新・ユートピア数歩手前からの便り -217ページ目
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ラディカル実篤

新しき村は大正7年(1918)武者小路実篤によって創立されたものですが、実篤は決して教祖的な存在ではありませんでした。勿論、実篤に対する尊敬・敬愛といったものはありますが、彼を教祖的存在に祭り上げなかったところに新しき村の「新しさ」があると私は思っています。禅の教えに「殺仏殺祖」というものがありますが、正にそれは村の精神でもあるのです。そうした観点から書いたのが、下記の拙論です。御笑覧下さい。


ラディカル実篤
日比野英次

はじめに
 実篤は『理想的社会』の「緒」で次のように述べている。

 現在の社会に満足出来ないとすれば、どう云ふ社会を我々は望むべきであるか、そしてその我々が望む社会に生活するにはどう云ふ方法をとったらいいか、それを自分はここで考へられるだけ考へて見たい。

 しかし傲慢だとの非難を恐れずに言えば、その「考へ」は未だ充分な「思耕」を尽くしていない。殊に「どう云ふ社会を我々は望むべきであるか」という問題について、実篤のヴィジョンは未だ究極的なものではないと思われる。実篤はいみじくも「我々は目指す世界をはっきり知ることが必要と思ふ。それがはっ切りすれば、それに到達する道がわかる」と述べているが、実篤の目指す世界=理想的社会は未だ真に新しいものを表現し得ていないのだ。そこに新しき村について多くの人々が未だに抱いている誤解もしくは諸問題の根があると私は思う。その点について少し考えてみたい。

一、 実篤のヴィジョン

 実篤は理想的社会の要件として次の三点を挙げている。

 一、すべての人が、人力で得られる限りにおいて長生きするやうに十分注意されてゐること。
 一、各個人が、出来るだけ自己の趣味、自己の正しき要求、天職、個性を発揮出来るやうに注意されてゐること。
 一、すべての人が出来るだけ多くの喜びを感じて生きられるやうに注意されてゐること。

 こうした「注意が十分に実行されてゐる社会は、理想的な社会である」と実篤は言っているが、それは結局、「新しき村の精神」の第一、すなわち「全世界の人間が天命を全うし、各個人の内にすむ自我を完全に生長させる」という理想に集約されるだろう。更にこの理想を私なりに具体化して言えば、「全世界の人間が天命を全うする」という理想は肉体の糧をめぐる水平的問題であり、「各個人の内にすむ自我を完全に生長させる」という理想は魂の糧をめぐる垂直的問題に他ならない。従って新しき村という理想的社会は、水平と垂直という本来次元を異にする問題を同時に解決するものだと言えよう。これは人間の実存構造に対応する実にラディカルな理想であり、おそらくこれ以上の社会的理想を考えることはできないと思われる。

 しかし乍ら、多くの人々は未だそのラディカルな理想を真に理解していないのではないか。例えば「理想的社会では、すべての人が生きるために必要なものは、義務労働で解決し、その他は全然、自由を尊重することで解決したい」という実篤の言葉を、単に「義務労働さえ果せば、後は自分の好きなことができる」という程度に理解している人が多いのではないか。もし我々の目指す世界=新しき村がその程度のものなら、そのヴィジョンは何らラディカルなものではない。少なくとも私自身はそのように中途半端なものを「新しき村」と見做したくはないと思う。

 では、何が問題なのか。それは肉体の糧を満たす水平的理想と魂の糧を満たす垂直的理想の関係に他ならない。前者をパンの理想、後者をパン以上の理想と言ってもいい。人はパンのみにて生くるにあらず、さりとてパンなしではパン以上の理想を追求することも叶わないという現実において、一般的にはパンの理想の実現、すなわち「すべての人間が食うに困らぬ社会の実現」を以て理想的社会の成就と見做されるだろう。実篤のヴィジョンでは、それは義務労働によって解決されることが目指される。しかし、そうした水平的理想の実現は真に理想的な社会に至る道の半分にすぎない。勿論、この半分の道でさえ極めて困難なものではあるが、ここで問題にしたいことはもう半分の道、つまり垂直的理想を実現する道との関係に他ならない。

