新・ユートピア数歩手前からの便り -23ページ目

神人と人神

神人と人神、すなわち「神が人になる」と「人が神になる」という二つの運動は本来相即すべきものであり、エックハルトも「神の下り道は人の上り道だ」と述べている。しかし、現実には二つの運動は分離され、それぞれ神人論と人神論という独立したイデオロギーとして機能する。ちなみにドストエフスキイの長編小説は神人論者と人神論者の熾烈な葛藤を描いたものだと言えよう。例えば、ソオニャやアリョーシャは神人論を信じ、ラスコオリニコフやイヴァンは人神論に憑かれている。僭越ながら、私の「人間になる」という理想も人神論の一種だと見做されるかもしれない。「人間になる」とは人として生きる次元を超えることであり、超人=神という理解もあり得るからだ。しかし、それは誤解だ。少なくとも、私の本意ではない。私はあくまでも神人と人神という二つの運動の相即を求める。それは言わば神人論者と人神論者の和解を意味するが、そんなことが可能だろうか。ドストエフスキイの小説では、一応ニヒリストである人神論者が神人論に屈服するという結末を迎える。しかし、その結末が最終的なものとは到底思えない。未だその先がある。ラスコオリニコフはソオニャの愛に導かれて一度は大地に接吻するが、シベリヤに行ってもなお愚図愚図している。アリョーシャも作家によって書かれなかった後編では革命家になるというではないか。物語は未だ終わっていない。

補足:人と「人間」の間の壁

この便りが誰にも届かなくても、届いても何も伝わらない、それどころか反感を懐かれて黙殺されても、「人間になる」という理想は微動だにしない。その理想には歴史があるからだ。古来、人は人との争いに苦悩してきた。人と人とは愛し合うが、同時にまた憎しみ合う。最近、ヴィクトール・フランクルに関するドキュメンタリイを観たが、彼もまたMonanthropismus(一人類主義)という理想に辿り着いている。ナチス・ドイツの下で想像を絶する過酷な体験をしながら、それでもドイツ人を赦す。ユダヤ人とドイツ人は「一人類」であるという理解に徹する。当然、この理解は一般的なユダヤ人の感情を逆撫でし、フランクルを非難する同胞も少なくなかったと言う。確かに、この理想には一般人の理解を撥ねつける何かがある。キルケゴールなら「倫理的なものの目的論的停止」と言うかもしれないが、人と「人間」の間には大きな壁がある。鄙見によれば、この壁の超克に最も現実的に挑んだのはエスペラント語の創始者・ザメンホフだ。しかし、エスペラント語の哲学的本質とも言うべきHomaranismo(人類人主義)もまた多くの問題を孕んでいる。その問題についてはいつか徹底的に考えてみるつもりだが、ここではLantiのSennaciismo(無民族主義)との関係だけに言及したい。率直に言って、Homaranismoの論理的矛盾はSennaciismoにおいて全て解消する。すなわち、人類人はユダヤ人とかドイツ人と日本人とかいう民族の別を無化して初めて成立する概念なのだ。しかし、そんなものがフランクルやザメンホフが求めた理想であろうか。論理的にはスッキリする。けれど、それだけではないか。フランクルの「一人類」にせよ、ザメンホフの「人類人」にせよ、その理想は決して民族の多様性を無化するものではないと私は思う。とは言うものの、「人間」と民族の多様性は如何にして両立するのか。人と「人間」の間の壁は本当に超克できるのか。これが今の私が格闘している問題に他ならない。

補足:居場所のディコンストラクション

民族や国の違いを超越しても、人と人との殺し合いはなくならない。同じ国の人同士でも殺し合うし、友人同士、恋人同士、家族同士の殺し合いだってあり得る。どうして人は人を殺そうとするのか。余談ながら、私は毎日ドラマで多くの殺人事件を観ているが、どの殺人にもリアリティが感じられない。「この程度のことで人を殺すだろうか」といつも疑問に思う。ラスコオリニコフは老婆一人殺害するのに気が狂うほど考え抜き、殺害後も死ぬほど苦悩する。殺人という一線を踏み越えるためには想像を絶する情熱を要するが、ドラマで描かれる殺人にそんな情熱は微塵もない。軽すぎる。生活のための強盗殺人も短絡的だが、ゲーム感覚の快楽殺人(無差別殺人)が安易に多すぎる。さもなければ憎悪による復讐殺人が人気だが、どれもこれも似たり寄ったりでインパクトがない。これはドラマの中だけのことかと思っていたが、現実の殺人事件も同様だろうか。ずっと虐められてきた人が自分を虐めてきた奴等に復讐を企てる。そして、一人一人殺していく。これはドラマによくあるパターンだが、現実にあり得ないことではない。他にも嫉妬など、人が人を殺したくなる契機はいくらでもある。勿論、実際に殺してしまう人は稀だろうが、様々な欲望が渦巻く人の生きる次元は他人を殺そうとしたり自ら死にたくなるような危険性に満ちている。人間はそうした危険性を超克するが、さりとてそれは人間が嫉妬や憎悪を超越した聖人君子になることを意味しない。人間もまた嫉妬や憎悪に塗れた世界を自らの居場所とする他はない。ただし、人間は居場所をディコンストラクションする。人が現実に生きる水平の次元の居場所を垂直の次元の「どこにもない場」と逆対応させる。すると、世界はどうなるか。ラディカルに一変した世界を何とかして表現したいものだ。

