野性の理想主義(6) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

野性の理想主義(6)

夢と理想の差異については何度も問題にしてきたが、改めて考えてみたい。人は夢のある人生を求める。夢のない人生を余儀なくされることがあるとしても、誰しも幼い頃に一度は夢を懐く。大抵、それは両親を中心とした周囲の身近な人たちの価値観、あるいはマスコミや人気ドラマの影響によって形成される。例えば、大金持、プロのスポーツ選手やミュージシャン、人気アイドル、スーパードクターなど。当然、大人になるにつれて、幼い頃の夢は現実的に再構成される。「現実的に」とは「自分の身の丈に合った」ということだ。私の場合、夢はプロ野球選手になることだった。理屈ではない。幼い私にとって、プロ野球選手ほどカッコイイ存在はなかった、ただそれだけのことだ。しかし、私の夢は叶わなかった。理由は明白、私にカッコイイ野球選手になるだけの才能がなかったからだ。それが現実であり、私の夢は挫折した。言うまでもなく、夢の挫折は何も私に限ったことではなく、殆どの人はその現実的な生を夢の挫折から始めることになる。或る人は「自分の身の丈に合った」別の夢を追い求め、また或る人は才能ある誰かに自分の夢の実現を託す。しかし、私はそのような夢の「現実的な再構成」に赴かなかった。私は端的に夢の挫折に絶望し、更に言えば挫折できた現実に絶望した。と言うのも、「プロ野球選手になる」という夢は自分にとって絶対的なものだと思っていたからだ。そして、絶対的な夢に挫折したら、もはや生きている意味はない。そう思った。私には趣味として草野球を楽しむとか、プロ野球の一ファンとして「推し」のチームや選手を応援するなどという選択はなかった。野球に挫折した途端、野球に対する絶対的な関心を失ったからだ。以前には夢中になって観ていた野球中継も退屈なものでしかなくなった。大谷翔平選手のようなスーパースターに対しても実にスゴイ!と感心するものの、今やそれほど関心はない。もしかしたら、こうした私の変化は野球に挫折した自己の巧妙な正当化なのかもしれない。その疑念は今も燻っている。ただ、燻る疑念と共に私の念頭に浮かぶのはマラソンの円谷選手の自裁だ。本当の理由はわからない。しかし、それがマラソンランナーとして生きられない自分の拒絶だとしたら、円谷選手は自らの夢に殉じたと言えるのではないか。私は夢に殉じることができなかった。殉じることができるほどの夢ではなかったからだ。私は殉じるに値する新たな夢を求めた。絶対的な何かを求めた。しかし、この世界に絶対的なものなど皆無であった。水平の次元に見出されるのは相対的なものばかりだ。その現実に、絶対的なものの不在に私は絶望した。私の理想の追求は、正にその絶望から始まる。