 残念乍ら、実篤のヴィジョンにおいて、その関係は根源的には問われていない。と言うより、それは問うべきではないとされているようにも見える。常識的に言えば、人々が共同の理想となし得るのは水平的理想に限られ、垂直的理想は各個人の魂の問題とされることだろう。実篤の基本的ヴィジョンもこの常識を超えるものではない。しかし、もしその常識に止まるならば、新しき村の理想は個人の垂直的理想追求を最大限に可能にする水平的理想、言わば個人主義を最大限に生かす共同体の理想にすぎないものと言わざるを得ない。それで何が悪いのか、と少なからぬ人は思うかもしれない。悪いわけではない。ただ、その理想は未だ究極的なものではないだけだ。

 もしかしたら、殆どの人は水平的理想の共同体(全ての人が食うに困らぬ社会)の実現を以て満足し、垂直的理想の共働体を蛇足だと思うかもしれない。全ての人が究極的理想の実現を望むわけではないのだ。しかし「理想的社会」についてラディカルに「考へられるだけ考へる」ことを目指すならば、道は垂直的理想の共働体に辿りつく他はないと思われる。私はそのヴィジョンを祝祭共働体に見る。

二、祝祭共働体というヴィジョン

 祝祭共働体とは何か。それは古き村の全体主義(統一体)と近代都市の個人主義(バラバラの個)の両者を止揚する個即全・全即個の統合体に他ならない。水平的理想と垂直的理想の関係に即して言えば、それは「個人の自我の完全なる生長」という垂直的理想が水平の次元において具体化することを意味する。更に宗教的な比喩を用いれば、水平的理想に受肉した垂直的理想が祝祭共働体を形成すると言えるだろう。こうした祝祭共働体が一般に理解され難いとすれば、おそらくそれはこの「受肉」のヴィジョンのせいだと思われる。と言うのは、先述したように、一般的には水平的理想と垂直的理想は断絶しているとするのが常識だからだ。

 確かに水平的理想が共同のものであり、垂直的理想が個人のものであることは間違いない。従って理想の共同体はあくまでも水平的理想が実現された状態を意味し、そこにおいて個人は自由に(もはや肉体の糧=パンの問題に煩わされることなく)魂の糧を求めることができるだろう。しかし魂の糧は個人のもの(実存的なもの)であるが、それを満たす垂直的理想は個人主義によっては到底実現され得ないと私は思う。その意味において、「理想的社会」の極北に位置すべき「新しき村」は水平的理想が満たされただけの共同体を超えていく必要がある。すなわち「新しき村」は水平的理想の共同体であると同時に、垂直的理想の共働体でなければならないのだ。ここに「新しき村」の問題中の問題がある。

 しかし率直に言って、私は未だ問題中の問題としての「祝祭共働体」について説得的に語り得る言葉を持っていない。また紙数の都合上からも、ここではその要点だけを記すに止めたい。

(1) 祝祭共働体は全世界の人間が幸福になるシステムの実現を目指す。それは決して抽象的なものであってはならない。基本はあくまでも各個人が現実に幸福になることであって、それを無視した全体の幸福などというものを考えることはできない。その意味において「滅私奉公」という古き理想は原理的に無に帰したと思い知るべきだ。少なくとも新しき村において、個人は如何なるものの犠牲にもなってはならない。しかし自立は孤立ではない。個人は個人主義によっては真に幸福になることはできないだろう。勿論、全体主義によってもなれない。重要なことは各個人の幸福がそのまま全体の幸福でもあるような現実だ。そのような現実を私は「祝祭」に見る。それは個即全・全即個という統合の現実であり、その現実において祝祭共働体は古き村のゲマインシャフト(Gemeinschaft=共同社会)と近代都市のゲゼルシャフト(Gesellschaft=利益社会)を共に止揚するポスト・モダンの「新しきゲマインシャフト」だと言えるかもしれない。

(2) 祝祭共働体はアウタルキー(Autarkie=自給自足)の精神に基く個人の連帯によって形成される。私はかつて人間生活の理想は完全なるアウタルキーにこそあると思っていた。しかしそれはどう考えてみても原理的に不可能であるし、またたとい可能であったとしても余り面白い生き方とは言えないだろう。やはり人間として生きることの真の喜びは他者との共働にこそあるのではないか。それは他者に依存して生きることとは全く異なる次元のことだ。それぞれの個人が人間生活に必要なものを生産して分かち合う――言わば自立した人間同士のコミュニケーションが共働の本質だと思われる。小田実の言葉を借りれば、それは決して「われら」とはならぬ「われ=われ」の連帯に他ならない。彼がいみじくも言っているように、自立と連帯は同時にかたちづくられるものであって、それ以外のものではない。

