新・ユートピア数歩手前からの便り -17ページ目

問題のある人生(3)

沖縄では「命(ぬち)どぅ宝」と言うそうだが、イノチほど大切なものはない。イノチがなければ何もできない。しかし、イノチがあれば何でもできる、というわけではない。イノチがあっても、自分の生き甲斐を失えば人はイノチを無にしたいと思うこともある。例えば、円谷幸吉選手。真実は本人にしかわからないので軽々に言うべきではないが、彼は怪我でマラソンができなくなってイノチを断ったように思われる。勿論、彼よりも重度の怪我に苦しんでいる人、あるいは生来の病気で歩くことさえできない人からすれば、その決断は贅沢だ。オリンピックという最高の舞台でマラソンができなくても走ることを楽しむことはできる。自由に歩いて何処にでも行ける。しかし、円谷選手は「最高レヴェルのマラソン」ができなくなった自分を許容できなかった。その生き甲斐を失った自分としてイノチを持続させることに耐えられなかった。その決断の是非は別として、そこでは生き甲斐がイノチよりも大切であったことは間違いない。もとよりイノチがなければ生き甲斐を追求することもできないが、生き甲斐を失えばイノチも涸れる。私は決してイノチを軽視するつもりはないが、ここでは生き甲斐を重視したい。円谷選手も怪我という災いさえなければ「問題のない人生」を送れたに違いない。しかし、それもマラソンという「使命としての問題」があったからこそ有意義なものであり得たのではないか。彼にとっては「問題のある人生」が生き甲斐なのであって、「問題のない人生」は絶望でしかなかった――僭越ながら私はそう思わずにはいられない。

問題のある人生(2)

言葉が絶望的に足りない。災いとしての問題と使命としての問題。こうした区別に基づいて、私が思耕する「問題のある人生」は後者だと主張したところで何になろう。共感は得られない。むしろ、「いい気なもんだ」と嗤われて無視されるに違いない。何故か。日本や世界各地の被災者は言うに及ばず、「災いとしての問題」に苦しんでいる人は後を絶たないからだ。そこでは「問題のない人生」こそが切実に求められる。「使命としての問題」が重要だとしても、それは「災いとしての問題」が根源的に解決してからのことだ。実際、被災地で日々過酷な現実と格闘している人、陰湿な虐めで身も心もボロボロになっている人にとって、「使命としての問題」など「問題のない人生」を前提にした上での趣味や娯楽でしかない。従って、全世界の人が「問題のない人生」を過ごせる社会、戦争のない、貧困のない、皆が本当に人間らしく生きられる自他共生の社会の実現こそが喫緊の課題だということになる。この理路は決して間違っていない。しかし、その理路を尊重しながらも、私はやはり「問題のない人生」の先を考えざるを得ない。「使命としての問題」は本当に趣味や娯楽にすぎないのだろうか。

問題のある人生

新しい年を迎え、多くの人が初詣に赴く。家内安全、商売繁盛、恋愛成就…。願いの内容は様々なれど、その根柢には問題のない、平穏な日々への祈念があるに違いない。昨年は能登で大災害が相次ぎ、今も過酷な現実と格闘している人がいることを思うと、尚更その思いを強くする。確かに、「問題のない人生」は幸福の原点だと言える。しかし、その場合の問題は自然災害や病気や怪我、あるいは失恋、失業といった他から我が身に否応なく降りかかってくる災いに他ならない。当然、災いなどないに越したことはないが、問題はそれだけではないと私は思う。問題は私にとって自らの生を充実させる使命のようなものだ。「人生は問題と格闘するためにある」と言ってもいい。従って、私は「問題のある人生」をこそ求める。ただし、一口に「問題のある人生」と言っても、その格闘は様々だ。数学や物理学の問題との格闘もあれば、貧困を根絶させる経済の問題との格闘もある。あるいは、囲碁や将棋など、総じてゲームの問題と格闘している人もいるだろう。それぞれの格闘に人生の充実があると思われるが、僭越ながら私は「究極的な問題」との格闘を望む。では、何が問題の究極性を決定するのか。私は何度も言及してきたカミュの『シーシュポスの神話』の冒頭を繰り返すしかない。すなわち、ガリレオの問題ではなく、「人生は生きるに値するか否か」――これが根本問題だ、というものだ。この判断には異論があるかもしれない。宇宙(コスモス)や人体(ミクロコスモス)の神秘を解明することこそ究極的な問題だという判断もあり得る。しかし、取り敢えず「問題のある人生」を前提にして、私の信じる「究極的な問題」について性懲りもなく今年も思耕していきたい。

