新・ユートピア数歩手前からの便り -22ページ目

禁止することを禁止する(10)

私は一瞬、我が目を疑った。図書館へ行く途中、リードを繋いだペットと散歩している女性を目にしたが、そのペットというのが猫!今や猫もリードに繋がれる時代になったのか。犬は既にほぼ完全に人の管理下に置かれている。もはや街で野良犬を見かけることはない。万一見かけても誰かが直ちに保健所に通報して然るべき処分がなされるだろう。しかし、野良猫は違う。未だ街のあちこちでよく見かける。猫は自由だ…と思っていたが、その猫もリードに繋がれる日が訪れるとは!勿論、犬と猫ではそれぞれリードに繋がれる理由は異なる。それは人を襲う危険性の度合に応じたものであり、鋭い牙を有する犬に比べれば、猫は「化け猫」以外は安全だ。猫に繋がれたリードは逃走を防ぐために違いない。しかし、どちらにしても「人の管理下に置く」という意味に変わりはない。猫もまた犬と同じ運命を辿るのであろうか。そして、その運命は猫にとっても犬にとっても幸福なことであろうか。私は不意に、大杉栄の「鎖工場」を思い出した。「鎖はわれわれを保護し、われわれを自由にする神聖なるものである」という論理を主張する奴等がいる。大審問官だ。確かに、この論理の下で生活すれば幸福になれるかもしれない。しかし、それでいいのか。私は改めて、次の言葉に耳を傾けたい。

 

俺は再び俺のまわりを見た。

ほとんどなまけものばかりだ。鎖を造ることと、それを自分のからだに巻きつけることだけには、すなわち他人の脳髄によって左右せられることだけには、せっせと働いているが、自分の脳髄によって自分を働かしているものは、ほとんど皆無である。こんな奴等をいくら大勢集めたって、何の飛躍ができよう、何の創造ができよう。

俺はもう衆愚には絶望した。

俺の希望は、ただ俺の上にかかった。自我の能力と権威とを自覚し、多少の自己革命を経、さらに自己拡大のために奮闘努力する、極小の少数者の上にのみかかった。

俺達は、俺達の胃の腑の鍵を握っている奴に向って、そいつらの意のままにできあがったこの工場の組織や制度に向って、野獣のように打っつかって行かなければならぬ。

俺達は、恐らくは最後まで、極小の少数者かも知れぬ。けれども俺達には発意がある、努力がある。そしてこの努力から生じた活動の経験がある。活動の経験から生じた理想がある。俺達はあくまでも戦闘する。

戦闘は自我の能力の演習である。自我の権威の試金石である。俺達の圏内に、漸々になまけものを引寄せて、そいつらを戦士に化せしめる磁鉄である。

そしてこの戦闘は俺達の間の生活の中に、新しき意義と新しき力とを生ぜしめて、俺達の建設しようとする新しい工場の芽を萌ましめるのである。

ああ、俺はあんまり理窟を言いすぎた。理窟は鎖を解かない。理窟は胃の腑の鍵を奪い返さない。

鎖はますますきつく俺達をしめて来た。胃の腑の鍵もますますかたくしまって来た。さすがのなまけものの衆愚も、そろそろ悶え出して来た。自覚せる戦闘的少数者の努力は今だ。俺は俺の手足に巻きついている鎖を棄てて立った。

俺は目をさました。とうに夜も明けて、八月なかばの朝日が、俺のねぼけ面を照りつけている。

 

これを夢物語に終わらせてはならぬ。犬や猫の運命は今や人の運命でもある。「禁止することを禁止する」――それはあらゆる鎖を棄て去ることに他ならない。しかし、我々はそれによく耐えられるか。鎖は我々を縛り付けるものではあるが、同時に我々を安全に守ってくれるものでもある。凶悪な犯罪者どもを鎖に繋いでいてくれるからこそ、我々は安心して日々平穏に暮らすことができる。鎖なき自由は危険だ。自由から逃走する大衆も出てくるに違いない。ならば「鎖はわれわれを保護し、われわれを自由にする神聖なるものである」という大審問官の下での自由を受け容れるべきか。これはパラダイスで満足するか、それとも更にユートピアの理想を求めるか、という決断によるだろう。「禁止することを禁止する」――誰がこの火中の栗を拾うのか。