(3) 祝祭共働体は「労働の芸術化」(ウィリアム・モリスが言うような意味における)を目的とする。肉体の糧を得るための活動を「労働」、魂の糧を得るための活動を「仕事」とするならば、両者の一致にこそ真の理想的生活がある。その一致の形態としては、「労働の仕事化」(例えば、篤農家)と「仕事の労働化」(例えば、職業芸術家)の二種が考えられるが、それらを総合して「労働の芸術化」と称したいと思う。勿論、「労働」と「仕事」を二元論的に分離し、義務「労働」を果した後にのみ「仕事」の自由が得られるというのが現実であろう。新しき村における現実の生活も、その例外ではない。しかしその現実に止まるならば、村の生活に「新しさ」など全くなく、それは基本的にサラリーマンの生活(九時から五時まで生活のために労働して、それ以後自分の好きなことを楽しむ)と大差ないものと言わざるを得ない。それで悪いわけではないが、真に理想的な生活とは言えないだろう。

 結局、新しき村を真に必要とする者は誰か。それは現代社会に絶望している者だろう。論理的にはそうなる。しかし実際には現代社会に対する絶望がそのまま新しき村の必要にはなっていない。何故か。それは新しき村のヴィジョンが現代社会の絶望を真に克服し得るものになっていないからだ。つまり誰もがそこで生活したくなるような社会のあり方――それを新しき村は未だ示すことができないでいる、ということだ。では如何なる社会が我々にとって真に理想的なもの足り得るのか。問題の核心は個人生活の捉え方にあると思われる。理想的社会においては先ず個人の自由が最大限に尊重されなければならない。それは実篤のヴィジョンの核心でもある。しかし、それだけではないと思う。確かに個々の自由な生活が完全に保障されれば、多くの人々はそこに理想的社会の実現を見ることだろう。他人に一切煩わされることのない生活。しかし私はそれ以上の生活を望みたい。また、そう望むところにこそ真の「新しさ」があると思う。それは他者と共働する祝祭の生活だ。尤も他者との関係には微妙な問題がある。しかし人間として生きることの実存的な喜びは、やはり他者との関係から生まれてくるのではないか。少なくとも究極的な「理想的社会」としての新しき村のヴィジョンは、自立した自由人としての個人が他者との共生(もしくは連帯)に生きる喜びを見出す祝祭共働体に辿り着くものと思っている。

おわりに

 若き実篤は「理想的社会」の実現を望んだ。単に望んだだけではなく、実際に「新しき村」としてその実現の第一歩を踏み出した。これは誰にでもできることではない。若きマルクスも言うように、世界を様々に解釈する哲学者の仕事もさること乍ら、重要なことはやはり世界の変革なのだ。実篤は間違いなくその一歩を踏み出した。しかしそれが真に「新しき一歩」となるためには、更にラディカルなヴィジョン(祝祭共働体)が必要になるだろう。真の実篤はラディカルな実篤だと私は確信している。
                     

新しき村は共同体にあらず!

世界には「理想社会」の実現を目指した様々な共同体があります。その中には「洗脳集団」と称されるものもあり、共同体運動は何か胡散臭いものだというのが一般的な印象だと思われます。すなわち共同体では個々の自由が抑圧され、全体主義的な雰囲気が支配的だとの印象です。それは強ち間違った印象ではないと思いますが、私の目指している「新しき村」は全く異なります。その点から書いたのが下記の論考です。御笑覧下さい。


新しき村は共同体にあらず!
日比野英次                   

はじめに

 昨年或る女子大生が卒論の調査ということで来村された際、半ば冗談に「新しき村にあなたのような若い女性がどんどん入ってくれるようになるためにはどうしたらいいでしょうね?」と問うたところ、「今時そんな物好きな人はいないんじゃないですか」とあっさり言われてしまった。私はその余りに率直な応えに愕然としたが、よく考えてみれば、この彼女のような反応こそ世の人々の新しき村に対する一般的な印象なのだろう。すなわち、新しき村の理想は理想として、それを実現しようと本気で考えている人は「物好きな人」にすぎないということだ。