寂しき人の糧

「心に慰めを要する苦痛あるなく、身に艱難の迫るなく、平易安逸に世を渡る人にして、神聖なる心霊上の記事を見るも、ただ人物批評または文字解剖の材料を探るにとどまる者は、些少の利益もこの書より得ることなかるべし」と内村鑑三は自著『キリスト信徒のなぐさめ』の自序に記している。では、如何なる人が内村の書を必要とするのか。それは内村と「共に心霊の奥殿において霊なる神と交わり、悲哀に沈む人霊と同情推察の交換をなさんと欲する者」だ。苦しんでいる人は世に尽きない。病気や怪我の苦しみ、経済上の苦しみ、その他諸々。人の苦しみは様々なれど、「悲哀に沈む人霊」と言うほどの苦しみは稀だろう。ましてや「心霊の奥殿において霊なる神と交わり」を求める苦しみとなると、それは宗教的人間に限られる。実際、内村の書は「キリスト信徒」を対象にしている。しかし、「キリスト信徒」は決して特別な存在ではない。更に言えば、特別な存在にしてはならない。人の苦しみの深みには宗教的次元が広がっている。それは当然、「キリスト信徒」に限定されるものではない。それ故、私はそれを垂直の次元と称したい。そこは単独者のみが神と対話できる寂しき次元だ。ただし、そこで得られる「なぐさめ」を生きる糧にしてはならない。人は苦しみの深みで垂直の次元に接するが、その後再び水平の次元に反転する必要がある。寂しき人の生きる糧はその反転によって生み出される。

反時代的関心

今年も終わる。殆ど何もできないまま今年も終わる。せめて自分の問題だけは明確にして、できるだけ多くの人に共感して欲しいと思ってきたが、それもどうやら徒労に終わりそうだ。単独者として生きる。孤高の例外者を気取るつもりなど更々ないが、私は時代に取り残されている。その現実を痛感する。BSの「世界サブカルチャー史:欲望の系譜」シリーズや最近流行のトレンドを話題にしたテレビ番組を観ていると、いくらボンクラの私でも「大衆が求めているもの」が何となく見えてくる。何が注目されるのか。何が売れるのか。その時代の流れが見えてくる。私も大衆の一人だから、そうした流れに関心がないわけではない。しかし、究極的な関心ではない。おそらく、究極的な関心は重く、大衆の口に合わない。大衆は軽快でテンポの良いものを好む。それが時代の流れであろう。究極的な関心は単独者にのみ相応しい反時代的なものだと見做されても仕方がない。さりとて、それは難解で重苦しいものである必要はない。むしろ、究極的な関心は本来軽やかなものだ。言い換えれば、重苦しさを突破した軽やかさに究極的な関心は宿る。もとより大衆の好み(軽快でテンポの良いもの)に迎合すべきではないが、大衆の関心を無視したくはない。少なくとも、低次元の関心として切り捨てるべきではない。私は単独者として生きるしかないが、決して連帯を諦めたわけではない。人間になることを断念したわけではない。まだ当分の間、寂しい日々に耐えなければならないが、覚悟の上だ。新しき年に期待したい。

