを受けていいくらゐの、苦悩は、経て来た。たつたそれだけ。藁一すぢの自負である。けれども、私は、この自負だけは、はつきり持つてゐたいと思つてゐる」と太宰治は述べているが、私にはもうその「藁一すぢの自負」さえない。私は人間として生きることの苦悩をラディカルに問題にしたいと思ってきた。誰よりも深くその苦悩について思耕することが自分の使命だと信じてきた。そこに人間の「究極的な苦悩」の問題がある。もとより苦悩の比較など意味を成さない。外から見て下らないことでも、その本人にとっては切実な苦悩だ。バカだブスだと言われただけで自殺する幼稚な人もいる。パンの問題とパン以上の問題にも優劣はない。ならば何が「究極的な問題」を決めるのか。人それぞれに切実な苦悩がある。それぞれが絶対的な苦悩であろう。私にも私固有の絶対的な苦悩がある。しかし、それは私の個人的な苦悩ではない。私は性懲りもなく、それが人間の「究極的な苦悩」であることを信じている。その究極性を証明するつもりはない。証明しようにも、その手立てがない。それにも拘らず、私は人間の「究極的な苦悩」を問題にせざるを得ない。もはや太宰のような苦悩の自負はないが、苦悩する人間の問題からは永遠に逃れられない。
補足:「脱成長」とアルカディア
先に言及したテレビ番組の中で、斎藤幸平氏は「脱成長」の現実的なライフスタイルを求めて、かつてマルクスも注目していた北米の先住民イロコイ族の長老と話し合う場面があった。長老は「地球の主人は自然であり、人は自然に即して生活すべきだ」と語り、斎藤氏も賛同されていた。僭越ながら私の問題の文脈で言えば、これはアルカディアへの回帰に他ならない。確かに、際限のない欲望の充足に駆り立てる資本主義に逆行する「脱成長」は自然楽園としてのアルカディアに通じている。俗世のカイラクの果てにパラダイスがあるとすれば、そのアンチ・テーゼがアルカディアに見出されるのは理の当然だ。しかし、人はアルカディアに回帰できるだろうか。「脱成長」が「反成長」、すなわち成長を否定して未開状態に戻ることであるならば、それは明らかに不可能だ。ちなみに、アマゾンの「未知のイゾラド」が十年振りに出現したことが近頃話題になっていたが、イゾラドの野蛮なライフスタイルに憧れる人がいるだろうか。尤も、イゾラドを野蛮にしたのは文明社会からの圧迫であって、その野性の生活世界は本来平穏無事な調和社会だったと思われる。森林伐採で已む無く里に下りてきたクマ同様、行き場を失ったイゾラドも否応なく文明社会に現れたにすぎない。深い森の中で生息している限り、クマもイゾラドもそれぞれの調和を維持できる。しかし、里に出現すれば、直ちに射殺されるか、さもなければ家畜化されるか動物園などで見世物になるしかない。非文明の聖なる森と文明化された俗なる里。たとい前者がアルカディアだとしても、人はそれを失う運命にある。イゾラドも人である以上、その運命から逃れられない。それともクマと同じ運命を辿る方がイゾラドにとって幸福なのだろうか。何れにせよ、アルカディアの喪失、そこから問題は始まる。環境破壊の危機から聖なる森の回復が望まれるとしても、それはアルカディアへの回帰によってではない。
問題のある人生(10)
人は欲望の充足のために生きている。欲望は様々だ。大きな欲望もあれば、小さな欲望もある。美しく正しい欲望もあれば、醜く邪な欲望もある。欲望の大小はその人の器(才能)によるだろうが、欲望の美醜・正邪は何によって決まるのか。「大きな欲望が美しく、小さな欲望は醜い」ということはないし、「小さな欲望は正しいが、大きな欲望は邪だ」ということもない。例えば、「美味しい肉を腹一杯食べたい」という欲望はどうか。ヴィーガンにとっては肉食そのものが醜悪な欲望だが、世の大半の人はその快楽を捨てないだろう。ちなみに武田泰淳は「快楽」を「カイラク=爛れた欲情」と「ケラク=真の自由」に区別しているが、ケラクとしての欲望などというものがあるのか。肉食はカイラクとしての欲望だと見做されるのが一般的だが、ケラクとしての肉食はあり得るか。