補足:エリート主義に非ず

「ヒトが人になり、究極的には人間になる」――この実存弁証法は断じてエリート主義に基づくものではない。少数の優秀な人だけが人間になるということはあり得ないからだ。全体か無か。一人でも人間にならなければ、「人間になる」という理想は実現しない。これは現実にはあり得ない夢想にすぎないのか。イキモノとしてのヒトは生きるためにヒトを食べることもある。人となると流石にカニバリズムは禁忌とされることが多くなるが、人と人との殺し合いはなくならない。むしろ、或る民族(もしくは国)の人と別の民族の人との殺し合いは激しくなるばかりだ。それが人間になると、人間同士の殺し合いは原理的に不可能になる。殺し合う次元を超越するからだ。例えば、先の大戦中、南の島で日本人とアメリカ人が出くわす。二人は敵同士であり、殺し合うことが義務とされている。しかし、そうした人と人とが対立する次元を超越して「人間になる」次元を切り拓くことができれば、もはやそこには殺し合う根拠がなくなるだろう。確かに、これは楽観的すぎる理想だ。「日本人もアメリカ人も同じ人間だから、殺し合うのはやめましょう」と言っているに等しい。こんなキレイゴトで戦争がなくなる道理がない。しかし、「人間になる」という理想は「人類皆兄弟」ということに尽きるものではない。少なくとも、日本人が日本人であることをやめて、アメリカ人がアメリカ人であることをやめて、「人間になる」のではない。人間は「のっぺらぼう」ではない。その点、「人間になる」次元はジョン・レノンが「イマジン」する世界とも違う。世界は一つにならない。「世界が一つになる」という水平的理想は素晴らしいが、「人間になる」という理想はあくまでも垂直的だ。ヒトの野性と人の文化。「人になる」のは剥き出しの野性を制御することを意味するが、現実には制御しきれるものではない。人は野性と文化に引き裂かれて生きる。それに対して、人間はヒトの野性と人の文化を垂直的に反復する。この垂直的な反復の運動こそが「人間になる」ことに他ならない。(こんな表現ではますます泥沼に深く沈んでいくばかりだが…)

人間になる(10)

過酷な現実を生きている人がいる。生来の障碍、事故による不自由、謂われなき差別や虐め、その他様々な理由による貧困など、生きづらさを余儀なくされている人にとって「人が人間になる」なんてことはどうでもいいことだろう。地を這うような生活から抜け出すこと、それだけが問題だ。そして、少しでもマシな生活ができるように必死に居場所を求めている。学校での居場所。会社での居場所。家庭での居場所。たとい社会の吹溜りのような片隅であっても、居場所さえあれば生きていける。私的領域の充実だけで十分ではないか。公的領域はそれぞれの私的領域を補完するためだけにある。それでいいのかもしれない。少なくとも私はそうした人生観・世界観を批判できる根拠を持たない。ずっとその根拠を求めてきたが、結局、そんなものはない。他人様(ひとさま)の迷惑にならなければ、人はどんな生き方をしようと自由だ。寝そべり族のように、社会の下流に居場所を見出すのも良し。中流に安住するのも良し。立身出世して、上流を目指すのも良し。勿論、理不尽な格差は公的に是正されなければならないが、悪しき平等主義による水平化を徹底する必要はないだろう。一切は自己責任。それぞれの私的領域の充実はそれぞれの自由に委ねられる。そうした自由主義が人生の基本となる。しかしながら、私にその基本についてとやかく言う資格はないものの、私自身はそれを超える理想を求め続けたい。確かに、その理想は或る程度の生活の余裕がなければ問題にならない。実際、過酷な現実と闘っている人たちの視野には入らないだろう。しかし、そうした人たちにとっても理想が問題になる瞬間がいつか訪れるのではないか。例えば、級友が虐められている場面に遭遇した時、人は「人間になる」ことを問われる瞬間に立たされる。見て見ぬ振りをして、安全な自分の居場所を確保しても構わない。先述したように、それを非難する客観的な根拠はない。どう生きようと、その人の自由だ。ただし、瞬間は永遠のアトムだと言われるように、その瞬間に「人間になる」次元、すなわち水平の次元を超える垂直の次元が切り拓かれている。それは厳然たる事実だ。私はその瞬間の可能性に賭けたい。人生は私的領域の充実に尽きるものではない。それを超える理想がある。非常な努力の末に手に入れた居場所を守ろうとするのは大切なことだ。しかし、その居場所と「どこにもない場」との関係についても考えるべきではないか。「人が人間になる」理想は到底語り尽くせない。

