新・ユートピア数歩手前からの便り -25ページ目

野性の理想主義(8)

相対化=世俗化されたパラダイスでは全てが許される。だから人は自由に溺れ、「何故人を殺してはいけないのか」などという問いも生まれたりする。未だ絶対的なものが生きていた時代には、そんな問いはあり得なかった。「人を殺すべからず」は「他人の物を盗むべからず」と共に、わざわざその是非を問う必要のない自明のことだったからだ。絶対的なものが確固たるSollenの根拠になっていた。そして、絶対的なものが死んで倫理が崩壊した。勿論、現実には警察の存在が殺人の抑止になっている。しかし裏を返せば、それは警察に見つかりさえしなければ殺人も許容されるという口実を生む。警察も法律も絶対的なものにはなり得ない。では、絶対的なものが復活すれば、問題は全て解決するのか。教育勅語への復帰によって倫理は甦るのか。そんな馬鹿なことはあり得ない。絶対的なものは故なくして死んだわけではない。死ぬべくして死んだのだ。神が死んで、人は「魔術の園」(Zaubergarten)から解放された。以後、主に科学技術の力で便利で快適な世界が求められてきた。その成果が相対化=世俗化された世界に他ならない。その世界がパラダイスであることは厳然たる事実だ。しかし、人は神不在のパラダイスに耐えられない。「何にせよ、人は何かを崇拝せずにはいられない。神を否定すると、今度は偶像を拝み出す」とはドストエフスキイの言葉だが、近代の超克は偶像崇拝の超克に収斂する。それはパラダイスの超克にも通じる。

野性の理想主義(7)

様々な夢がある。才能に恵まれた人は大きな夢を、それほどでもない人はささやかな夢を、それぞれ懐く。そうした夢の大小は客観的には認められるが、主観的には意味を成さない。他人には下らないことでも、自分が夢中になれればそれでいい。殊に現代は多様性が尊重される世となった。もはや一つの価値観が全体を支配する時代ではない。「男はかくあるべし」とか「女はかくあるべし」などと言うことは時代遅れだ。Sollenは肩身が狭くなった。正に「ナンデモアリ」の世界。絶対的なものは死に至り、一切が相対化される。世俗化された社会の中で、人は自由に個人の夢を追求できる。多様性と個人の自由が際限なく許容される世界はパラダイスだ。言うまでもなく、このパラダイスは未だ実現していない。学歴社会の古い価値観が根強く残っているし、LGBTQへの偏見もなくならない。しかし、そうした課題が全て解決したとしても、全てが相対化=世俗化されたパラダイスに人は耐えられるだろうか。むしろ、それは早晩ディストピアと化すのではないか。尤も、これは私の杞憂なのかもしれない。殆どの人は水平の次元のパラダイス実現を歓迎し、それぞれの夢の追求に「生の充足」を得るとも考えられる。しかし、本当にそうか。ならば何故、「偉大なアメリカの復活」を訴えるトランプのような人物がかくも熱狂的に支持されるのか。ロシアにおけるプーチン支持も然り。鄙見によれば、大衆の多くは相対化=世俗化された世界にウンザリし、絶対的なものの復活を渇望している。それは或る意味「自由からの逃走」に違いないが、その渇望を無視することはできない。加えて、個人の夢が自由に追求できるとは言え、追求に値する夢が見つからない人も増えている。一体、人は何のために生きているのか。時代は今や、夢の追求から理想主義へと転換しようとしている。ただし、トランプやプーチンにその転換を期待するのは根源的かつ致命的に間違っている。彼らの掲げているのは「野蛮の理想主義」にすぎないからだ。「野性の理想主義」との差異を見逃してはならない。

野性の理想主義(6)

