物語の摸索(7)
「人が人間になる」物語に「人が国民になる」という場面は不可欠であろうか。国民国家が公的領域であることは間違いない。人は国民として生きることで「私的な生の充実」とは質的に全く異なる「公的な生の充実」を享受することができる。問題は、後者は前者以上の充実かどうか、ということにある。昨日言及した内村鑑三の墓碑銘に即して言えば、「I for Japan.」と言えることは人生至上の喜びなのか。もしそうであるならば、日本は絶対的なもの、言わばかつての大日本帝国のような神国でなければならない。勿論、一部の狂信的な右翼を除いて、今の日本に神国の復活を求める人は皆無だろう。しかし、「日本のために生きる」が「家族のために生きる」とか「会社のために生きる」という相対的な次元を超越するものであるならば、何らかの絶対性を帯びるのは理の当然だとも言える。少なくとも、その危険性は常に胚胎している。殊に「自分は何のために生きているのか」という虚無的な問いに沈み込んでいる若者たちは、その自分探しの旅の果てに「日本のために生きる」という絶対的な答えを見出すかもしれない。ただし、こうした危険性は何も日本および日本人に限ったことではない。西川長夫氏によれば、それは国民国家それ自体の危険性に他ならない。西川氏は次のように述べている。
「近代的国民国家、したがって国家間システムの形成以後、諸国家は国境と共に民族的な差異(国民nation 概念の形成、国民と外国人の区別、等々)を強調し、文化的差異の創出(国民精神、国民文化の形成、地方や民衆文化の抑圧)に専念する。国民化とは、文明化であると同時に、祖国のために死ぬ(さらには祖国のために他国の国民の殺害も辞さない)、民族的な誇りに満ちた国民文化の担い手を作り出すことを意味します。こうして国家は、あらゆる国家装置と教育機関を動員して自民族中心的な文化と心性を生み出し、他国の文化の流入を制限する一方で、国際的な孤立をまぬがれ、さらには他国との支配的—従属的関係を維持するために、友好的な交流の政策を掲げる。これは現に、日本だけでなく世界の各国で見られる現象です。」(「国民国家と異文化交流」)
長期化するウクライナやガザでの悲劇を思えば、国民国家の危険性は一目瞭然だ。もし国家というものがなければ、ユダヤ人とアラブ人はパレスチナの地で互いの差異を承認しながら結構仲良く暮らせていたかもしれない。パレスチナの地だけではなく、世界中からあらゆる領土問題が雲散霧消するだろう。正に「イマジン」の理想だが、我々は本当に国家なしで生きられるのか。確かに国家は危険なものだが、同時に甘美なものでもある。卑近な例を挙げれば、オリンピックなどのスポーツの国際大会で「日の丸を背負って戦う」ことには非常な生の充実がある(背負ったことがないので定かではないが)と思われる。当然、日本選手を応援する国民もその充実を共有する。尤も、最近の若い選手は日の丸など背負っておらず、純粋に自分の勝利のためだけに戦っているのかもしれない。つまり、オリンピックで金メダルを獲得しても、それはその選手の「私的な生の充実」にすぎない、ということだ。それならそれで構わないが、やはり私はそれ以上の「公的な生の充実」があると思う。それは国民国家を前提とした、「日の丸を背負って戦う」ような充実でもあるが、決してそれに尽きるものではない。国家は常に絶対化する危険性を孕んでいるものの、真の絶対性はそこにはない。因みに、先述したように、内村鑑三は「I for Japan.」に続けて、
Japan for the World;
The World for Christ;
And All for God.
と述べている。すなわち、日本は世界のためにある相対的なものにすぎない。では、この世界(全体)が絶対的なものかと言えば、そうではない。キリスト者の内村は「世界はキリストのためにあり、そして全ては神のためにある」と締め括っており、この世界もまた相対的なものにすぎず、神のみが絶対的なものであることを明言している。神に真の絶対性を見出すことに異論はないが、問題はその絶対的な神と世界の関係、更には世界における国家の意味であろう。国民国家のディコンストラクションは一筋縄ではいかない。
物語の摸索(6)
私はこれまで単純に、「水平の次元において人はそれぞれの私的領域を中心に生活しているが、垂直の次元への超越が公的領域での活動的生を可能にする」と理解していた。この理解それ自体は決して間違っていないと今でも信じているが、多くの誤解は必至だと思われる。その一つが「垂直の次元への超越が人を国民にする」という誤解だ。周知のように、日本は明治維新によって国民国家になったと言われている。余談ながら、内村鑑三の墓碑には、
I for Japan;
Japan for the World;
The World for Christ;
And All for God.
