物語の摸索(6)
私はこれまで単純に、「水平の次元において人はそれぞれの私的領域を中心に生活しているが、垂直の次元への超越が公的領域での活動的生を可能にする」と理解していた。この理解それ自体は決して間違っていないと今でも信じているが、多くの誤解は必至だと思われる。その一つが「垂直の次元への超越が人を国民にする」という誤解だ。周知のように、日本は明治維新によって国民国家になったと言われている。余談ながら、内村鑑三の墓碑には、
I for Japan;
Japan for the World;
The World for Christ;
And All for God.
と刻まれているが、日本人は明治になって初めて「I for Japan.」と言えるようになった。それまでは「藩のため」とか「御家のため」ということはあっても、「身捨つるほどの祖国」はなかった。その是非は別に論じるとして、国民になった日本人に普く公的領域が与えられ、そこで生の充実が得られる道が切り拓かれたのは実に画期的なことだったと思われる。勿論、私的領域にだって生の充実はある。公的領域とは無縁の熊さん八つぁんも貧しいなりに人生の楽しさを満喫していたに違いない。しかし、公的領域における生の充実は質的に全く異なっている。ただし、それは国民として「御国のために」生きる、場合によっては「御国のために」死ぬ、というような充実ではない。ここに垂直の次元に関する致命的な誤解、かつての私も陥っていた誤解がある。そもそも「御国のために」生きる国民の充実なら「藩のため」とか「御家のため」という充実と基本的に何も変わらないだろう。単に武士や公家だけのものであった「滅私奉公の充実」が明治以降は一般庶民にまで徹底された、ということにすぎない。とは言え、武士も農民も職人も商人も同じ日本人(国民)として生きる御国(公的領域)の成立は画期的なことではあった。しかし、それは未だ「垂直の次元への超越」ではない。むしろ、依然として水平の次元にとどまるものだ。率直に言って、滅私奉公を強要するような御国は真の公的領域、少なくとも私が問題にしている公的領域ではない。では、真の公的領域での活動を可能にする「垂直の次元への超越」とは何か。その物語は国民国家の成立とどう関係するのか。