夢と理想の差異については何度も問題にしてきたが、改めて考えてみたい。人は夢のある人生を求める。夢のない人生を余儀なくされることがあるとしても、誰しも幼い頃に一度は夢を懐く。大抵、それは両親を中心とした周囲の身近な人たちの価値観、あるいはマスコミや人気ドラマの影響によって形成される。例えば、大金持、プロのスポーツ選手やミュージシャン、人気アイドル、スーパードクターなど。当然、大人になるにつれて、幼い頃の夢は現実的に再構成される。「現実的に」とは「自分の身の丈に合った」ということだ。私の場合、夢はプロ野球選手になることだった。理屈ではない。幼い私にとって、プロ野球選手ほどカッコイイ存在はなかった、ただそれだけのことだ。しかし、私の夢は叶わなかった。理由は明白、私にカッコイイ野球選手になるだけの才能がなかったからだ。それが現実であり、私の夢は挫折した。言うまでもなく、夢の挫折は何も私に限ったことではなく、殆どの人はその現実的な生を夢の挫折から始めることになる。或る人は「自分の身の丈に合った」別の夢を追い求め、また或る人は才能ある誰かに自分の夢の実現を託す。しかし、私はそのような夢の「現実的な再構成」に赴かなかった。私は端的に夢の挫折に絶望し、更に言えば挫折できた現実に絶望した。と言うのも、「プロ野球選手になる」という夢は自分にとって絶対的なものだと思っていたからだ。そして、絶対的な夢に挫折したら、もはや生きている意味はない。そう思った。私には趣味として草野球を楽しむとか、プロ野球の一ファンとして「推し」のチームや選手を応援するなどという選択はなかった。野球に挫折した途端、野球に対する絶対的な関心を失ったからだ。以前には夢中になって観ていた野球中継も退屈なものでしかなくなった。大谷翔平選手のようなスーパースターに対しても実にスゴイ!と感心するものの、今やそれほど関心はない。もしかしたら、こうした私の変化は野球に挫折した自己の巧妙な正当化なのかもしれない。その疑念は今も燻っている。ただ、燻る疑念と共に私の念頭に浮かぶのはマラソンの円谷選手の自裁だ。本当の理由はわからない。しかし、それがマラソンランナーとして生きられない自分の拒絶だとしたら、円谷選手は自らの夢に殉じたと言えるのではないか。私は夢に殉じることができなかった。殉じることができるほどの夢ではなかったからだ。私は殉じるに値する新たな夢を求めた。絶対的な何かを求めた。しかし、この世界に絶対的なものなど皆無であった。水平の次元に見出されるのは相対的なものばかりだ。その現実に、絶対的なものの不在に私は絶望した。私の理想の追求は、正にその絶望から始まる。

野性の理想主義(5)

かつて日航機ハイジャック事件(ダッカ事件)に際して、時の総理は「人の生命は地球より重い」と語ってテロリストの要求に屈する苦渋の決断をした。結果、乗客・乗員百五十一名は全員無事解放され、その超法規的措置は概ね国民の支持を得たように思われる。この時、法の遵守よりも生命尊重が優先されることが常識となった。鄙見によれば、それは理想主義の死でもあった。尤も、敗戦と同時に日本の理想は既に失われていた。ダッカ事件の七年程前に或る作家が「生命尊重以上の価値」を叫んで割腹自殺を遂げたが、その檄に耳を傾ける者は殆どいなかった。むしろ、「生命尊重以上の価値」などこの世にはあり得ないと頑なに信じ込み、総じて豊かになった戦後の経済的幸福を享受する生き方を選択した。このままでいいのだろうか。いいわけがない!さりとて戦前の日本の理想に回帰するつもりもない。例えば、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」という軍人勅諭の言葉。あるいは、「義は山嶽よりも重く死は鴻毛よりも軽し」という戦陣訓の価値観。そこには生命より重い大義があった。その大義こそ理想に他ならない。しかし令和の現在、大義など右翼の街宣車が撒き散らす騒音でしかない。理想は今や冗談だと一笑に付され、日常生活には無用の長物と化した。しかし、私は今こそ理想主義が必要だと考え、この拙い便りを続けている。果たして、理想主義の復活を求めることは時代錯誤であろうか。

野性の理想主義(4)

野蛮な人はケダモノのように生きる。醜悪だが、そこにはイキモノの真実がある。自由感がある。暴力が横行するヤクザ映画が人気を博する理由もその辺りに見出されるのではないか。尤も、鶴田浩二や高倉健の主演で任侠映画と称された往時、それは義理と人情で固められた世界であったし、菅原文太が切り拓いた仁義なき戦いも裏社会特有の掟に縛られた世界であった。つまり、反社会的な無法者たちの世界は決して自由なものではない。むしろ、法に縛られた堅気の方が自由かもしれない。少なくとも法を犯さない限り、善良なる市民は自由に生活できる。そして、警察などが無法者(犯罪者)を厳しく取り締まってくれることを切に望む。害虫は徹底的に駆除されるべきであり、限りなく無菌に近い清潔な社会こそが理想的と見做される。しかし、本当にそうか。もしそうなら、どうして無法者や犯罪者が活躍するドラマがなくならないのか。確かに、先述したように、法を踏み越えた者たち(アウトロー)の生活は決して自由ではない。しかし、そこには法に縛られた生活にはない生の輝きがある。鎖に繋がれた犬は食うに困らず、鎖に繋がれている限り快適に暮らせる。それに対して野良犬の生活は過酷だが、不思議な魅力がある。さりとて殆どの人は野良犬になりたいなどとは思わない。法を鎖とは考えず、法に縛られるのではなく、法に守られる生活を求める。かく言う私自身も基本的にはそうだ。法を否定することはできない。しかし、それにもかかわらず、野良犬への憧憬がある。犯罪者になろうとは思わないが、法を踏み越えてしまう(踏み越えざるを得ない)ドラマには関心がある。これはどういうことか。私は野蛮を嫌悪する。暴力を、無法を憎む。しかし同時に、全てが理性で割り切られることも嫌悪する。理性によって純粋に構築された水晶宮は私にとって理想とは程遠いものだ。私の生はアポロとディオニュソスに引き裂かれる。