禁止することを禁止する(9)

かなり以前のことだが、初夏の昼下がりの山手線で一人の若い黒人女性が英語で通話している場面に遭遇したことがある。特に声を潜めることもなく、むしろ傍若無人といった感じで堂々と通話している姿は明らかに目障りかつ耳障りであった。しかし、皆すぐに下車するし、わざわざ外国人を英語で注意する面倒よりも、少し我慢した方が得策だと思って見て見ぬ振りをしていた。私も例外ではない。触らぬ神に祟りなし。ところが驚いたことに、或る中年の日本女性がその黒人女性の振る舞いを窘(たしな)める挙に出た。勿論、英語で。その勇気ある日本女性は見るからに知性と正義感に溢れ、日本でのマナーに疎い外国人の無知に耐えられず、自分には教育的指導を施す義務があると決意したかのようであった。しかし更に驚いたことに、窘められた黒人女性は突然怒り出した。日本女性は決してキツク注意したわけではない。むしろ優しく、日本語で表現すれば「車内での通話は遠慮すべきですよ」という感じで黒人女性に話かけていた。しかし英語でのコミュニケーションが上手く取れなかったのか、黒人女性は恰も自らの人権が侵害されたかのように興奮し、「私が外国人だから、黒人だから、注意するのか!」と取り付く島がない。それでも日本女性は誤解を解こうと必死に言葉を重ねたが、結局、黒人女性は「Don’t touch me!」と捨て台詞を吐いて、次の停車駅で下車していった。後に残された日本女性の悲しそうな表情が今でも忘れられない。さて、何故こんなことを思い出したかと言うと、「多言語・多文化主義」の理想を実現することは全く至難の業だと改めて考えているからだ。先の黒人女性の不可解な振る舞いもさることながら、山手線の車内などで英語や中国語で大声張り上げて騒いでいる外国人のグループを目にすると私は不快になり、俄かナショナリストとして「ここは日本だぞ!」と叫びたくなる。「攘夷!」とまでは思わないが、日本の生活習慣を無視した傍若無人な外国人は入国禁止にすべきだとは思う。私は国粋的な排外主義者なのだろうか。日本人及び日本文化というものを私は決して固定したものだとは考えていない。そもそも純粋な日本人もしくは日本文化というものがあるだろうか。他民族との混血や様々な外来思想との出会いによる変容は不可避だ。しかし、その変容の在り方に「日本的なもの」があるのではないか。その「日本的なもの」は外国人や外来思想の禁止によって維持されるような純粋なものではなく、むしろそうした禁止を禁止することによるクレオール化にも耐え得るものだ。とは言え、それはやはり現実には至難の業だ。「多言語・多文化主義」の理想は未だ遥か遠く、目の前の日本はどう見ても独立国の体を成していない。真の独立を求めるナショナリスト(保守主義者)にも一理あると言わざるを得ない。

禁止することを禁止する(8)

