補足:真のドラマ
「ゾーエーの理由で殺人を犯すことがあっても、そこに真のドラマは未だない」と昨日述べたが、これは誤解を招きやすい言葉だったと反省している。私には「ゾーエーの理由」を軽視するつもりなど全くない。むしろ、「ゾーエーの理由」ほど人にとって切実なものはないと思っている。剝き出しの生が脅かされる時、人は何を仕出かすかわからない。自分のイノチを守るために、あるいは自分の愛する人たちのイノチを守るために、人は殺人でも強盗でも何でもしようとするだろう。しかし、犯罪の可能性は自然に現実性へと移行するわけではない。人がつくった規範(法や道徳)をヒトのゾーエーの本能が踏み越えるためには何かが必要になる。私はその何かを「論理」だと考えているが、犯罪へと踏み越えるにせよ、規範の内に踏み留まるにせよ、その葛藤がドラマを生み出す。例えば、誰かに殺されそうになった時、反撃して相手を殺そうとすべきか、それとも無抵抗を貫くべきか。その葛藤は既に「ゾーエーの理由」を超えて いる。言い換えれば、葛藤なしに、あるいは葛藤以前に、「ゾーエーの理由」だけで反射的(衝動的)に行動するなら、そこにはドラマはない。それをヒトがケダモノのように反応したドラマだと理解することは可能だが、少なくとも私は真のドラマだとは認めない。「ゾーエーの理由」は「小さな物語」の基本となる極めて重要なものであるけれども、それだけでは真のドラマにならぬことを改めて強調しておきたい。
「小さな物語」が要請する「大きな物語」(10)
歪んだ「大きな物語」は個々の「小さな物語」を抑圧するが、真の「大きな物語」は「小さな物語」を包摂する。ただし、その包摂は「大きな物語」が「小さな物語」に受肉することと逆対応しなければならない。尤も、「包摂と受肉の逆対応」と言っても抽象的で理解不能であろう。それは「超越と内在の逆対応」と言うに等しく背理を孕んでいる。しかし、背理は論理を排除しない。余談ながら、私は性懲りもなく日々テレビドラマを観続けているが、その殆どが下らないものばかりだ。と言うより、ドラマになっていない。何故か。ドラマを成立させる論理が欠如しているからだ。勿論、「何も起こらないドラマ」というものもあるが、大抵のドラマに事件は不可欠だ。例えば、殺人事件が起きる。犯人はどうして人を殺したのか。この世知辛い世の中、嫌な奴は巷に溢れている。かく言う私も誰かにとって嫌な奴なのかもしれない。実際、「殺してやりたい!」と思ったり思われたりするのは日常茶飯事だ。物騒な話だが、誰かを殺す理由は世界に渦を巻いている。しかし、現実に殺人を犯す人は稀だ。「殺す理由」があっても、それが「殺人の論理」にまで発展するとは限らないからだ。鄙見によれば、殺人事件のドラマは「殺す理由」と「殺人の論理」の間で生じなければならない。ところが、昨今の下らないドラマでは日常的な「殺す理由」の段階で殺人事件が起きてしまう。ドラマになっていない所以だが、こうした問題は人生についても言えるのではないか。私は先に「何も起こらないドラマ」というものもあると述べたが、何も起こらなくてもドラマである以上、そこには「論理」が必要だと考えている。言わば、何も起こらない「論理」だ。もはや誤解はないと思うが、事件らしい事件がないから「小さな物語」で、大きな事件が生じるから「大きな物語」だという区別は成り立たない。大きな事件があっても「小さな物語」であることに変わりはない。世界を劇場と見做し、人生にドラマを求めることと事件の有無・大小とは本来無関係だ。人が生きる。人生をドラマとして意識的に生きるかどうかに拘らず、そこには「論理」が要請される。「論理など無用だ、俺は自然にありのままに生きていく」と主張する人もいるかもしれないが、それも「論理」だ。更に言えば、私がここで問題にしている「論理」は単なる自然法則でもなければ合理性でもない。