野性の理想主義(3)

野性と野蛮は質的に異なる。そう思いたい。イキモノは生きるために戦う。弱肉強食。生存競争。己が生き残るためには他と殺し合うことも辞さない。場合によっては共食いもあり得る。剝き出しの生(ゾーエー)を維持しようとする欲求に忠実であることを野蛮と称するならば、イキモノの現実は野蛮だ。言うまでもなく、イキモノの世界において野蛮は何ら恥じることではない。所構わず交尾するケダモノに羞恥心はあり得ない。同様に奔放な性欲に身を委ねるスヴィドリガイロフの野蛮も非難される謂れはない。しかし、幸か不幸か、人はそうしたイキモノの世界を超越し、野蛮であることを羞恥する。生存の危機に瀕する限界状況においても、限られた食べ物を奪い合うことを羞恥する。残された一個のオニギリを食べなければ自分が死んでしまうという場合でも、そのオニギリを他に譲ることができる。これはキレイゴトだろうか。確かにキレイゴトには違いないが、私はそこに野蛮を超える野性を見出したい。厳密に言えば、そこに見出されるのは理性だろうが、理性だけだと単なるキレイゴトの閾を出ないと思われる。鄙見によれば、野性は理性化された野蛮に他ならない。人は野蛮であることを羞恥しても、野蛮であることから逃れられない。人は野蛮と理性に引き裂かれる。その引き裂かれた状態が野性なのだ。野性が求める理想主義には理性が求める理想主義にはない何かがある。

野性の理想主義(2)

例年、八月十五日が近づくと先の大戦の意味を改めて問うことを余儀なくされる。一体、何のために戦ったのか。そして、どうして無惨な敗北を喫したのか。繰り返し、繰り返し、問い続けている。日本の歴史に関心を懐き始めた頃の私は「正しい戦争」の意味を求めた。格好の意味が既に用意されていた。帝国主義的な欧米列強に蹂躙されるアジアの同胞を解放するための聖戦!ところが、日本もまた帝国主義的なアジアの侵略者でしかなかった現実が突き付けられる。更に、アメリカを中心とした連合国軍が恰も日本国民にとっても解放軍であったかのように喧伝される。戦後、日本は民主化され、庶民の生活に至るまでアメリカナイズされ、高度経済成長期を経て総じて豊かになった。曲がりなりにも戦争から遠ざかっている平和な日本はパラダイスと言ってもいいだろう。結局、日本は先の大戦に敗北して良かったのか。戦前の日本は悪の帝国でしかなかったのか。もしそうなら、天皇はどうして同盟の悪の帝国を支配していたムッソリーニやヒトラーと同じ運命を辿らず、人となって平和の象徴と化したのか。いくら問い直しても国体護持に理想は見出せないが、戦後の日本人は平和憲法の理想主義だけは後生大事に守ってきた。何であれ戦争はダメだ。二度と戦争はしない。かくして「戦わない日本人」が理想とされてきたが、これは同時に理想の放棄でもあった。と言うのも、人は理想を実現するために戦うものだからだ。理想がなければ戦う必要もなくなる。「戦争放棄=理想の放棄」とまで言うつもりはないが、今の日本に如何なる理想があるのか。何れにせよ、理想は危険なものだ。実際、平和ボケした今の日本に理想の復活を望む人たちは一様に右傾化し、再び戦争を求める様相を呈している。「もはや戦後ではない」と嘯いているうちに、いつしか戦前を生きている、ということもある。そうした危険性に対して、平和憲法の理想主義は現実的な歯止めとなり得るか。正にそのためにこそ、理想主義には野性が必要となる。

野性の理想主義

「野性なき理想主義は、知性なきニヒリズムより数倍わるくて汚らしい」とは三島由紀夫の言葉だが、理想主義に野性を求めるのは大方の常識に反するものだろう。知性なきニヒリズムの醜悪さは誰もがよく知っている。愚かな奴ほど下らぬことで絶望する。勿論、客観的には下らぬことであっても、当人にとっては切実な絶望だ。失恋、受験の失敗、失業…。その切実さを否定するつもりはない。しかし、切実な絶望とニヒリズムの深度は関係がない。誤解を恐れずに言えば、真のニヒリズムは知性を要する。ただし、単なる失恋自殺と「人生不可解」とか「ぼんやりとした不安」による自殺との差異は優劣の問題ではない。それは次元の問題であり、「水平の次元における絶望」と「垂直の次元における絶望」の違いに他ならない。更に言えば、前者は欠乏のニヒリズム、後者は過剰のニヒリズムだと理解することができる。欠乏のニヒリズムは知性なきニヒリズムだが、それだけに一層切実だとも考えられる。知性なきニヒリズムをこのように理解することは決して特異なことではない。では、野性と理想主義の関係はどうか。多くの人にとって理想主義はキレイゴトであり、野性はむしろ現実主義に属すものではないか。残念ながら、それが理想主義の一般的見解だと思われる。しかし、三島は理想主義に野性を求める。これは一体何を意味するか。

