「小さな物語」が要請する「大きな物語」(4)
私は戦後、それも「もはや戦後ではない」と言われた時代に生まれて本当に良かったと思っている。もし戦前、しかも青年期に戦争の渦に巻き込まれていたら、私は間違いなく発狂していただろう。尤も、発狂する前に戦死していたかもしれない。発狂にせよ戦死にせよ、私の「小さな物語」が大日本帝国の「大きな物語」に蹂躙される運命は不可避だ。戦艦大和の臼淵大尉のように、私は必死に「大きな物語」に殉じる意味を探し求めたに違いない。その時、私は大日本帝国の「大きな物語」を本当に信じることができただろうか。信じようとして信じ切れずに発狂するか、信じた振りをして散華するか。そうしたギリギリの選択を迫られない平和な時代に生まれたことを改めて喜びたい。もはや日本に「大きな物語」はない。恰も「大きな物語」が戦争を引き起こした最大の戦犯であるかのように非難され、人々は「大きな物語」が死滅した平和を享受している。然り!平和とは「大きな物語」が消滅した状態に他ならない。そこで人々はそれぞれの「小さな物語」の充実だけに没頭できる。正にパラダイス!尤も、戦争だけではなく、大災害もまた小さき人々の「小さな物語」を台無しにするが、大自然のもたらす運命はどう仕様もない。人の叡智が大自然を完全に制御できれば話は別だが、今のところそれは妄想でしかない。しかし、大自然のもたらす運命の克服は不可能だとしても、戦争の運命は何とか克服できるかもしれない。勿論、未だ戦火は消えず、世界の至る所に「大きな物語」が徘徊している。永遠平和の理想もまた妄想でしかないのかもしれない。しかし、たといそうであったとしても、「戦争の運命」の克服は「自然の運命」の克服とは質的に全く異なっている。少なくとも私は、人の叡智は「戦争の運命」の克服にこそ費やされるべきだと考えている。では、その克服は如何にして可能になるのか。鍵となるのはやはり「大きな物語」であろう。我々は本当に「大きな物語」なき永遠平和に耐えられるのか。これもまた杞憂にすぎないのか。