 勿論、こうした印象は誤解に他ならない。私はそれが誤解であることを明らかにするために、これも昨年来村されたサイデンステッカー氏(「源氏物語」や谷崎・川端の英訳で高名な日本文学研究家)との一エピソードを紹介したいと思う。

1.犬と猫

 私はサイデンステッカー氏に問うた――「あなたはコミューンに関心がありますか?」すると氏は即座に「関心はあるが、自分がコミューンに住もうとは思わない」と答えられた。そこで更にその理由を尋ねると、氏は暫し黙考の末、「それは犬が好きか、猫が好きかの違いです。犬はコミューンに住めるが、猫は住めません。私は猫のように生きたいと思っています」と言われた。

 氏の言わんとされていることは明らかであろう。鎖に繋がれているような束縛された生活を意に介さぬ犬ならコミューンに住めるが、自由に動きまわることを尊ぶ猫には堪えられないというわけだ。(余談ながら、或る作家によれば「犬は自分を人間だと思い、猫は自分を神だと思っている」そうだ。)

 おそらく、こうしたコミューン観は多くの人々に共通するものであり、冒頭に述べた女子大生の新しき村に対する反応もこれに基くものだろう。しかし、言うまでもなく、このコミューン観は新しき村には当てはまらない。それ故、私はサイデンステッカー氏に対して、「新しき村は猫の村を目指している。自由に生きる個人が自己を真に活かすことのできる共働体こそ必要なのだ」と反論した。この反論に対して氏はもはや何も言わず、ただ苦笑されるだけであった。 

2.「猫の村」

 サイデンステッカー氏との束の間の対話はそれで終わったが、問題は「猫の村」とは具体的に如何なるものか、ということだろう。私はサイデンステッカー氏に「新しき村は猫の村を目指している」と言ったが、後でよく考えてみると、それは少し違うように思えてきた。

 確かに独立自尊の猫が他律的な「古き村」に住めぬことは言うまでもない。その意味において新しき村こそ猫に相応しいものだと私は思った。しかし、もし猫が自律を真に実現した存在なら、如何なる村も必要とはしないのではないか。すなわち個人主義的な「近代都市」こそ理想であって、それを超えて「新しき村」を求める必然性はないのではないか。おそらく、勝手気儘に生きることだけを望む猫レベルの存在なら、それで問題はないだろう。しかし、人間は違う。ただ生きて在ることだけでは満足できぬ人間にとって、「新しき村」を求めざるを得ぬ必然性は厳然として存在する。少なくとも人生の意味をあくまでも究極的に問うならば、他律のみならず自律さえも真の理想とするに値しないだろう。何故か。それらは何れも人間に真の自由をもたらさないからだ。

 ヘーゲルによれば、他律と自律の違いは「主人が外にいるか内にいるか」ということにすぎない。つまり他律は他者の奴隷になることであり、自律は自分自身の奴隷(!)になることなのだ。何れにも真の自由はない。他律も自律も奴隷的生き方であることに変わりはないのだ。では、真の自由は如何なる生き方にあるのか。

 他律、自律、とくれば次は神律となる。しかし問題は神律のリアリティであろう。それを真に理解するためには、神律における神=絶対者をラディカルに把握する必要がある。さもなければ、他律と自律を超える神律の真意を理解できないと思われる。すなわち、神律における神を超越神だと解すれば、それは実質的に他律と変わらない。また、内在神と解すれば、自律と大差ないものとなる他はない。超越神も内在神も神律のリアリティを語るに相応しくないものだ。

 では、如何なる神観もしくは絶対者観が神律のリアリティを語り得るのか。今ここで、その議論に深入りすることは自重したい。ただ、それを語ろうとすれば、「対立者の一致」(クザーヌス)、「同一性と差異性の同一性」(ヘーゲル)、あるいは「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)といった逆説的表現にならざるを得ず、神律のリアリティはその実「律」(ノモス)の止揚にあることだけを指摘するに止める。すなわち神律とは絶対的な逆説であり、真の絶対者としての神に律されることは、その神も含めた何者にも律されることのない絶対的自由の実現を意味するのだ。結論だけを言えば、神律とは祝祭であり、そのリアリティは神と遊ぶことに他ならない。