補足:ユートピアの機能

「肯定的人物をいかにして描くか。新しき善意をいかにして創造するか。やりかたは私と違うのは当然だが、その努力だけは捨ててくれるな。真理先生は若き世代にそう呼びかけている。」――このように武田泰淳は実篤の「真理先生」について述べている。僭越ながら、私も全く同じ思いだ。しかし、肯定的人物とは何か。新しき善意とは何か。余談ながら、私は岡田惠和氏の描くドラマが好きだ。朝ドラの『ちゅらさん』や『ひよっこ』などがその典型だが、そこには基本的に悪い人は存在しない。皆、様々な問題に直面しながら日々懸命に前向きに生きている。そして、その生は最終的に報われ、皆幸福になる。だから、安心して観ていられる。ただし、その「安心さ」は『水戸黄門』や『大岡越前』のようなドラマの「安心さ」とは質的に異なっている。時代劇特有の世界観という面もあるが、どんな悪人が登場しても最終的には黄門様やお奉行様が裁いて下さる。水戸光圀も大岡忠相も明らかに肯定的人物であり、そこには善意がある。その構図は現代の「ヒーローもの」でも変わらないが、岡田氏のドラマには如何なるスーパーヒーローも登場しない。皆、何処にでもいるような平凡な人たちばかりだ。そうした名もなき貧しき人たちが悩みながらも美しく生きているドラマに、私は水平的幸福と力あるヒーローとは異なる肯定的人物の可能性を見出す。当然、その善意にも力はないが、力なき市井の人たちの力なき善意が劇的に世界を輝かせる。それは不思議な輝きだ。力あるヒーローの力ある善意が世界を輝かせるのは理解できる。しかし、力とは無縁の人たちの善意の輝きは畢竟メルヒェンでしかない。実際、力なき善意に何ができるのか。世の中を匡し、正しい社会をつくるのは力ある政治家などの力ある善意ではないか。そもそも肯定的人物とは通常、力あるヒーローに限られている。たとい力なき庶民が肯定されるとしても、それは力あるヒーローの力ある善意の庇護の下での肯定にすぎない。これが現実であり、野暮を承知で言えば、岡田氏のドラマの輝きは所詮非現実的なものだ。では、力なき善意は如何にして現実の輝きとなり得るか。少なくとも私はもはや力あるヒーローとしての肯定的人物に関心はない。我々の創造すべき新しき善意はそうした通常の肯定的人物を超越した次元に求められる。そして、その次元を切り拓くことこそユートピアの機能に他ならない。

補足:パラダイスの呪縛

あらゆるイキモノは欠乏のニヒリズムに駆られて生きている。「生きる」とは欠乏を満たすことだ。当然、人も例外ではない。喉が渇けば水を飲み、腹が減れば何かを食べる。そこに「生の充足」があり、古来、それは各地の神話で描かれてきた。その名称は様々なれど、あらゆる欠乏が満たされる「無為自然の楽園」を私はアルカディアと総称したい。自然にあるもの、自然になるもので「生の充足」が得られるアルカディア。しかし、多くの神話はそれを失楽園と見做している。アルカディアという自然楽園は失われる運命にある、ということだ。何故か。アルカディアでの生活に人は倦怠するからだ。もはや自然にあるもの、自然になるものだけで「生の充足」は得られない。かくして量的にも質的にも自然にないものによる「生の充足」を人は求め始める。それは人工楽園としてのパラダイスだ。しかし、パラダイスは限りなく膨張するのみで、その人工的な「生の充足」にも人はやがて退屈し始める。いくら欠乏を満たしても、新たな欠乏が次々と生まれてくる。例えば、食うに困らぬ豊かさの中にも欠乏はある。貧乏のどん底から刻苦勉励して這い上がり、めでたく金持になる立身出世物語。かつてはパラダイスを意味したが、今や退屈な物語でしかない。パラダイスは過剰のニヒリズムに蝕まれている。勿論、アルカディアへの回帰に救いを見出す人もいれば、それぞれの身の丈に合ったパラダイスに満足している人もいるだろう。それはそれでいい。しかし、私はアルカディアとパラダイスに引き裂かれる人の運命を見極めたい。そこに人が人間になるドラマがあるからだ。