禁止することを禁止する(3)
「禁止することを禁止する」とは文字通りに解せば「全ては許されている」ということだ。ドストエフスキイなら「神が存在しなければ」と付け加えるだろうが、禁止して罰するのは何も神だけではない。むしろ、禁止して罰する神が不在なので、人のつくった法律がその役割を担っていると言える。しかし、法律それ自体は無力だ。法律が禁止したことを破る者を厳しく罰する権力(警察)がなければ誰も法律に従わない。実際、国際法に違反する戦争を大国が起こしても、その大国を罰するだけの圧倒的な軍事力がなければ、国際法など無きに等しいではないか。神の如き絶対的な権力なくして法律は現実に機能しない。絶対的な神が不在なら、それに準ずる権力をどこかに(例えば、国連)に集中して、全ての人が国境を越えて法律に従わざるを得ない世界を実現するべきだ。大国の拒否権を無効にできるだけの権力を国連が実現すれば、それは確かに永遠平和への現実的な一歩になるに違いない。しかしながら、「禁止することを禁止する」はそうした現実的な一歩とは質的に全く異なる道を求めている。端的に言えば、絶対的な神はもとより、禁止して罰する如何なる権力も否定するものだ。すると、どうなるか。当然、「全ては許されている」世界になる。キリーロフの言う絶対的自由の世界だ。ちなみに、スタヴローギンはこうしたキリーロフの世界観に対して、「純真な少女を凌辱してもいいのか。無邪気に微笑む赤ん坊の頭を面白半分にピストルでぶち抜いてもいいのか」と問う。キリーロフは即座に「いい。全てがいい。しかし、この世界の全てがいいと理解した者はそんなことはしない」と答えている。果たして、これは詭弁であろうか。キリーロフの謎に満ちた言葉はどう理解すればいいのか。