補足:神と人が織り成す物語

名もなく貧しく美しい物語もあれば、名声を得て富裕で醜悪な物語もある。しかし当然、名もなく貧しく醜悪な物語もあるし、名声もあり富裕で美しい物語もあるだろう。生まれてきたからには美しい物語を生きたいと切に願う。しかし、「美しい物語」とは何か。昨夜、難民支援に奔走する松浦・デ・ビスカルド・篤子さんの物語をテレビで観た。その中に救いの話があった。カトリックの松浦さんが師と仰ぐ聖書学者の太田道子さんに「私は救われるでしょうか」と尋ねたところ、太田さんは大略次のように答えられたという。

「救われないわよ。私も救われない。何不自由なく暮らしている人に救いはない。救いは虐げられて、過酷な現実を余儀なくされている人たちにのみある。私たちはそうした虐げられた人たちの後についていくしかない。決して離れることなくついていくことで、かろうじて私たちに救いの可能性が開ける」

確かに、それが神の物語なのかもしれない。多分、そうだろう。私も善きサマリア人のように生きたいと思う。「行って、あなたも同じようにしなさい。」しかし、その一方で、「美しい物語」は醜悪なものを排除するのではなく、むしろ醜悪なものを包摂するという思いも棄て切れない。醜悪なものにこそ美は受肉すべきだと信じるからだ。余談ながら、三島由紀夫が『仮面の告白』の冒頭に引用しているドミートリイ・カラマーゾフの次のような言葉に私は激しく共感する。

 

美――美という奴は恐ろしい怕かないもんだよ!つまり杓子定規に決めることが出来ないから、それで恐ろしいのだ。なぜって、神様は人間に謎ばかりかけていらっしゃるもんなあ。美の中では両方の岸が一つに出合って、すべての矛盾が一緒に住んでいるのだ。俺は無教育だけれど、この事はずいぶん考え抜いたものだ。実に神秘は無限だなあ!この地球の上では、ずいぶん沢山の謎が人間を苦しめているよ。この謎が解けたら、それは濡れずに水の中から出て来るようなものだ。ああ美か!その上俺がどうしても我慢できないのは、美しい心と優れた理性を持った立派な人間までが、往々聖母《マドンナ》の理想を懐いて踏み出しながら、結局悪行《ソドム》の理想をもって終るという事なんだ。いや、まだまだ恐ろしい事がある。つまり悪行の理想を心に懐いている人間が、同時に聖母の理想をも否定しないで、まるで純潔な青年時代のように、真底から美しい理想の憧憬を心に燃やしているのだ。いや実に人間の心は広い、あまり広過ぎるくらいだ。俺は出来る事なら少し縮めてみたいよ。ええ畜生、何が何だか分りゃしない、本当に!理性の目で汚辱と見えるものが、感情の目には立派な美と見えるんだからなあ。一体悪行の中に美があるのかしらん?……
 ……しかし、人間て奴は自分の痛いことばかり話したがるものだよ。

 

「美しい物語」はキレイゴトでは済まされない。既に述べたように、「小さな物語」は人の言葉で書かれ、「大きな物語」は神の言で書かれる。そうした次元の異なる二つの物語が「人が人間になる」物語を織り出していく。私は途方に暮れるばかりだが、少しでもその神と人との祝祭共働に参与したい。