 何れにせよ、新しき村を「猫の村」だと主張したのは早計であった。勿論、新しき村はあくまでも自由な生活を求める。しかし、それは猫のような自由ではない。他律の束縛(犬の生活)から自律の自由(猫の生活)を経て、神律の自由(祝祭的生活)へ――ここに新しき村が求める究極の理想があると私は思う。

おわりに

 もしコミューン=共同体が「犬の村」に限定されるのなら、新しき村は共同体ではない。では一体何かと言えば、今の私は「祝祭共働体」と答えるしかない。「祝祭共働体」こそ人間の自由が真に実現される場なのだ。個が全体に束縛される「共同体」は古き村の構造であり、新しき村はその構造をディコンストラクトすることによって個が真に生きる全体(個即全・全即個の統合体)を実現しなければならない。それが「祝祭共働体」なのだが、こう言ってみたところで多くの人は納得しないだろう。「祝祭共働体」の具体的なヴィジョンを示さなければ誰一人として説得できないことは重々承知しているつもりだ。

 ただ、それにも拘らず、ここで言っておきたいことは、新しき村は決して一部の「物好きな人」のみが住める特殊な場所ではないということだ。そもそも一般の普通の人にとって息が詰まるような生活がどうして新しき村の理想になり得ようか。新しき村はあくまでも、我々が本当に人間らしく生きられる生活を実現しようと思っている。その意味において、本当に生きようとしている全ての人にとって、新しき村は不可避であり、その実現は人類の使命だとさえ言えるだろう。

 既存の社会でそれなりに幸福に生活できる人はそれでいい。しかし現実の社会に絶望している人、この社会ではとても人間らしく生きられないと切実に感じている人、そうした人々は新しき村に無縁でいることはできないと思われる。勿論、現実の村は未だ新しき村になっていない。その理想を実現する道は遥かに遠いと言わざるを得ない。だからこそ、多くの人々(特に若者、更に言えば若い女性!)の力が必要なのだ。一人でも多くの人が新しき村に積極的な関心を寄せてくれることを心から願っている。
                   

新しき村の使命について

私は恰も「新しき村」の代表であるかのような調子でこの便りを書いておりますが、事実は全く違います。むしろ村の中では異端的存在であり、私が進めようとしている活動に対しては少なからぬ抵抗があるというのが実情です。

しかし乍ら、私の考えに共鳴して下さる人もいます。そうした人達と最近、「新生会」(新しき生活を実現する会)というものを設立しました。ゆくゆくはNPO法人として組織化して、様々な事業を展開してゆく予定です。これは「新しき村」とは一線を画した活動ですが、現実の村が新しい活動に対して閉鎖的である以上、我々としては自分達の理想とする「新しき村」を独自につくっていくしかないと思っています。

何れにせよ、「新生会」については後日詳しくお知らせしますが、今は私の構想する「新しき村」について述べたいと思います。本日は「新しき村の使命について」です。


「新しき村」の使命について                      
日比野 英次
 

 新しき村の使命とは何か。この問いに対する答え方は十人十色であろう。それぞれの答え方にその人の新しき村に対する主体的な関係が表現されるに違いない。そうした主体性は勿論重要なことではあるが、往々にして主観的な議論に流れる嫌いがある。そこで新しき村の使命を客観的に議論できる何か良い方策はないものかと考えていたところ、関口弥重吉兄より「財団法人『新しき村』寄付行為」なるものがあることを教えて戴いた。一読、この言わば「新しき村の憲法」とでも言うべき文書こそ真に実のある議論を生む土壌ではないかという印象を持った。尤も客観的な条文だけに立脚して物事を判断する律法主義は本来新しき村らしからぬことではあるが、新しき村の使命について考える一つの試みとして大方の御笑覧に供したいと思う。

 では早速、「財団法人『新しき村』寄付行為」に基いて新しき村の使命について考えてみることにしたい。その第三条(目的)、第四条(事業)は次のように記されている。 

(目的)