と刻まれているが、日本人は明治になって初めて「I for Japan.」と言えるようになった。それまでは「藩のため」とか「御家のため」ということはあっても、「身捨つるほどの祖国」はなかった。その是非は別に論じるとして、国民になった日本人に普く公的領域が与えられ、そこで生の充実が得られる道が切り拓かれたのは実に画期的なことだったと思われる。勿論、私的領域にだって生の充実はある。公的領域とは無縁の熊さん八つぁんも貧しいなりに人生の楽しさを満喫していたに違いない。しかし、公的領域における生の充実は質的に全く異なっている。ただし、それは国民として「御国のために」生きる、場合によっては「御国のために」死ぬ、というような充実ではない。ここに垂直の次元に関する致命的な誤解、かつての私も陥っていた誤解がある。そもそも「御国のために」生きる国民の充実なら「藩のため」とか「御家のため」という充実と基本的に何も変わらないだろう。単に武士や公家だけのものであった「滅私奉公の充実」が明治以降は一般庶民にまで徹底された、ということにすぎない。とは言え、武士も農民も職人も商人も同じ日本人(国民)として生きる御国(公的領域)の成立は画期的なことではあった。しかし、それは未だ「垂直の次元への超越」ではない。むしろ、依然として水平の次元にとどまるものだ。率直に言って、滅私奉公を強要するような御国は真の公的領域、少なくとも私が問題にしている公的領域ではない。では、真の公的領域での活動を可能にする「垂直の次元への超越」とは何か。その物語は国民国家の成立とどう関係するのか。
物語の摸索(5)
「ライオンとシマウマの抱擁」は寓話としてのみリアリティを有する。しかし、そのリアリティは真理になり得ない。何故か。ライオンとシマウマは「食うか食われるか」という真実の次元を超えて真理に生きることができないからだ。真実は水平の次元にあり、真理は垂直の次元を切り拓く。寓話はライオンとシマウマを擬人化して真理の世界で抱擁させるが、現実にはそんなことはあり得ない。しかし、そうした寓話のリアリティに基づいて真理を生み出す物語のリアリティを摸索することは可能ではないか。「ライオンとシマウマの抱擁」は不可能な物語だとしても、例えば「ユダヤ人とアラブ人の抱擁」は可能な物語ではないか。いや、必ず可能な物語にしなければならぬ。では、どうすればいいのか。言うまでもなく、真理を生み出す物語に必要とされるのは垂直の次元への突破に他ならない。ユダヤ人とアラブ人に限らず、水平の次元に閉塞し続ける人は民族対立による憎悪の応酬から完全に自由になることはない。利害の一致から暫定的な握手はできても、真の抱擁は遥か先にある。鄙見によれば、水平の次元の限界内でいくら和解を求めても、異化と同化を繰り返すだけだ。そこにはどうしても垂直の次元への突破、すなわち「人が人として生きる限界を超えて人間になる」真理の物語が要請される。ただし、誤解してはならぬ。「お前たちは敵だ。敵は皆殺しだ!」という異化の言葉が真実で、「あなたも私も人間だ。共に仲良く生きよう!」という同化の言葉に真理がある、ということではない。真理は異化と同化を超えた次元にある。
物語の摸索(4)
ライオンがシマウマを食う。生きるためにシマウマを食い殺す。その光景をテレビのドキュメンタリイで目にした無垢の少女が「シマウマさん、かわいそう…」と呟く。「かわいそうだけど仕方がない。これが世の中の真実なんだ」と傍らの父親が少女の頭を撫でる。少女は「世の中の真実は残酷なものだ」と思い、残酷な世の中で生きていくことに不安を覚える。こうした不安の学習は人生に不可欠だ。真実を知ることなく生きることは不可能だろう。たとい恵まれた環境で不都合な真実から遠ざけられて生活することが可能だとしても、そんな幸福に生きる意味はない。しかし、真実を知ることが不可避だとしても、そこには未だ人生の物語はない。真実を知ることは言わば物語の前提であって、真実と共に生きる不安から物語は生まれる。例えば、先の少女は「ライオンは生きるためにシマウマを食う」という真実に直面せざるを得ないが、「シマウマさん、かわいそう…」という思いは残る。そして、そのいたいけな思いから「かわいそうなシマウマさんを何とかして残酷な真実から救ってあげたい」と願う。