殆ど誰にも届かない便りだが、自分のこれまでの思耕を整理するためだけに書き続けている。しかし、絶望は深まるばかりだ。書けば書くほど空虚しくなる。率直に言って、私の思耕など現実には何の役にも立たない。ウクライナでもガザでもミャンマーでも、そこは力が支配する世界であり、私の出る幕はない。「垂直の次元が…」と言葉を発する前に打ち殺されるだろう。それは何も紛争地域だけのことではない。学校や職場の日常でも力が支配しているのは明らかであり、虐めやパワハラ・セクハラなどに苦しんでいる人は後を絶たない。無力な私に何ができるのか。虐めやパワハラ・セクハラをする人たちの暴力を上回る強大な力を得て成敗するに如くはないが、それは私の本意ではない。尤も、私の本意などとは関係なく、この世界(水平の次元)は善の力と悪の力の鬩ぎ合いであり、そのパワー・ゲームから逃れることは不可能だ。余談ながら、『踊る大捜査線』という刑事ドラマの再放送を観ていたら、「正しいことをしたけりゃ偉くなれ!」というセリフがあった。このかつての人気ドラマは基本的に下らないが、その背景には本庁のキャリアと所轄のノンキャリアの対立という構図がある。主人公のノンキャリアのハミダシ刑事は事件現場で正しいことを貫こうとしても、それは上司であるキャリアに諒承されない。むしろ、妨害される。ノンキャリアに主体性はなく、常にキャリアの駒として動くことが要請される。だから、「正しいことをしたけりゃ偉くなれ!」ということになるわけだが、権力を持てば本当に正しいことができるだろうか。確かに、権力がなければ自分が正しいと思うことを命令できない。しかし、本当に正しいことは命令によって実行されるものではない、と私は思う。所詮、これもキレイゴトでしかないのかもしれないが、現場に生きる無力なノンキャリアにしか見えない正しいこともあるのではないか。すなわち、「事件は(ノンキャリアが走り回る)現場で起きているのであって、(キャリアが命令を下す)会議室ではない!」ということだ。とは言え、ドラマでは無力なノンキャリアが現場で破天荒な活躍をするが、現実には到底あり得ないことだろう。現場でも会議室でもやはり力がなければどうにもならない。絶望は更に深まるばかりだ。

禁止することを禁止する(7)

言葉は無力だ。戦車に勝つのは夢物語にすぎない。それにもかかわらず、人間は無力な言葉の力を信じる他はない。人は無力な言葉に絶望するしかないが、人間は「無力な言葉の力」に希望を懐くことができる。しかし、「無力な言葉の力」は論理的に明らかに破綻している。どうして無力な言葉に力があるのか。「人は水平の次元にしか生きられないが、人間は垂直の次元へと超越することができる。そして、水平の次元において無力な言葉は、垂直の次元においてその無力であることが新たな力となる」、と言っても詭弁にしか聞こえないだろう。無力の力、もしくは力を無化する力。それは「柔よく剛を制す」ということではない。強者の力を利用して弱者が勝っても、力の支配は変わらない。依然として水平の次元にとどまったままであり、未だ垂直の次元への超越はない。ちなみに「重力と恩寵」と言うと何か宗教臭くなるが、垂直の次元は重力に支配されないものの、それは無重力ということではない。この点、到底上手く表現できないが、水平の次元と垂直の次元という区別は所謂「二世界論」に基づくものではない。繰り返し述べているように、垂直の次元は「どこにもない場」であり、現実に場所として存在するのは水平の次元しかない。従って、垂直の次元への超越とは、俗なる水平の次元を脱して聖なる垂直の次元に移行することではなく、あくまでも水平の次元の反復(受け取り直し)、あるいは垂直的なものの水平の次元への受肉に他ならない。その受肉を恩寵と称することも可能だが、私には未だよくわからない。何れにせよ、水平の次元は「力が支配する世界」であり、その暴走を制御するために様々な禁止事項が必要になる。それに対して、垂直の次元は「力が無となる世界」であり、「禁止することを禁止する」ことが要請される。では、垂直の次元の「無力」は水平の次元の「力」に如何にして切り込んでいけるのか。

禁止することを禁止する(6)