補足:「大きな物語」の受肉

人が神になる。神が人になる。人が人間になる。人が人として生きる「小さな物語」はどれもこれも愛おしい。他に適当な言葉が思い浮かばないので取り敢えず「愛おしい」と言っておくが、そこには実に複雑な感情が渦巻いている。崇高であると同時に猥雑。善人の「小さな物語」ばかりでなく、悪人の「小さな物語」も愛おしい。これは明らかに一般的な理解に反するものだ。極悪人の物語、例えばヒトラーの物語を愛おしいと言えるだろうか。ネオ・ナチの連中ならそう言うかもしれないが、彼らにとってヒトラーは英雄であって極悪人ではない。つまり、ヒトラーを愛おしく思う人はいても、極悪人の物語を愛おしく思う人はいない。当然だ。自分の愛する人を無惨に殺害した極悪人を愛おしく思う方がどうかしている。たといその人が極悪人になった経緯に情状酌量の余地があったとしても、その物語を愛おしく思う理由にはならない。むしろ、徹底した断罪こそが望まれる。余談ながら、私は山本周五郎の作品世界が好きだ。そこに展開する市井の「小さな物語」が愛おしいのは言うまでもない。私はいつまでも、できれば永久にその世界に浸っていたいと思う。それは単なる大衆(娯楽)小説ではなく、時に神の「大きな物語」が受肉する世界でもある。しかし、私はその先の物語にまで辿り着きたい。とは言うものの、神の言で書かれる「大きな物語」を人の言葉で理解することは不可能だ。実際、もし神が極悪人さえ赦される物語を書こうとするなら、人はそれを許容できるだろうか。マルメラアドフは自分のような酔っ払いのロクデナシ、自分の娘を娼婦にしてしまうような罪人さえ天国の末席に加えて下さる神様を信じているが、その醜悪な「小さな物語」に受肉する「大きな物語」とは何か。迷走は已まない。

補足:魂の糧としての物語

「すきとおったほんとうのたべもの」として童話を書いたのは宮澤賢治だが、私も物語は魂の糧だと思っている。人はそれなくして生きられない。と言うより、どんな生き方をしても、人生は物語になってしまう。たとい落丁や乱丁が目立っても、人は自分の物語から逃れられない。逃げたところで、その逃げたことが物語になる。だから、生きるしかない。どんなに悲惨で醜悪な展開を余儀なくされても、その物語を生きるしかない。できれば賢治のように、「すきとおったほんとうのたべもの」としての物語を生きたいと思う。遅くはない。これまでの物語を書き直すことはできないが、これから物語を新たに書くことは可能だ。しかし、当然のことながら、それは容易なことではない。余談ながら、私は今、坂元裕二の「それでも、生きてゆく」というドラマを観ている。もう何度も繰り返し観たドラマだが、また観始めている。これは或る幼女殺害事件の被害者家族と加害者家族の葛藤を描いたドラマだ。どちらの家族も過酷な物語を生きている。「もう死んだ方がマシだ」という現実を生きている。その人たちに「過去の悲惨な物語は早く忘れて、新たな物語を書くべきだ」などと軽々に言えるものではない。しかし、それにもかかわらず、「それでも、生きてゆく」と言えるとすれば、そこには「大きな物語」の受肉がきっとある筈だ。いや、なければならない。私はそのカイロスを待ち望む。

「大きな物語」をめぐる罪と罰(10)

世界は腐敗している。戦争、貧富の差、憎悪の応酬。児童虐待、性暴力、行き場所のない哀しみ。街で悲惨な事件が起きても、周囲の群衆はスマホで撮影して自分のSNSにアップすることばかり考えている。鬼束ちひろならずとも、こんな世界に生まれ堕ちたことを呪わずにはいられない。いっそ世界など滅びてしまえばいいのだ。余談ながら、最近のドラマには「世界の破滅」をテーマにしたものが目立つ。先日最終回を迎えた『全領域異常解決室』もその一つだ。これは古事記などの神話をベースに、不具の子として生まれた最初の神ヒルコが今の世界を滅亡させて修理固成をやり直そうとするドラマだ。主人公たち(実は神々)はヒルコが企てる「世界の破滅」を阻止すべく奮闘するが、腐りきった世界に救う価値があるのかという葛藤が常にある。実際、今の世界の救済よりも「世界の破滅」を望む人は少なくないのではないか。このドラマの他にも、現状世界を破壊して「世界の一新」を目指すテロリスト集団やカルト集団が登場するドラマは枚挙に遑がないが、当然ヒーローたちはそうした「悪の集団」と戦うことになる。しかし、本当に「悪の集団」なのか。最近のドラマではそうした疑念が強調される傾向が見られるものの、私には大きな不満がある。それは「世界一新のヴィジョン」が殆ど明示されないことだ。稀に示されることがあっても、陳腐で貧弱なヴィジョンでしかない。ヒルコが今の腐敗した世界を破滅させて修理固成をやり直すというなら、それも結構。しかし、どんな修理固成をするというのか。「新しき世界」とは如何なるものか。世界は腐敗しているとは言え、そこで誠実に「小さな物語」を生きている人は確実に存在する。この人たちの家庭の幸福もやはり諸悪の本なのか。結局、問題は「世界一新のヴィジョン」に収斂する。そして、それは「大きな物語」と密接に関係している。しかし、繰り返し述べているように、それは「小さな物語」を否定することではない。むしろ、「小さな物語」を真に生かすものだ。今後、世界の腐敗が進行すればするほど、「世界の一新」を謳う人々、殊に政治集団が華々しく登場してくるに違いない。その時、そこで語られる「大きな物語」には十分注意すべきだろう。おそらく、それは真の「大きな物語」には程遠い、醜悪なる大言壮語にすぎない。「大きな物語」の罪と罰を無視した政治集団こそ「悪の集団」に他ならない。