正にその願いが「ライオンとシマウマが仲良き友になって抱擁する」という物語を夢見る。勿論、その夢物語は真実に反する。寓話として少女の不安を暫時癒すことができても、シマウマがライオンに無惨に食い殺されるという真実は微動だにしない。夢物語にリアリティはない。しかし、少女が人生に必要とするのは「ライオンとシマウマの抱擁」という物語ではないか。その物語にリアリティは不可能か。「ライオンは生きるためにシマウマを食う」という真実から目を背ける夢物語ではなく、その真実の凝視から「ライオンとシマウマの抱擁」という真理を生み出す物語は不可能か。所詮、私が摸索しているのは不可能な物語にすぎないのか。
物語の摸索(3)
最近の映画やテレビドラマを観ていると、グロテスクなもの、残酷な現実を徹底的に描くことがリアリティを生み出すという錯誤が蔓延しているように思われる。その錯誤はかつての日本の自然主義文学にも見出されるが、それは本来の自然主義の歪曲であると同時にリアリティの矮小化でもある。確かに、人とその社会には暗部がある。恥部と言ってもいい。品行方正に見える人も、その内実は性的倒錯者や快楽殺人者であったりする。表向きには正義の味方のような顔をして裏で悪事を為している人もいるだろう。その真実を暴くことにそれなりの意味があることは認める。必要なことだし、正しいことだとも思う。しかし、そこにリアリティはない。私はここで真実と真理を区別しておきたい。「たとい誰かがキリストは真理の外にあると証明しても、そして真理がキリストの外にあることが事実だとしても、私は真理よりもむしろキリストと共にありたい」とはドストエフスキイの有名な言葉だが、彼の言う真理は真実と言い換えるべきだと私は思う。すなわち、ドスト氏が真実よりもキリストと共にありたいと思うのは、キリストが真理だからだ。そして、リアリティとは真実の底の底から真理を生み出すことに他ならない。薄汚い「蒲団」には生活の真実があるかもしれないが、そこから真理を生み出せなければリアリティはあり得ない。真実を徹底的に暴く自然主義文学と真理を生み出そうとする理想主義文学。本来、両者は相即すべきだろうが、取り敢えず私はその対立から新しき物語を摸索したい。と言うのも、自然主義から見れば、理想主義は単なるキレイゴトでしかないからだ。真実と真理。「真理の物語」とは如何なるものであろうか。
物語の摸索(2)
ホロコーストの時代に「命のビザ」で多くのユダヤ人を救って「日本のシンドラー」として日本でも称賛された杉原千畝氏だが、ガザでの悲惨な紛争以降、最近は「どうして非道なユダヤ人を助けたのか」という非難が目立つようになったと聞く。おそらく非難しているのは軽薄な日本人だろうが、実に醜悪なことだ。もとより私はここで「ユダヤ人が本当に非道かどうか」を問うつもりはない。そもそも人の善悪を民族や国籍で判断しようとすること自体どうかしている。善いユダヤ人もいれば、悪いユダヤ人もいる。それはパレスチナ人でも日本人でも同じだろう。当然ではないか。しかし現実には、どうしても国民国家を基準に考えてしまう。一人でも邪悪なユダヤ人がいれば、その悪をユダヤ人の国民性に起因するものと思い込む。余談ながら、ザメンホフは「人類人主義に関する宣言」(Deklaracio pri Homaranismo)の中で「私は全ての人間にただ人間しか見ない。そして、私は全ての人間をただその人の個人的な価値と行為だけで評価する。(従って)人が私とは別の民族、別の言葉、別の宗教、別の社会階層に属しているという理由によるあらゆる侮辱や抑圧を、私は野蛮だと見做す」と述べている。言うまでもなく、こうした中立的な「人類人」(homarano)として生きることが一つの理想になるが、これは未だ遥か彼方の夢物語にすぎない。しかし、「中立的に生きる」とは何か。因みに私は先に「善いユダヤ人もいれば、悪いユダヤ人もいる」と述べたが、厳密には正しくない。二種類のユダヤ人がいるわけではないからだ。一人のユダヤ人が、時に悪人になり、時に善人になる。私は人が人として生きる限界を超えて「人間」になる物語を摸索しているが、それは単なる「善人の物語」ではあり得ない。さりとて悪を容認するつもりもない。人は善と悪に引き裂かれる。そして、引き裂かれたままだ。中立的な「人類人」に活路はあるのか。「人間」になる、その先の物語が見えない。