最近、NHKスペシャルでミャンマーの軍事政権が民主化を求める民衆に対して発砲を含む酷い弾圧を行っている様子を見た。それは以前の番組の再放送だったが、2021年のクーデタ以降の国軍の蛮行には目に余るものがある。しかし、あれから三年以上も経つのに、国連を中心とした国際社会は実質的には何もできないでいる。そこには大国の利害が複雑に絡んでいるようだが、そうこうしているうちに、最初は非暴力の抵抗に努めていた民衆も次第に武装するようになってしまった。結局、暴力には暴力によって対抗するしかないのだろうか。実際、非暴力による抵抗と言っても、主にインターネットを駆使して国軍の悪を世界中の人々に伝えることによって広く救済を乞うことにすぎない。「すぎない」と言うのは失礼かもしれないが、国際世論を味方にしたところで、それ自体に国軍を屈服させるだけの力がないことは明らかだ。残念ながら、国軍を批判する言葉は国軍の戦車に勝てない。それはウクライナに対するロシア、香港に対する中国についても同様だろう。いくら国際的に非難されても、ロシアにはロシアの、中国には中国の、それぞれ「正当な」言い分がある。その「正当性」を覆すにはそれ相当の力、現実には軍事力という暴力が必要になる。諄いようだが、言葉は無力だ。ペンは剣に勝てそうにない。ガザにおけるイスラエルとハマスの対立に関しても、それぞれの「正当性」は武力で決着させるしかない次元に堕したままだ。この次元にとどまる限り、暴力の応酬はなくならないだろう。ならばいっそのこと、一切の抵抗をやめたらどうか、とパラダイスを信奉する者は考える。ミャンマーの現状に関して言えば、民衆は民主化要求を取り下げ、国軍の絶対的な支配の下で生活する決断をすればいいのだ。もし民衆における人生の幸福が家族や愛する人たちと平穏無事に暮らし、共に楽しく食事をしたり、温泉や行楽地に遊びに行ったり、様々な娯楽を享受することだけにあるのなら、そんな幸福は軍事政権下でも十分可能ではないか。むしろ、軍事政権の絶対的な支配は一つのコスモスに他ならず、その庇護の下でこそ民衆の水平的な幸福は確保されるに違いない。抵抗するから弾圧されるのであって、支配に従順になれば幸福は約束される。少なくともパラダイス信奉者はそう考える。それでもなお「服従の幸福よりも不服従の不幸を!」と主張する奇特な人がいるのなら、如何なる打開策があるだろうか。

禁止することを禁止する(5)

禁止は社会を安定させ、禁止の禁止は社会を混乱させる。「全ては許されている」社会はカオスでしかない。それが常識だ。秩序ある安心安全な生活のためには確固たる禁止事項を網羅し、それを踏み越える者を厳しく罰することが必要になる。そうしたことが人の生活世界をコスモスにする。カオスとコスモス。パラダイスがコスモスであることは間違いない。そこではハミダシ者は容赦なく排除される。かくしてコスモスの大調和において、善良なる市民は幸福な人生を全うすることが可能になる。おそらく、殆どの人はこうしたコスモスとしてのパラダイスを望むだろうが、問題は「誰が或る人をハミダシ者と認定するか」ということにある。先日最終回を迎えた朝ドラ『虎に翼』でも描かれていたが、かつて明治民法では「妻は無能力者」とされていた。すなわち、戦前の日本のコスモスでは「妻は夫に従属する者」、更に言えば女性は男性に尽くすことで社会の調和は維持される、と理解されていたのだ。同様に、子は親に従い、生徒は先生に従い、社員は社長に従い、国民は天皇陛下に従うことが求められ、そうした「調和」に反逆する者は皆ハミダシ者と認定されることになる。当然、LGBTQもハミダシ者として排除の対象にされるだろう。勿論、このコスモスは日本の敗戦と共に崩壊した。しかし、それがコスモスであるという事実は今でも生きている。実際、天皇を中心とする八紘一宇のコスモスに憧れる人は依然として存在する。尤も、中心は何も日本の天皇でなくてもいい。何処の国の人でもいいが、神に等しき絶対的な権力者を中心とするコスモスが実現すれば、もはや戦争は原理的には無化されるに違いない。家康が権力を極めて、天下泰平のコスモスを実現したように。こうしたコスモス=パラダイスへの憧憬に対して、我々はどう対処すべきか。周知のように、我々は今、日本国憲法第十四条(すべて国民は、法の下に平等であって、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。)を有している。ここに「同一性より多様性を重視する精神」を見出すならば、これは実質的にコスモスからカオスへの逆戻りを意味するのではないか。少なくとも多様性の重視がカオスの許容を或る程度もたらすことは避けられない。とは言え、私はここで「コスモスかカオスか」と問うつもりはない。誤解を恐れずに敢えて言えば、人間の理想には両方が必要になる。「禁止することを禁止する」は「カオスモス」を求める。

禁止することを禁止する(4)