人間になる(9)

人の居場所としてはアルカディアかパラダイスしかない。アルカディアは自然楽園、パラダイスは人工楽園。人新世の危機的諸問題が自然を超える欲望の充足を限りなく追求するパラダイスに起因することを考えれば、人はアルカディアを本来の居場所とすべきなのかもしれない。しかし、ここまで肥大したパラダイスの魔力から人は自由になれるだろうか。一度(ひとたび)パラダイスを経験した人にとって、アルカディアは退屈な場所でしかない。週末などの短期間の自然回帰なら楽しいだろうが、長期間となると厭きてしまう。それはパラダイスから転落した人がアルカディアに救いを求める場合も同様だろう。一時的には救いの場になっても、やがてパラダイスが恋しくなる。とは言え、パラダイスの快楽にも人は早晩倦怠を感じるようになる。かくしてアルカディアの退屈とパラダイスの倦怠の狭間で、人は自分の居場所を失っていく。勿論、現実はこんな図式通りに展開しない。日々、平穏無事に過ごせれば、そこが居場所になる。アルカディアかパラダイスか、なんて問題にならない。それを敢えて問題にすることには無理があるだろうか。私はジョギングを楽しんでいる人に全力疾走を強要しているにすぎないのか。人として生きる。アルカディアかパラダイスに居場所を求めていく。しかし、究極的にはどちらも居場所ではなくなっていく。そこに人として生きることの限界がある。この限界は私の独り善がりの妄想であろうか。

人間になる(8)

私自身、人間以前を彷徨っている身なので偉そうなことは言えないが、人間の世界は必ず実現する。そう信じている。現代は人新世と称されるが、人の世界は明らかに限界に達している。このままで良い道理がない。勿論、世界中の名立たる知性が地球温暖化に象徴される諸問題に取り組み、持続可能な生活様式を摸索している。しかし、問題の核心は人間に他ならない。人が人間になる。この一点を蔑ろにして、如何なる理想も実現しない。そこで改めて問う。「人間になる」とは何か。私の念頭にはキルケゴールの実存弁証法、もしくは人生行路の諸段階がある。ツァラトゥストラの説く「精神の三態」もあれば、ヘーゲルの精神現象学もある。他にも様々な哲学・芸術作品があるが、私はそれらを全て「人が人間になる」Bildungsromanとして理解している。しかし、その理路を客観的に示しただけでは何も伝わらないだろう。どこかの宗教団体の「人間革命」と大差ないものとなってしまう。私は途方に暮れている。百年を超える「新しき村」の歴史を継承して、実篤と共に「人間萬歳!」と叫びたかったが、今やそれも叶わない。しかし、人として生きることの限界に直面している人は必ずいる筈だ。生きづらさに苦しみ、自分の居場所を求めているものの、それは容易に見つからない。結果、自分の部屋に引きこもることを余儀なくされる。いや、引きこもれる自分の部屋がある人はまだマシだ。「居場所も行き場所もないことほど苦しいことはない」とはマルメラアドフの言葉だが、この絶望に立ち尽くすことから始めるしかない。立ちはだかる問題は依然としてパラダイスの誘惑。多くの人は性懲りもなくパラダイスに自らの居場所を見出そうとする。さもなければ、アルカディア。私の求めるBildungsromanは、こうした二つの理想を巡って展開する。

人間になる(7)

「人間、失格。もはや、自分は、完全に、人間で無くなりました。……いまは自分には、幸福も不幸もありません。ただ、一さいは過ぎて行きます。自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理らしく思われたのは、それだけでした。 ただ、一さいは過ぎて行きます」と大庭葉蔵は述べているが、鄙見によれば、彼は人間になろうとして「人デナシ」に堕ちた。彼が阿鼻叫喚で生きてきたのは人の世界であって、人間の世界ではない。人の世界では一切は過ぎて行く。皆、巨大な力に流されて行く。大庭葉蔵は生来容姿に恵まれ、家も金持で、人として人並以上の幸福な生活も十分可能であっただろう。しかし、彼にはできなかった。人として生きることの限界に直面し、本当に人間らしく生きようとして、いつも挫折した。そんな負け犬の葉蔵を世間の常識人たちは嗤った。しかし、たとい誰にも理解されなくても、彼はとにかく闘った、人間として生きようと闘った。「闘う君の歌を闘わない奴等が嗤うだろう」とは中島みゆきの言葉だが、人として生きることの限界を超える闘いを回避する善良なる市民は賢明なのかもしれない。人として生きることの限界内のパラダイス。確かに、闘わなければ「人間失格」の烙印を押されて「人デナシ」に堕ちることもなかっただろう。闘って、挫折して、人間失格。しかし、バアのマダムは「私たちの知っている葉ちゃんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さえ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいないい子でした」と語っている。また、或る批評家は「人間失格=人間神格」という理解をしている。私も同感だ。人間失格の自覚は実に過酷だが、それだけ真摯に人間になろうとした証でもある。「人デナシ」に堕しても、それは神と出会う道に通じている。