極めて難しい問題だ。泰淳の追求も結局は未完を余儀なくされている。しかし、その逆説の実現にこそ究極的な問題がある。確かに、欲望を滅却すれば問題はなくなる。「俗世の快楽(カイラク)から脱け出すことが、仏弟子たるものの快楽(ケラク)である」と言われるが、少なくとも今の私はそうした解脱としての「悟り」に問題を見出せない。カイラクとケラクは二律背反だが、その二つに引き裂かれることから問題は始まる。カイラクの否定による「問題のない人生」ではなく、カイラクとケラクに引き裂かれる「問題のある人生」を生きたい。カイラクの抑制による「脱成長」もさることながら、私にとってはカイラクの果てにあるケラクの真理こそが問題なのだ。カイラクを極めることがパラダイスへの道だとすれば、それを超越するユートピアを私は求める。おそらく、そこには「そんな抽象的なユートピアではカイラクの暴走を止められない」という危惧があるだろう。当然だ。その危惧を一掃するためには垂直の次元についての思耕を更に一層深めなければならない。カイラクは水平の次元で追求されるが、ケラクは垂直の次元で実現する。振り返ってみれば、私の問題は「この腐敗した世界に垂直の次元を立て直す」ということであった。世俗化によって失われた次元の再建、それは凡百の宗教復興と何が違うのか。私の「問題のある人生」は当分終わりそうにない。
問題のある人生(9)
人は何事もない日常を願うが、その日常が長く続くとやがて何事かが起きるのを期待し始める。言うまでもなく、二つの何事は次元を異にする。前者がゾーエーに災いをもたらす何かだとすれば、後者はビオスを充実させる何かだと言えよう。ゾーエーに危機が迫ればビオスの充実どころではない。当然のことだ。しかし、その当然のことがどうも当然ではなくなっているようだ。昨日『人新世の地球に生きる 経済思想家・斎藤幸平:脱成長への葛藤』というテレビ番組を観て、その感を強くした。周知のように、斎藤氏はマルクスの資本主義批判を改めて深く掘り下げ、経済的豊かさの追求に邁進してきた現代社会(人新世)に警鐘を鳴らしている。それが「脱成長」という言葉に集約されているが、その著書がベストセラーになったものの、「脱成長」の思想は実質的な支持が余り得られていないらしい。むしろ、トランプ再選に象徴されるように、世界は反「脱成長」に流れている。実際、アメリカだけではなくヨーロッパでも、気候変動よりも生活の安定が重要視され、環境保護のために企業活動を規制するよりも自由な経済活動による豊かさの追求を支持する市民が増えていると言う。もとより斎藤氏の「脱成長」は決して禁欲主義の強要ではないが、これまでの消費の欲望を抑制するものであることは否めない。戦争や災害などの非常時なら或る程度の欲望の抑制は可能だが、平時にそれを市民に求めることは至難の業だ。では、どうするか。環境破壊や経済格差に象徴されるゾーエーの危機を一層強調して、ビオスの充実など二次的な問題であるという認識を徹底させるのか。それが「脱成長」の基本だろうが、私は逆に今こそビオスの充実、すなわち「ビオスの真の充実とは何か」という問題に集中すべき秋だと考えている。ゾーエーの危機からビオスを抑制するのではなく、ビオスの理想からゾーエーを受け取り直すのだ。
問題のある人生(8)
芸術は様々に分類されるが、私にとって重要なものは言語芸術と非言語芸術という大別だ。前者は意味を問う芸術であり、後者は主に造形によって「言葉のない世界」を表現する。先日、私は「障害者の創造」は芸術ではないと述べたが、それは「芸術の本質は言語芸術にある」という私の偏見によるものにすぎない。「障害者の創造」に代表される「アール・ブリュット」は非言語芸術に限らないかもしれないが、言語(ロゴス)の次元を超えていることは明らかだ。そこには全く意味がない。無意味というより、反意味という感じがする。実際、障害者や幼児の創造する絵やオブジェは有用性とは対極に位置する「無用の長物」だ。「役に立つ=意味がある」とすれば、それは頑なに無用で無意味であろうとしているようにさえ見える。ところが、何の役にも立たない無意味なモノに人は感動する。そこに「言葉のない世界」の充実がある。それは言語(ロゴス)を超えた充実だ。その意味では、非言語芸術こそ真の芸術だと言うべきかもしれないが、私は敢えて言葉をつかって「言葉のない世界」を求めたい。問題から解放されるた めに「言葉のない世界」を求めるのではなく、「言葉のない世界」それ自体を問題にしたい。この逆説的な問題の追求に芸術の本質があると性懲りもなく私は考えている。