その人固有の生きるロゴスであり、ゾーエーの理由を超えるパトスでもある。人生のドラマはビオスにおいてロゴスとパトスが鬩(せめ)ぎ合う「論理」から成っている。従って、ゾーエーの理由で殺人を犯すことがあっても、そこに真のドラマは未だない。ヒトは本能(ゾーエーの理由)で生きるが、人は「論理」で生きる。どんなに非理性的な野蛮人でも、人として生きる以上、彼なりの生きる「論理」がある。例えば、ヤクザにはヤクザの「論理」がある。ヤクザ自身は「美学」と称するかもしれないが、それは醜悪な自己正当化にすぎない。ヤクザの「論理」は未熟な「論理」でしかないからだ。「論理」は成長する。そして、その成長する「論理」が「小さな物語」を織り出していく。当然、人それぞれ「論理」の成長は様々であり、それが「小さな物語」の多様性を生み出すことになる。しかし、その多様性にも拘らず、人の生きる「論理」は背理に直面する瞬間に襲われるのではないか。少なくとも私にとって、それは究極的で不可避な瞬間であり、その「永遠のアトム」を通じて「小さな物語」は「大きな物語」に包摂されていく。冒頭に述べたように、この包摂は「大きな物語」の「小さな物語」への受肉と逆対応すべきなのだが、結局、私の思耕は抽象的な堂々巡りから抜け出せないでいるようだ。下らないドラマを批判する資格など今の私にはない。
「小さな物語」が要請する「大きな物語」(9)
今年も早師走となり、殆ど仕事らしい仕事をしないまま暮れようとしている。もう若くはない私は焦燥感が募るばかりだ。私は自らの仕事を全うできるだろうか。この調子では到底無理だが、せめて何をしようとしているのかだけは明らかにしておきたい。私の仕事とは何か。それは人間の「大きな物語」を実現することだ。才能に恵まれた人は偉業を達成する。スポーツ選手なら偉大な記録を打ち立て、実業家なら莫大な富を築く。他の分野でも、凡人の想像を絶する偉業を成す人は数知れない。しかし、そうした非凡な人たちの物語は量的には実に大きいが、質的にはやはり「小さな物語」の範疇を出るものではない。勿論、「小さな物語」だからと言って、その偉大さに変わりはない。敢えて言えば、それは偉大な「小さな物語」だ。少なくとも私は偉大なスーパースターたちの華麗な物語にケチをつけるつもりはない。才能なき凡人の私はただただ憧れるばかりだ。しかし、私が自らの仕事として実現したい「大きな物語」はそこにはない。「大きな物語」は、それぞれの才能 とは別に、人が人として生きる限界を超越して人間になるドラマを織り出していく。問題はそのDramaturgieに他ならない。帝国主義や全体主義の歪んだ「大きな物語」を如何に劇的に超克し得るか。
「小さな物語」が要請する「大きな物語」(8)
津波が無数の小さな物語を押し流す。戦火が容赦なく小さな物語を焼き尽くす。しかし、瓦礫の山と化した場所から人々は新たな小さな物語を織り出していく。そこに大きな物語の出る幕はない。むしろ、邪魔だ。庶民の一般的な生活感覚すれば、公的なものには大きな物語を織り出す役割ではなく、個々の小さな物語を支援する役割のみが望まれる。当然、垂直の次元にも出る幕はない。小さな物語の舞台は水平の次元に限られるからだ。そもそも垂直の次元は「何処にもない場」なので物語の舞台にはなり得ない。従って、殆どの人は大きな物語や垂直の次元とは無縁に自らの「私的な生の充実」を第一に考える小さな物語を生きることになる。こうした個人主義を私は否定するつもりはない。勿論、他者の自由を侵害する悪しきエゴイズムは排されるべきだが、個人の自由は可能な限り尊重したい。それが大前提だ。人生の基本はあくまでも小さな物語にある。では、大きな物語と垂直の次元は個々の人生にとって全く余計なものでしかないのであろうか。決してそうではない、と私は信じている。