物語の摸索
大災害が起きた。多くの人が犠牲になった。幸い死を免れた人は更に生き延びるために水を求めた。そこに悪人がやって来て、自分の店のペットボトルの水を高額で売り始めた。その非道に怒りを覚えながらも、背に腹は代えられず、道行く人は高額の水を買った。悪人は大儲けした。ところが、そこから程遠からぬ場所で、善人が自分の店の水を無料で配っていた。善人は大損した。それから数年後、被災地は何とか復興を遂げた。悪人も善人もそれぞれの店を再開した。悪人は大儲けしたお金で商品を大量に仕入れて安売りをした。資金のない善人は価格競争では到底悪人の店に太刀打ちできない。結果、全く同じ品質の商品が悪人の店では善人の店よりもかなり安く買えた。街の人たちは皆、災害時の悪人の所業を忘れていない。当然、善人が何をしてくれたかも深く胸に刻み込まれている。さて、その後の物語はどう展開するのか。我々が望んでいる展開が現実になるのか。消費者が安い商品を求めるのは極めて自然だ。同じ商品なら一円でも安い方が良い。それにもかかわらず、敢えて高い商品を買う展開に如何なるリアリティがあるのか。一日や二 日のことではない。ずっと高い商品を買い続けることができるのか。余程の金持でもない限り無理だ。少なくとも一般庶民は、やはり背に腹は代えられず、一円でも安い商品を求めるだろう。同情されるだけの善人に物語のリアリティはない。
補足:壁
『映像の世紀 バタフライエフェクト』(壁:世界を分断するもの)を観て、ベルリンの壁はなくなったものの、世界には未だ多くの壁がある、むしろ急速に新たな壁が増え続けている現実を改めて思い知らされた。朝鮮半島の三十八度線の壁、インド・パキスタンの国境の壁、そしてパレスチナで伸び続ける壁。そうした政治的な分断の壁ばかりではなく、富裕層の豪邸群と貧困層のスラム街を分断する壁など、世界は明らかにゲイテッド・コミュニティ化している。自分たちの平穏無事な日常は自分たちで守るしかない。そのためには異分子の侵入を完全に遮断しなければならず、鎖と共に堅固な壁が必要とされる。難民の流入など以ての外だ。かくして我々は再び鎖国の時代を迎えようとしている。天下泰平は鎖と壁によってしか実現しない――それが今の世界の現実だ。しかし、広大な未知の宇宙に飛び出していこうという秋(とき)に、狭い地球の上で一体我々は何をしているのか。ちまちまと壁を築いて、それぞれの家庭の幸福に安住しているだけでいいのか。とは言うものの、我々は壁なしで生きられるのか。無理だ。壁がなければ私の部屋とあなたの部屋を区別することができない。全ての壁をなくして一堂に会して生活することが人間の理想なのか。とんでもない!そんな全ての牛を黒くしてしまうような一堂で祝祭共働が実現する道理がない。人間にも壁は必要だ。単独者として生きる時間と空間にとって壁は不可欠だからだ。ただし、人にとっては分断をもたらすだけの壁は、人間には相互の主体性を承認し合う結界となる。もとよりこんな理屈だけで世界を根源的に変革することなど到底できないが、分断としての壁の超克がユートピア実現にとって喫緊の課題であることは間違いない。言うまでもなく、それは殆ど不可能に近い課題だ。先述したように、壁の超克どころか、現実の世界には急速に新たな壁が増え続けている。しかも目に見える壁だけではなく、目に見えない壁も至る所に生まれている。かつてアメリカには黒人の生活圏と白人の生活圏との間には厳然たる壁があった。その見えない壁は公民権運動によって撤廃された筈だが、依然としてBlack Lives Matterのような運動を余儀なくされている。他にもトランプ支持を巡るアメリカ市民の分断など、壁はますます増える一方だ。当然、これは日本にとっても対岸の火事ではあり得ない。何れにせよ、現状は軽々に「壁の超克」などと口にできる段階ではないが、それを百も承知の上で、何とかして道を切り拓きたいと思っている。一から勉強の為直しだ。
補足:制圧法