「大きな物語」をめぐる罪と罰(9)

相変わらずドラマを大量に観続けているが、ネットに配信されているものは殆ど倍速再生している。時間の節約のためだが、中にはどうしてもノーマルの速度で観たいドラマもある。また録画した映画やドラマは観終わった後に消去しているが、中には残しておきたい作品もある。繰り返し観たいからだ。古典落語などもそうだが、噺の内容は既によく知っているのに、どうして同じ噺を繰り返し何度も聴きたくなるのか。勿論、噺家の力量ということはある。名人の何度も聴きたくなる「芝濱」もあれば、もう二度と耳にしたくない「芝濱」もある。しかし、そうした話芸の優劣は別にして、「芝濱」という「小さな物語」には反復に堪える物語としての力がある。その力とは何か。「大きな物語」の力だと私は考えている。ただし、それによって「芝濱」が「大きな物語」になる、ということではない。「芝濱」はどんな名人が演じても「小さな物語」以上のものではない。しかし、様々な噺家の創意工夫を通じて、その「小さな物語」に感動が生まれるとすれば、それこそが「大きな物語」の受肉に他ならない。話芸にせよ、ドラマの演出にせよ、その名人芸は「大きな物語」の受肉をもたらすことではないか。もとより、そのような受肉は極めて稀だ。しかし、皆無ではない。そう信じて、私は受肉のカイロスを求めて日々ドラマを観続けているが、一つ気づいた問題がある。それは「大きな物語」の受肉とそれを擬した悪霊の憑依との差異だ。それを識別する明確な基準はなく、私はしばしば翻弄されている。例えば、次のような「ナチスの神話」。

 

「ここに国家的政治生活は彼ら(ナチス)の新しい世界創造の活動圏であり、これを中軸として新しい世界観が構成せられるのである。その結果、近代精神とは異なり、国家は単なる、一つの強力組織や権力機構ではなく、むしろ有機体的全体としての民族の統一的組織形態――正確には「民族共同体の最高の組織的現象形態」――として把握せられる。それは個々人またはその多数の利益と幸福とを保護し、社会の秩序を維持するための社会的形成物ではなくして、民族の精神生活の維持発展を図り、種族の保存と純化とをその最高使命とする、民族の創造である。けだし、近世「シュタート」の概念よりも広く、且つ、深い概念であって、むしろドイツ固有の「ライヒ」に該当し、有機体的統一として民族そのものの理念と合致するものである。」(南原繁「ナチス世界観と宗教」)

 

この「ライヒ(第三帝国)の神話」には明らかに「小さな物語」からの逸脱がある。されど、それは「大きな物語」の受肉ではない。それにもかかわらず、私も含めて、多くの人を魅了する魔力がある。更に恐るべきことは、その魔力と「大きな物語」は決して無関係ではない、という事実だ。むしろ、表裏一体なのかもしれない。ソドムの悪徳はマドンナの理想と共に「大きな物語」の罪と罰を演出する。