第三条 この法人は全ての人間が天命を全うし、その個性を完全に成長させることを理想とし、この理想を実現できる社会を、人間の自発的な正しい協力によって建設することを目的とする。

(事業)

第四条 この法人は前記の目的を達成するため次の事業を行う。

完全協同経営による近代農業を基幹とする「新しき村」の建設経営
「新しき村」精神の普及宣伝
出版その他の文化事業
その他「新しき村」の目的達成上必要な事業

 言うまでもなく、第三条は「新しき村の精神」の第一に基いたものであり、これを新しき村の目的とすることには全く問題はない。我々の問題とすべきは「その目的を如何にして達成するか」であり、具体的には第四条をつぶさに吟味することが必要となる。そこで第四条を改めて見ると、第三条の目的を達成するための事業として四つ挙げられているが、第四点は「その他」であるし、第三点の「出版その他の文化事業」は内容的に第二点に含まれるので、結局新しき村の事業としては第一点と第二点に収斂されるだろう。すなわち内の充実と外への働きかけだ。

さて、こうした第四条の理解に基いて、ここで私が問題にしたいことは二点ある。第一点は新しき村の使命には内に向かうものと外に向かうもの、言わば求心的なものと遠心的なものの二つ存在するということであり、第二点はそうした二つの使命の関係についてだ。

 先ず第一点についてであるが、何故この点を問題にするかと言えば、農業労働のみが所謂「村の仕事」(義務労働)だと限定するような謬見を正したいからだ。しかし誤解のないように断っておくが、私は決して農業を軽視するつもりはない。むしろ農業はあくまでも新しき村の建設経営の基幹であり、それが第四条(事業)の筆頭に掲げられていることは無限に正しいものと信じている。と言うのも、全ての人間が天命を全うできる社会は循環的に持続=永続する農業によってのみ可能となるからだ。(少し横道に逸れるが、そうした農業が「近代的農業」であるかどうかには疑問の余地がある。もし農薬・化学肥料に依存する工業的農業を「近代的農業」と解するならば、それは新しき村の基幹とすべき農業ではないだろう。そうかと言って、無益な重労働を強いる「前近代的農業」に戻ることは論外だ。それ故我々はそうしたアポリアを克服する「新しき村農法」とでも言うべきものを考える必要があるが、今はそれを問題にすることは自重したい。)しかしたとえ農業がどんなに重要でも、それだけに集中することでは新しき村の使命を果たすことにはならない。また、たとえ農業経営においてどんなに成功しても、それは新しき村の目的を達成することを意味しないと私は思う。新しき村は単なる「農業生産共同体」ではなく、あくまでも人間の究極的な理想を実現するという使命をもつ「精神の共働体」なのだ。その点を見失うと、新しき村における農業労働の意味そのものが宙に迷うことになる。そもそも新しき村は財団法人であって農業法人ではない。尤も外見上は農業法人と何ら変わるところがないように見えるが、実質上は全く次元を異にしている。例えば各個人の義務労働は雇用関係に基くものではないから、月々支払われる「個人費」を給料と見なすことはできない。言い換えれば、村内会員は報酬を得るために(金を稼ぐために)労働をしているのではない。では一体何のために働いているのか。言うまでもなく、新しき村をこの地上に実現させるという使命のためであり、「寄付行為」によれば、それは先に述べたような二つの事業を行うことに他ならない。