人間になる(6)

人間になるのに特別な才能は必要ない。少なくとも厳しい修行の果てにやっと辿り着けるような境地ではない。どんな大天才も一人では人間になれない。逆にどんなボンクラでも、人として生きることの限界、すなわち私的領域の限界に立ち尽くす者は人間になることを要請する。ヘーゲルを援用すれば、「我である我々・我々である我」として生きることが求められる。これは具体的に何を意味するか。人は一人では人間になれないが、単独者にならねばならない。単独者のみが連帯できるのであって、単独者の自覚なしに人がいくら集まっても、そのような群衆に人間の複数性はない。では、単独者とは何か。それは「関係としての自己」に立脚して、「自同律の不快」をとことん味わい尽くす者に他ならない。「私は私である」と言い切れず、「私は未だ真の私ではない」という絶望に苛まれる単独者の苦悩。率直に言って、私は単独者の苦悩を問題にしたい。その絶望を深めることで、単独者が「自己を措定した力」と出会う次元を切り拓きたい。それは垂直の次元だが、水平の次元における公的領域に逆対応する。ただし、私は未だその逆対応を上手く表現できない。パラダイスの誘惑についても然り。善良なる市民がパラダイスを求める。実際、人は殊更人間にならなくても十分幸福になれるだろう。私のパラダイス批判は、基本的にはアルカディア批判も同様だが、「幸福になること」を否定するものではない。余談ながら、最近は自民党総裁選挙のニュースが目立って多くなったが、私はその醜悪さに心底ウンザリしている。どうして醜悪なのか。候補者と目される人たちは別に間違ったことを口にしているわけではない。国民の幸福を願い、日本の安全保障について語り、「経済的に日本をもう一度世界のてっぺんに!」などという言葉を耳にすると、私は途方に暮れてしまう。この人たちは曲りなりにも政治家なので、公的領域について語っている筈だ。しかし、私は今の政治に公的領域を見出すことができない。間違っているのは私の方か。人々のパラダイスを支援する政治家の方が正しいのか。量的には私に勝ち目はないが、質的には未だ可能性がある。そう信じて、人間になるための思耕を続けたい。

人間になる(5)

茨木のり子は「一人でいるのは賑やかだ」と表現した。もう朝から晩までペチャクチャペチャクチャ、人は「私という他者」とお喋りしている。野暮を承知で言えば、その賑やかなお喋りもやがて真摯な対話に収斂していき、一つの問いに直面する。キルケゴールを援用すれば、それは次のような問いだ。「それ自身に関係するそのような関係、すなわち自己は、自分で自己自身を措定したのであるか、それとも或る他者によって措定されたのであるか。」これは「自同律の不快」にも通じる問いであり、「賑やかな森」としての私的領域もその限界を露呈し始める。と言うのも、人は「無限性と有限性との、時間的なものと永遠なものとの、自由と必然との綜合」なのだが、現実にはその綜合は私的領域では実現しないからだ。むしろ、ほぼ必然的に「絶望の不均衡」に陥っていく。言わば自己は二つに引き裂かれて生きていくことを余儀なくされるわけで、その絶望こそが新たな次元を切り拓くことになる。「私は私である」と言い切れぬことの不快。主辞の私と賓辞の私との質的断絶。こうした「絶望の不均衡」は如何にして超克されるのか。キルケゴールは「絶望が全く根こそぎにされた場合の自己の状態を表す定式」として、次のように述べている。「自己自身に関係し、自己自身であろうと欲することにおいて、自己は自己を措定した力のうちに透明に根拠をおいている。」ここに見出される理路は、人が「それ自身に関係する関係」としての自己に目覚め、それに伴う絶望を深めることで「自己を措定した力」と出会う過程を表している。この理路こそが「人間になる」道なのだが、これを回避させる誘惑として問題になるのがパラダイスの力に他ならない。実際、人は「関係としての自己」と対峙することを避け、表層的な自己の直接的な欲望(自然に生じてくる快楽)に身を委ねることで幸福を追求することができる。それは人生行路の美的段階に留まることに等しいが、「家庭の幸福」も含めて、欲望の充足が人生にパラダイスをもたらすことは間違いない。実に大きな誘惑だ。この誘惑に如何にして対抗し得るか。