私の生まれた街も随分と綺麗になった。綺麗と言うよりも、ゴチャゴチャした猥雑な場所がスッキリ整理されたと言うべきか。殊に街の玄関とも言うべき駅前は、幼い頃には何処にでも自由に自転車を置けたが、今は至る所に「駐輪禁止」の貼紙がしてある。勿論、正式な駐輪場は何処かにあるだろうが、遠いし有料である場合が多い。不便になったと思う。しかし、その御蔭で迷惑な放置自転車がなくなったのだから、強ち悪いことではないだろう。むしろ、「駐輪禁止」で綺麗になった駅前を歓迎している人の方が多いかもしれない。そんなことを考えながら街を散歩していると、以前は自由に出入りできた場所が「立入禁止」になっている。そもそも自由に遊べた広場が少なくなっている。他にも、これは私の街に限ったことではないが、今や何処の路上でも「禁煙」が常識になっている。私は煙草を吸わないので構わないが、愛煙家はさぞ不自由な思いをしているに違いない。余談ながら、石原裕次郎や加山雄三が活躍していた頃の映画を観ると、登場人物は男女を問わず所構わず喫煙しているのに驚かされる。レストランでも病院でも職場でも家の茶の間でもスパスパ自由に喫煙し、しかも誰もがそれを当然のこととして受け容れている。尤も、内心は迷惑していたのかもしれないが、それを口にできる雰囲気ではなかった。しかし、今や状況は一変した。喫煙に限らず、迷惑なことは迷惑だとハッキリと言える雰囲気になった。そして、街には無数の禁止事項が溢れるようになった。これは街中至る所に設置された監視カメラと共に歓迎されるべきことであろうか。おそらく、安心安全な日常生活を維持するためには必要不可欠だというのが一般的見解だと思われる。しかし、本当にそれでいいのか。確かに、ここで「禁止することを禁止する」などと叫べば、それは再び駅前に放置自転車を野放しにすることになり、広場には不審者がうろつき始め、路上には喫煙者が横行することになるかもしれない。その可能性は極めて高い。しかし、たといそうだとしても、限りない禁止事項と監視カメラに依存する生活が理想的だとは到底思えない。パラダイスを望む人にとっては正しいが、パラダイス以上の理想を求める人間にとっては正しくない。何れにせよ、禁止事項と監視カメラに依存した生活は大審問官の思う壺ではないか。

禁止することを禁止する(3)

「禁止することを禁止する」とは文字通りに解せば「全ては許されている」ということだ。ドストエフスキイなら「神が存在しなければ」と付け加えるだろうが、禁止して罰するのは何も神だけではない。むしろ、禁止して罰する神が不在なので、人のつくった法律がその役割を担っていると言える。しかし、法律それ自体は無力だ。法律が禁止したことを破る者を厳しく罰する権力(警察)がなければ誰も法律に従わない。実際、国際法に違反する戦争を大国が起こしても、その大国を罰するだけの圧倒的な軍事力がなければ、国際法など無きに等しいではないか。神の如き絶対的な権力なくして法律は現実に機能しない。絶対的な神が不在なら、それに準ずる権力をどこかに(例えば、国連)に集中して、全ての人が国境を越えて法律に従わざるを得ない世界を実現するべきだ。大国の拒否権を無効にできるだけの権力を国連が実現すれば、それは確かに永遠平和への現実的な一歩になるに違いない。しかしながら、「禁止することを禁止する」はそうした現実的な一歩とは質的に全く異なる道を求めている。端的に言えば、絶対的な神はもとより、禁止して罰する如何なる権力も否定するものだ。すると、どうなるか。当然、「全ては許されている」世界になる。キリーロフの言う絶対的自由の世界だ。ちなみに、スタヴローギンはこうしたキリーロフの世界観に対して、「純真な少女を凌辱してもいいのか。無邪気に微笑む赤ん坊の頭を面白半分にピストルでぶち抜いてもいいのか」と問う。キリーロフは即座に「いい。全てがいい。しかし、この世界の全てがいいと理解した者はそんなことはしない」と答えている。果たして、これは詭弁であろうか。キリーロフの謎に満ちた言葉はどう理解すればいいのか。