 次に、第二点についてであるが、新しき村の建設とその精神の普及宣伝という二つの使命は恰も車の両輪の如く機能すべきだと思われる。しかし、これまでの村はともすると後者の使命に余り熱心ではなかったような気がする。むしろ二つの使命の関係を二段階的に捉え、例えば商品開発とその販売のように、先ず理想的な村の建設に全力を尽し、それを実現した後に初めてその普及宣伝の事業に着手できるものと理解されてきたのではないか。確かに未完成なものを普及宣伝できないと考えるのは当然であり、真の完成はその普及宣伝を無用のものとするとさえ考えられるだろう。新しき村が真に完成すれば、それを普及宣伝する必要もなく自然に全世界に広がっていくという風に。しかしそれは幻想でしかないと思う。新しき村の完成は、その精神を不断に普及宣伝していくことなくしてあり得ない。成程、家を建てなければ、そこに住むことはできない。しかし新しき村という家は、それを建てることの意義・必要性を全世界に訴えて、それに共鳴する人の参加を得なければ到底完成できるものではないと思われる。すなわち家を建てた後、「理想的な家が完成しました。どうぞ住んで下さい」と普及宣伝することは不可能、と言うよりも無意味であり、現実的な道としては「全世界の人間が本当に生きるためには新しい家が必要だ」という新しき村の精神を普及宣伝することで同志を結集し、それによって新しい家の完成を目指すしかないのだ。従って新しき村の建設からその普及宣伝へと移行するのではなく、新しき村の精神の普及宣伝によって村の建設を推進していくことになる。もはや「一国社会主義」のように「先ず限られた一地域で理想的なモデルを実現して、それからそのモデルを全世界に広めていく」という二段階的発想は古き村のものだと言わざるを得ない。新しき村の建設は一握りの限られたエリートたちによって先導されるべきものではなく、それを必要とする全ての人によって共働されるべきものだ。村内の充実と村外への働きかけは相即している。どちらが欠けても空虚なものとなる。私は先に「新しき村の使命は二つある」と述べたが、厳密に言えば一つの使命に二つの面があると言うべきだろう。瀧澤克己の言葉を借りて言えば、それは不可分・不可同・不可逆の二面だ。

 結論。「寄付行為」第三条に明記された目的を達成するために、我々は第四条に見られるような内的事業と外的事業を行わねばならない。すなわち、前者は全ての人間が天命を全うできる農業を基幹とした新しき村の建設経営(蛇足ながら、新しき村は農業を基幹とした上で他の様々な産業を発展させる可能性をもっていることを指摘しておきたい。つまり新しき村を農村に限定して考える必要はないということだ)であり、後者はそうした村においてこそ各人の個性を完全に成長させることができるという新しき村精神の普及宣伝に他ならない。誤解を恐れずに言えば、人間は新しき村の実現なくして本当に生きることはできないと思われる。言い換えれば、人間が本当に生きることを実現できる場こそ新しき村なのだ。古い世界に絶望した者のみが新しい世界を求める。少しでも古い世界に希望があれば、そのまま古い世界にとどまった方が賢明だろう。わざわざ苦労して新しい世界をつくろうとする必要はない。ただ古い世界のどこにも生きる場所のなくなった者だけが新しい世界を必要とするのだ。新しき村も然り。新しき村を必要としているにも拘らず未だ新しき村を知らないでいる人々は世界にたくさん潜在するだろう。新しき村の真の実現はそうした「未知の兄弟姉妹たち」への呼びかけなくしてあり得ない。その意味においても、私は新しき村の内なる充実とともに外への働きかけが我々の使命だと思っている。

新しき村の実現について

「ユートピア数歩手前からの便り」とは、言うまでもなくウィリアム・モリスの「ユートピア便り」(News from Nowhere)に準じたものです。ただモリスの場合は自分の理想とする社会をファンタジーとして作品化したわけですが、私は敢えてユートピアを現実のものとするという目的でこの便りをお送りしたいと思っています。勿論「ユートピア」の語源からすれば、それは「どこにもないところ」ですから、それを現実のものにしようとすることは実に馬鹿馬鹿しく無駄なことかもしれません。しかし私は決して無意味なことだとは思っておりません。そこで私が現実化しようとしている所謂「理想社会」の在り方について、本日から数回に渡って述べたいと思います。それらは全て「新しき村」の機関誌に掲載したものですが、私の今後の便りの序章として御笑覧下さい。


新しき村の実現について 
日比野英次

はじめに  

私は「新しき村」を武者小路実篤の村に限定して考えていない。古今東西の所謂ユートピア思想が「新しき村」の土台となっている。しかし、その中で武者小路氏の構想を中心に考えるべきだとすれば、それは氏があくまでも「個を活かす」ということを目的とされた点に見出されるだろう。

武者小路氏はあくまでも個人の魂の糧を問題にする芸術家であった。確かに氏には社会全体の改革という関心もあり、それなくして「新しき村」の活動もあり得ないが、氏はついに実際的な社会運動家ではなかったと思われる。そこに氏の限界を見出す人も多いが(特に現実的な共産主義者などは、氏の試みを「空想的」の一言で片付けてしまうに違いない)、見方を変えれば、そこに氏の大きさがあるとも言えるだろう。