最近の刑事ドラマの傾向として、警察権力の更なる強化拡大を企む上層部(キャリア)の野望とそれに翻弄される現場の警察官(ノンキャリア)の葛藤というテーマが目立つ。ここで留意すべきは、上層部の野望は何も自分たちの利権のためではなく(全くないとは言えないが)、あくまでも日本国民の安心安全な日常生活をより確実に守るという大義に基づいている、ということだ。因みに最近観た『S-最後の警官-』というドラマでは、ダッカ事件で超法規的措置を余儀なくされてテロリストに譲歩したという苦い経験を持つ警察庁OBが、警察法第二条を「改正」して現場の警官(主としてSAT)にテロリストの生命まで奪える権限を与える「制圧法」なるものを画策する場面があった。増加し続ける凶悪事件に歯止めをかけるためには「制圧法」も已む無しとする容認派もいれば、それは「命のハードル」を下げる悪法だとして反対する者もいる。後者の一人は「どんな凶悪犯でも決して殺してはならず、生きてその罪を償わせるべきだ」と主張する。それに対して「制圧法」を支持する同僚は「そんなキレイゴトを口にできるのは愛する人を殺されたことのない者だけだ」と反論する。私は昨日、「アラブ人がいる限り安心して暮らせない」としてアラブ人の殲滅を願う右傾化したイスラエルの狂信者とあくまでもユダヤとアラブの融和の可能性を求める冷静な人たちとの対比を問題にしたが、実際に自分の家族や親しい友人知人が殺されれば、「それでも冷静でいるべきだ」とは到底言えないだろう。しかし、それにもかかわらず、あらゆるものを善と悪に截然と区別して、悪の全否定に突っ込んでいくような生き方はやはり正しくない。孔子曰く、罪を憎んで人を憎まず。そもそも誰がどのようにして善と悪を区別するのか。「制圧法」の是非は畢竟死刑の是非にも通じるが、凶悪犯にも更生の余地を与えていいものかどうか。「人は道を誤っても何度でもやり直せる」と信じたいが、凶悪犯に殺された人の無念(二度とやり直せない!)を思えば、それもまた「冷静なキレイゴト」でしかないのかもしれない。そこに人として生きる限界がある。人は愛と憎悪に引き裂かれ、憎悪に駆られた暴力の応酬から抜け出せない。この限界を超えて「人間になる」には一体どうすればいいのか。
補足:治安維持法
治安維持法の悪名は高いが、それを必要とする人は確実に存在する。事実、GHQによって廃止されても、数年後には破防法(破壊活動防止法)として実質的に復活している。そもそもアメリカにだってマッカーシズムの嵐が吹き荒れ、マッカラン国内治安維持法や共産主義者取締法が成立しているではないか。洋の東西を問わず、イヌであれアカであれ、危険なものは鎖で縛り付けておくに限る。それが現実だ。鎖だけでは心配であれば檻に閉じ込め、それでも安心できなければこの世から抹殺するに如くはない。先日、『“正義”はどこに:ガザ攻撃1年・先鋭化するイスラエル』と題するNHKスペシャルを観たが、イスラエルの人々にとってハマスは自分たちの治安を脅かす癌でしかなく、癌は徹底的に切除する他はないというのが大方の国民世論のようだ。従って、イスラエル軍によって多くのパレスチナの人たち(赤ん坊や幼い子供も含む)が犠牲になっても、それは已むを得ぬ自衛権の行使として正当化される。その自衛権とやらは大国アメリカによって強力に支持され、ウクライナ問題同様、国連は機能不全に陥っている。言うまでもなく、複雑なパレスチナ問題に関して私に何か打開策があるわけではない。むしろ、イスラエル国民の大半が頑なに右傾化し、ユダヤとアラブの対立を「善と悪との戦い」だと信じ込み、熱狂的に悪の殲滅を求めている現状には途方に暮れるばかりだ。勿論、これはパレスチナ側においても同様だろう。互いに相手を悪と決めつけての暴力の応酬に救いはない。しかし、かすかな希望と思われるのは双方に「話し合い」を求める冷静な人たちが存在することだ。イスラエルについて言えば、即時停戦を政府に求めるデモなどが行われている。問題は、ユダヤとアラブの相互理解を摸索する冷静な人たちが政府によって治安を乱す危険分子と見做され、右傾化した多くの国民から非国民として弾圧されていることだ。殆どの国民が一方向だけを見ている時に別の方向を指し示す――この勇気ある行為を「治安維持に反する」の一言で否定していいものかどうか。治安維持に関する問題の根は深い。