問題のある人生(7)
問題は言葉によって構成される。人生に意味を問うのも言葉があるからだ。言葉さえなければ「意味のない人生」という問題に苦悩することもない。それ故、人は「言葉のない世界」に憧れる。例えば、猫の世界に憧れる。言葉を持たない猫に問題はあり得ない。野良猫には食うための苦労があるが、それは問題にならない。どんなに悲惨な境遇を余儀なくされても、その野良猫は「問題のない生」を生きている。その悲惨な境遇に問題を見出すのは、言葉を持つ人の目に限られる。結局、ニヒリズムの根絶は問題からの解放であり、それは「言葉のない世界」において実現する。しかし、それは如何にして可能になるのか。或る詩人は述べている、「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかって」と。そして、その詩を「言葉を意味でわるわけにはいかない」と結んでいる。これはどういうことか。意味でわらない言葉とは何か。混迷は深まるばかりだ 。
問題のある人生(6)
「アール・ブリュット」(Art Brut)という言葉に出会った。Brutはフランス語で「生の、手を加えていない、元のままの」という意味で、「正規の美術教育を受けていない人のありのままの芸術作品」を「アール・ブリュット」と称するそうだ。その作者は障害者に限らないが、私の観たテレビ番組『no art, no life』では主に知的障害者の作品が紹介されていた。それを見て、私は感動した。そして、自分が感動したことに驚き、その驚きについて様々なことを考えた。率直に言って、私には「障害者の芸術」に対する偏見がある。勿論、障害者が無心に創造する絵やオブジェは素晴らしい。そこには「障害者なのに」という同情は全く介在していない。おそらく、作者が障害者である事実が隠されていても、私はその作品を素晴らしいと感じるだろう。しかし、その素晴らしい作品を私は芸術だとは思わない。障害者だけではなく、無垢の幼児も素晴らしい作品を創造するが、それも芸術ではない。マルクス曰く、「蜘蛛は織匠の作業に似た作業をするし、蜜蜂はその蝋房の構造によって、多くの人間の建築家を赤面させる。しかし、最悪の建築家を最良の蜜蜂よりも優越させるものは、建築家が蜜房を蝋で築く前に、それを彼の頭の中に築いているということだ。」すなわち、蜘蛛や蜜蜂は本能によって素晴らしい創造をするが、人は頭の中に生み出した表象を意志の力で主体的に創造するのだ。知的障害者を蜘蛛や蜜蜂と同等視するのは失礼かもしれないが、その創造に意志が欠如している点は共通しているのではないか。あるいは「無意識の創造」と言ってもいい。これは決して障害者の創造を貶めるものではない。むしろ、それは多くの芸術家にとって憧れの境地だろう。表象を意志の力で創造するとは言え、大抵は小賢しい技術が邪魔をする。技術不足もさることながら、究極的には技術そのものが創造の壁となる。鄙見によれば、この壁を打破して初めて真の芸術創造が可能となる。一般的に芸術家は技術の習得から始めるが、やがてそのディコンストラクションに向かわねばならない。技術の習得が芸術創造の往相だとすれば、技術のディコンストラクションは芸術創造の還相に他ならない。正にこの還相において、障害者の創造は凡百の芸術家の創造を優越すると思われる。ただし、厳密に言えば、私は障害者の創造が技術のディコンストラクションを実現しているとは思わない。そもそも障害者にとって技術の習得など問題ではない。