ただし、その出る幕は「何処にもない場」であり、決して実定化されないものだ。実定化されるや否や、大きな物語も垂直の次元も歪んでしまい、図らずも小さな物語を抑圧する結果をもたらす。さりとて実定化されなければ、それらが人生において現実的な力を有することはない。ここに最大のディレンマがある。率直に言って、私は大きな物語を声高に主張する輩が嫌いだ。垂直の次元に絶対的な価値を見出す宗教に勧誘する輩も好きになれない。そこで問題にされている大きな物語も垂直の次元も醜悪な歪曲を避けられないからだ。大きな物語と垂直の次元の真理を明らかにする前に、そうした歪曲を糺すことに集中すべきなのかもしれない。
「小さな物語」が要請する「大きな物語」(7)
本日は憂国忌だ。大学生の頃に一度だけ憂国忌に参加したことがある。会場がどこだったか、もうすっかり忘れてしまったが、飯田橋の駅から歩いて行ったことだけ覚えている。道に迷いながらも何とか会場に辿り着いたものの、その雰囲気に驚いた。日の丸の鉢巻きをして戦闘服のようなものを身に着けている若者たちの群れが際立っていた。高名な文芸評論家の姿もあって、何か難しいことを話していたように思うが、そんな話など一切耳に入らず、ただただその場の雰囲気に圧倒されていたことを思い出す。何かが違う。ここには致命的な誤解が渦巻いている。私には違和感だけがあった。それは如何なる違和感であったのか。私は憂国忌に集った日の丸の若者たちの情熱が偽りだとは思わない。それもまた作家の檄に激しく共感する情熱であったに違いない。しかし、やはり何かがズレている。余談ながら、作家が東大全共闘と討論した際、「君たちが天皇と言えば、私も共に闘っただろう」と発言した。鄙見によれば、日の丸の若者たちも全共闘の若者たちも「日本も世界もこのままでは駄目だ!」という危機感において共通している。どちらも現代社会においてはアウトサイダー(異族)に他ならない。しかし、実際には右と左に分かれている。分岐点は何か。作家は天皇だと言う。では、天皇とは何か。私は「大きな物語」だと考えている。ただし、それは戦前の「天皇を中心とした八紘一宇」というような「大きな物語」ではない。むしろ、そうした古き「大きな物語」をディコンストラクションする新しき物語こそが求められている。性懲りもなく私はそう思い続けている。
「小さな物語」が要請する「大きな物語」(6)
一介の貧乏人の子が刻苦勉励して大富豪になる。単に自分の「私的な生の充実」を果たしただけではない。その財力で様々な福祉施設などに多大な寄付をして社会の改善と発展に尽力した。結果、世界中の人たちから「神の如き人」と崇められ、子供たちからも深く尊敬された。これが「大きな物語」だろうか。私は違うと思う。どんなに偉大な人の一生でも、それは水平の次元で織り出される「小さな物語」に他ならない。勿論、「小さな物語」だからと言って、その出世物語が輝いていることに変わりはない。むしろ、生の輝きは常に「小さな物語」にこそ宿る。余談ながら、幼い頃から私には「小説」という言葉に違和感があった。何故、「大説」ではないのか。無邪気な私は自らの人生に「大きな物語」を望んだ。チマチマした私小説的な「小さな物語」を超える大河の如き長編の「大きな物語」。しかし、世界の頂点を目指すような壮大なドラマも、その本質は「小さな物語」だ。端的に言えば、水平の次元で求められる「大きな物語」は必然的に歪む運命にある。その典型 が国家の夢見る「大きな物語」だ。先述したように、それは国民それぞれの「小さな物語」を抑圧することになる。従って、水平の次元に「大きな物語」など必要ないという主張にも一理ある。しかし、それにもかかわらず、「大きな物語」は我々の人生に不可欠だと私は考えている。その逆説的な必要性をどう表現すればいいのか。
「小さな物語」が要請する「大きな物語」(5)
