禁止することを禁止する(9) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

禁止することを禁止する(9)

かなり以前のことだが、初夏の昼下がりの山手線で一人の若い黒人女性が英語で通話している場面に遭遇したことがある。特に声を潜めることもなく、むしろ傍若無人といった感じで堂々と通話している姿は明らかに目障りかつ耳障りであった。しかし、皆すぐに下車するし、わざわざ外国人を英語で注意する面倒よりも、少し我慢した方が得策だと思って見て見ぬ振りをしていた。私も例外ではない。触らぬ神に祟りなし。ところが驚いたことに、或る中年の日本女性がその黒人女性の振る舞いを窘(たしな)める挙に出た。勿論、英語で。その勇気ある日本女性は見るからに知性と正義感に溢れ、日本でのマナーに疎い外国人の無知に耐えられず、自分には教育的指導を施す義務があると決意したかのようであった。しかし更に驚いたことに、窘められた黒人女性は突然怒り出した。日本女性は決してキツク注意したわけではない。むしろ優しく、日本語で表現すれば「車内での通話は遠慮すべきですよ」という感じで黒人女性に話かけていた。しかし英語でのコミュニケーションが上手く取れなかったのか、黒人女性は恰も自らの人権が侵害されたかのように興奮し、「私が外国人だから、黒人だから、注意するのか!」と取り付く島がない。それでも日本女性は誤解を解こうと必死に言葉を重ねたが、結局、黒人女性は「Don’t touch me!」と捨て台詞を吐いて、次の停車駅で下車していった。後に残された日本女性の悲しそうな表情が今でも忘れられない。さて、何故こんなことを思い出したかと言うと、「多言語・多文化主義」の理想を実現することは全く至難の業だと改めて考えているからだ。先の黒人女性の不可解な振る舞いもさることながら、山手線の車内などで英語や中国語で大声張り上げて騒いでいる外国人のグループを目にすると私は不快になり、俄かナショナリストとして「ここは日本だぞ!」と叫びたくなる。「攘夷!」とまでは思わないが、日本の生活習慣を無視した傍若無人な外国人は入国禁止にすべきだとは思う。私は国粋的な排外主義者なのだろうか。日本人及び日本文化というものを私は決して固定したものだとは考えていない。そもそも純粋な日本人もしくは日本文化というものがあるだろうか。他民族との混血や様々な外来思想との出会いによる変容は不可避だ。しかし、その変容の在り方に「日本的なもの」があるのではないか。その「日本的なもの」は外国人や外来思想の禁止によって維持されるような純粋なものではなく、むしろそうした禁止を禁止することによるクレオール化にも耐え得るものだ。とは言え、それはやはり現実には至難の業だ。「多言語・多文化主義」の理想は未だ遥か遠く、目の前の日本はどう見ても独立国の体を成していない。真の独立を求めるナショナリスト(保守主義者)にも一理あると言わざるを得ない。