更に言えば、障害者は技術で創造しているのではなく、純粋に本能の赴くままに創造している。確かに、その創造は素晴らしい。しかし、芸術創造ではない。もとよりそれが芸術かどうかなど障害者には問題にならない。創造したいから創造する。ただそれだけだ。誤解を恐れずに言えば、障害者は「問題のない人生」を生きている。その人生に問題を生み出す余地はないからだ。私はそうした障害者の「問題のない現実」を幸福だと羨むつもりもなければ不幸だと同情するつもりもない。ただ、問題が人生に意味を求める精神の病だとしても、私自身は「問題のある人生」を生きざるを得ない。アリョーシャ・カラマーゾフは「生に意味を問う前に生を愛すべきだ」と言った。「アール・ブリュット」は生への愛から直接生み出される。それは実に素晴らしいが、私は敢えて生に意味を問う芸術に執著する。やはり私は人としての道を踏み外しているのだろうか。
問題のある人生(5)
人は何のために生きているのか。「自分自身の幸福のため」と答える利己主義的な人が一般的だろう。これに対して、他者の幸福のために生きている利他主義の人も少数ながら存在する。よくあるドラマでは、底なしの善人である利他主義の主人公が活躍して、利己主義の支配する悪しき社会を浄化していく過程が描かれる。観ていてスカッとするが、果たして「利己主義が悪で、利他主義が善」と言い切れるだろうか。私は先日、『町田くんの世界』という奇妙な映画を観た。少女漫画が原作のファンタジーだが、町田くんは正に利他主義の典型的人物だ。彼は博愛の人で、困っている人、打ちひしがれている人がいると見過ごせない。誰にでも平等に愛の手を差し伸べる。そんな町田くんを利己主義の人たちは「無意味なことをしている」と嗤うが、内心そんな風に自然に生きられることを羨ましく思ってもいる。「無意味なこと」とは自分自身の得にならないことであるが、そうした損得を超越した世界への憧れがあるからだ。しかし、町田くんに恋した或る女生徒は「私だけを愛してよ!」と言い放つ。誰に対しても平等に優しい町田くんに苛立ったのだ。愛は惜しみなく奪う。全ての人を平等に愛することは本当の愛ではない。そう考えることにも一理ある。本当の愛は「A子ではなくB子を愛する!」という差別化を伴わざるを得ない。これは利己主義の愛にすぎないのか。確かに、利己主義は多くの問題を引き起こす。皆が利他主義に徹することができれば問題はなくなるだろう。しかし、その「問題のない人生」に理想はあるか。「利己主義の地獄から利他主義の天国へ」というドラマには何かが欠けている。
問題のある人生(4)
「問題のない人生」を求めて懸命に日々を生きている人を思うと、どんなに言葉を尽くしても「問題のある人生」を求める私の思耕は陳腐なものでしかない。不要不急の思耕として黙殺されても仕方がない。この点、私はもう開き直る覚悟を決めた。実際、私の思耕を必要とする人は殆どいないだろう。勿論、私の思耕は未熟で他人様(ひとさま)にお読み戴くレヴェルに達していない。それは重々承知している。しかし、せめて思耕の方向性、もしくは問題の究極性だけは少しでも共感されるよう努力を続けたい。それは或る作家の言葉を借用すれば「生命尊重以上の価値」を明示する努力でもある。今時、そんなものに共感を求めるのは愚の骨頂かもしれない。またぞろ特攻のような愚劣な使命を甦らせるのか。戦後民主主義は生命尊重を徹底させた。先の大戦で余りにも生命が蔑ろにされたことを反省すれば、それは当然のことだ。身捨つるほどの祖国はもはや存在しない。「生命尊重以上の価値」など反時代的な問題にすぎない。人は生命尊重の大原則に沿って「問題のない人生」を築き、その上で人生を充実させる娯楽や趣味に 興ずれば良い。それが人の幸福であり、パラダイスはその実現の場所を意味する。それはそれでいい。しかし、そうした時代の流れに逆行して、私は敢えてパラダイスを超える理想社会、「問題のない人生」を超える「問題のある人生」を求める。ただし、この逆行は戦中を含む戦前の価値観への逆戻りではない。かなり際どい、危険な賭けではあるが…。