最近のアメリカ大統領選や兵庫県知事選の結果を見ていると、何が真実なのか、どこに正義があるのか、全くわからなくなる。それぞれの人にそれぞれの真実があり、それがそれぞれの正義を生み出していく。今やネットで簡単に真実がつくられる時代であり、そうした真実の洪水の中で「本当の真実」を見出すのは至難の業だ。いや、不可能だと断言すべきなのかもしれない。と言うのも、人は「本当の真実」をめぐって争い合うからだ。重要なことは、他の人たちの真実を排除して自分の真実を「本当の真実」だと認めさせることではなく、様々な人の真実を超える「人間の真理」の次元を切り拓くことに他ならない。ただし、それは多様 な真実を絶対的な真理に統一することではない。それでは「本当の真実」を見出そうとすることと何も変わらないだろう。「人間の真理」は人の真実を排除しない。言うまでもなく、こうした私の「真実と真理の区別」は今のところ机上の空論でしかない。しかし、何とかして人の「小さな物語」の真実が人間の「大きな物語」の真理に受肉していく理想を実現したいと思っている。当然、これは私一人でできる仕事ではない。
「小さな物語」が要請する「大きな物語」(4)
私は戦後、それも「もはや戦後ではない」と言われた時代に生まれて本当に良かったと思っている。もし戦前、しかも青年期に戦争の渦に巻き込まれていたら、私は間違いなく発狂していただろう。尤も、発狂する前に戦死していたかもしれない。発狂にせよ戦死にせよ、私の「小さな物語」が大日本帝国の「大きな物語」に蹂躙される運命は不可避だ。戦艦大和の臼淵大尉のように、私は必死に「大きな物語」に殉じる意味を探し求めたに違いない。その時、私は大日本帝国の「大きな物語」を本当に信じることができただろうか。信じようとして信じ切れずに発狂するか、信じた振りをして散華するか。そうしたギリギリの選択を迫られない平和な時代に生まれたことを改めて喜びたい。もはや日本に「大きな物語」はない。恰も「大きな物語」が戦争を引き起こした最大の戦犯であるかのように非難され、人々は「大きな物語」が死滅した平和を享受している。然り!平和とは「大きな物語」が消滅した状態に他ならない。そこで人々はそれぞれの「小さな物語」の充実だけに没頭できる。正にパラダイス!尤も、戦争だけではなく、大災害もまた小さき人々の「小さな物語」を台無しにするが、大自然のもたらす運命はどう仕様もない。人の叡智が大自然を完全に制御できれば話は別だが、今のところそれは妄想でしかない。しかし、大自然のもたらす運命の克服は不可能だとしても、戦争の運命は何とか克服できるかもしれない。勿論、未だ戦火は消えず、世界の至る所に「大きな物語」が徘徊している。永遠平和の理想もまた妄想でしかないのかもしれない。しかし、たといそうであったとしても、「戦争の運命」の克服は「自然の運命」の克服とは質的に全く異なっている。少なくとも私は、人の叡智は「戦争の運命」の克服にこそ費やされるべきだと考えている。では、その克服は如何にして可能になるのか。鍵となるのはやはり「大きな物語」であろう。我々は本当に「大きな物語」なき永遠平和に耐えられるのか。これもまた杞憂にすぎないのか。
「小さな物語」が要請する「大きな物語」(3)
小さき人々の「小さな物語」、これ以上尊いものはない。「大きな物語」に束縛されて私は自分自身の「小さな物語」を台無しにしたが、「小さな物語」の充実に少しでも役立つ仕事をしたいという思いに偽りはない。しかし、日常生活を便利で快適なものにするモノづくりや技術開発、あるいはそれらを効果的に活かすシステムの構築といった実質的な仕事とは全く次元の異なる仕事を私は考えている。それは「小さな物語」それ自体が孕む問題、すなわち「私的な生の充実」のみに閉塞するエゴイズムについて思耕する仕事だ。