禁止することを禁止する(2)

幼い子供は無垢の歌をうたう。その自由な振る舞いに憧れる人も多いが、それは所詮未だ社会で生きていく規則を知らないだけのことだ。その時々の気分で所かまわず泣いたり叫んだりする、言わば傾向性の奴隷にすぎない。そうした傍若無人の振る舞いがやがて「いけないこと」だと教え込まれ、子供は数々の禁止事項を学び、やがて経験の歌をうたい始める。実際、傍若無人では社会で上手く生きていけない。少なくとも大人として認められるためには品行方正になる必要がある。子は親に従い、妻は夫に従い、学生は教師に従い、社員は上司に従う。それで社会は丸く収まる。円滑に流れていく。社会を平穏無事に維持していくためには確固たる規則が不可欠だ。しかし、一部の反逆的な子供たちは旧態依然の規則に従順な大人たちに「駱駝」を見る。そして、「あんな大人になんかなりたくない!」と思い、自分たちを縛る無数の禁止事項に反抗していく。禁止することを禁止する。かくして反逆的な子供たちは規則と戦う「獅子」になるが、そこに「本当の自由」はあるか。反逆は正しい。下らない校則に雁字搦めになっている学校に反逆する「不良学生」は正しいが、その反逆は何処へ向かうのか。傍若無人な子供への回帰であっては意味がない。闇雲に規則を否定しても、傾向性の奴隷に堕していくだけのことだ。そもそも「禁止することを禁止する」も一つの規則ではないか。「大人になる」とは或る程度「駱駝になる」ことに等しいが、黴の生えた規則にしがみつく「駱駝」を超えて、それに反逆する「獅子」になることも「大人になる」過程には不可欠であろう。問題は「獅子」の後にある。周知のように、ツァラトゥストラは「駱駝—獅子—子供」という精神の三態を説いている。この「獅子」の後に来る「子供」とは何か。もはやかつての無垢の歌をうたう幼い子供ではないことは明白だ。或る神道学者は「翁童」ということを言っていたが、「大人になる」最終段階としての「子供」は無垢と経験を反復する(受け取り直す)精神に他ならない。

禁止することを禁止する

或るタレントの話によれば、ドラマの中でテロリストが車で逃走する際にシートベルトを締めていなかったことに対して視聴者からクレームがあったそうだ。その真偽は定かではないが、もしクレームが事実だとすれば、テロリストにまでシートベルトの着用を要求する感覚は異常な気がする。しかし同時に、日本人のテロリストなら無意識の裡にシートベルトを締めてしまうような気もする。規則に従う義務が血肉と化しているからだ。これは日本人の「美徳」の一言で片付けていいものかどうか。確かに、交通規則に限らず、混雑時の整列のマナーやゴミの分別など、日本人は秩序を重んじる。サッカーやラグビーのワールドカップのスタジアムでの応援も整然としているし、試合終了後のゴミ拾いは国際的にも称賛されている。それは品行方正を絵に描いたような大谷翔平選手の礼儀正しさにも如実に現れている。そうした日本人の「美徳」を私は素直に誇らしく思う。しかし、そう思いながらも、日本人は目に見える規則ばかりでなく目に見えない規則にも縛られているような感じも否めない。酷い言い方になるが、規則に従順な礼儀正しい人になるように幼い頃から調教されているような感じ。果たして、秩序を重んじる国民性は教育の賜物なのか、それとも調教の成果なのか。率直に言って、教育であろうが調教であろうが、私は自己を律する人を愛し、平気で路上にゴミを捨てて憚らない輩を憎む。後者は「何をしようとオレの勝手だ。オレは自由だ」と言うかもしれない。この論理からすれば、自己を律する人は奴隷的ということになる。本当にそうか。私は不意に、「禁止することを禁止する」というパリ五月革命の際の有名な落書きを思い出した。あの当時、パリはもとより世界中の若者が「本当の自由」を求めて立ち上がった。しかし、「本当の自由」、もしくは本当の自治とは何か。その答えは依然として風に吹かれたままだ。