「小さな物語」は尊いが、「家庭の幸福は諸悪の本」という言葉が象徴するように、常にエゴイズムによって歪んでしまう運命にある。余談ながら、このエゴイズムの問題に誰よりも深く苦しんだのが夏目漱石だ。ただし、漱石門下の高弟によれば、その漱石も晩年には「則天去私」の境地に辿り着いたと言われている。周知のように、こうした悟りすました「漱石神話」に嚙みついたのは若き江藤淳であった。私は江藤淳の読み込んだ「我執に苦しみ抜いた漱石」に深く共感するものの、漱石が「則天去私」という理想を懐いたという事実も無視できない。無論、江藤淳とてその事実を無視しているわけではないが、我々は改めて「則天去私」の真理について深く思耕する必要がある。そもそも「則天去私」は滅私奉公と何が違うのか。滅私奉公は古き「大きな物語」にすぎず、「則天去私」は新しき物語を要請する――そう言い得るためには如何なる真理が「則天去私」に求められるのか。その真理の追求こそ私のなすべき仕事だと信じているが、当然実質的な仕事のようにはいかない。おそらく、殆どの人は「虚」を彷徨うような仕事の必要性を認めないだろう。しかし、そこには実質的な仕事にはない究極性がある。たとい世の中の流れが究極性に逆行するものだとしても、私は自分の仕事に誇りをもって生きたい。そして、自らが真理を求める人間になろうとすると同時に、そうした人間の共働態を命が尽きるまで求め続けたい。
「小さな物語」が要請する「大きな物語」(2)
一般的言えば、国家の「大きな物語」は国民(庶民)の「小さな物語」を抑圧する。あるいは「小さな物語」は「大きな物語」に従属するのが当然だとされる。実際、戦争ともなれば「小さな物語」は「大きな物語」の完成のために犠牲を余儀なくされてきた。その深い反省からか、戦後は全てが一変した。「大きな物語」の罪が糾弾され、今度は逆に「小さな物語」に従属するものとされた。すなわち、国家という法的機関は国民それぞれの「小さな物語」の充実を支援するためだけに存在するものとなった。それは実質的に「大きな物語」の死に他ならず、その根柢には神の死があった。果たして、これは悦ばしきことだっただろうか。確かに、「大きな物語」の死=神の死によって国民は解放された。世俗化された社会で人はもはや国民であることに煩わされない。少なくとも、そのために死なねばならぬ大義は消滅した。もとより国民の義務はあるものの、それさえ果たせば個人の私的生活を楽しむことに好きなだけ集中できる。ここにパラダイスを見出す人は多いだろう。しかし、パラダイスは我々にとって究極的な理想社会だと言えるのか。究極性とか絶対性と絶縁した水平的な人が相対的な世界での幸福を満喫する自由を私は無下に否定するつもりはない。しかし、そうした水平的な自由が、例えばトランプ氏のような人物を支持する大きな原動力になっているとすれば、私はパラダイスを求める人たちの自由をやはり問題にせざるを得ない。それにもう一つ、水平的なパラダイスには看過できない問題がある。それは「小さな物語」はそれだけでは完結しないという現実だ。鄙見によれば、水平的な人々の「小さな物語」もまた「大きな物語」を求める運命にある。その一例が「Make America Great Again」という物語だ。しかし、これは古き「大きな物語」にすぎず、我々が本当に求めるべき新しき物語ではない。滅私奉公を強要するような「大きな物語」は死滅したとは言え、古き「大きな物語」の亡霊は今も現代社会に徘徊している。その亡霊の呪縛に打ち勝つためにも、我々は「小さな物語」に安住するパラダイスを克服しなければならない。言うまでもなく、その克服は「小さな物語」を蔑ろにすることではない。むしろ、それは「小さな物語」それ自体が要請するものだ。「私的な生の充実」を求めることには人の真実があるが、「公的な生の充実」を求めることには人間の真理が受肉する。