何れにせよ、私は個人としての人間(単独者)が本当に生きることを求める――これが全てのユートピア思想の出発点でなければならぬと思っている。従って「新しき村」は個人としての人間が本当に生きることを実現できる場でなければならない。これこそユートピアを求める様々な試みの原点であるべきだろう。言わば個を真に活かす全体の実現だ。それは全体のために生きる(犠牲となる)個の止揚であることは当然であるが、同時に個のために存在する全体の止揚でもあることも忘れてはならない。すなわち私の目的地は、個即全・全即個の成就としての「新しき村」なのだ。私は、こうしたユートピアの究極とも言うべき「新しき村」の具体的内容を、その真の新しさについて考えることで明らかにしていきたいと思う。


   「新しき村」の新しさについて

五月の連休中に村を訪れた観光客の一人が「新しい村なんて言うけど、古い建物ばかりでちっとも新しくないじゃないか」と呟いていたそうであるが、「新しき村」を「新しくつくられた村」だと思う誤解には単なる笑い話では済まされぬ或る根源的な問題が潜んでいるように思われる。すなわち「新しき村」は「新しい村」ではないのだ。

では「新しき村」の本当の新しさとは一体何か。それは「昨年つくられたものよりも今年つくられたものの方が新しい」というような水平的時間の流れにおける新しさではなく、あくまでも垂直的な時間における新しさであろう。尤も我々が日常生活において感じているのは水平に流れている時間なので、垂直的な時間はむしろ永遠と言った方がいいかもしれない。ただし、それは悪無限としての「永久」とは異なり、或る理想の時熟(カイロス)として水平的な時間(クロノス)に突入してくる「永遠の今」なのだ。従って、それは決して抽象的なものではない。私はそうした垂直的な新しさを、「古き村―近代都市―新しき村」という弁証法において明らかにしたいと思う。


   (1)古き村―近代都市―新しき村

先に述べたように、「新しき村」の魅力は自己(個人としての人間=単独者)を真に活かすことを主たる目的とする共同体という点にある。これを個と全体の関係で言えば、全体のために個があるという構造をもつのが封建主義的な「古き村」であるのに対し、「新しき村」は個を真に活かすための全体(これは後述するように単に個のために全体があるという構造ではない。その微妙な差異が問題なのだ)の実現を目指していると言えよう。こうした「新しき村」の理想は実に魅力的なものであるが、ここには根本的かつ構造的な矛盾がある。それは自己を真に活かすということと共同体の関係だ。前者は垂直的の次元における主体的な事柄であるのに対し、後者は水平の次元における社会的な事柄に他ならない。果して自己を真に活かそうとすることは共同体を必要とするだろうか。我々は先ず、この根本的な問題に立ち返らねばならない。さもなければ、「新しき村」に幻滅する者の後を絶てないだろう。

そこで、改めて問う。理想の共同体とは何か。しかし、私の考える理想が他者の理想と同一であるとは限らない。してみると理想の共同体というのは一つの矛盾ではないか。先ずこの矛盾について考えてみる必要がある。もし唯一の理想を追求する共同体を考えてみれば、それは抑圧以外の何ものでもないだろう。と言うのは、理想は個人によって種々雑多であるのが当然であるからだ。それ故、唯一の理想によって統一される共同体は何ら理想的ではないと言えよう。実際、共同体の生活と聞くと顔を顰める人が多いのは、そこでは個人の自由が制限されるという印象のせいだと思われる。残念なことに、現にある殆どの共同体はその印象が正しいことを証明しているが、理想の共同体とは決してそういうものではない筈だ。では、理想の共同体の真の姿とは如何なるものか。

私は理想の共同体というものを一応「様々な個人の理想が統合される共同体」だと理解している。そこでは個人の理想が自由に、何に妨げられることもなく追求される。もはや経済的な問題を気にする必要はない。個人は自らの理想追求に最大限集中することができるのだ。このように重要なことはあくまでも個人の理想追求だが、それは個人だけでは決して達成できないだろう。これは経済的な理由によるだけではなく、むしろ人間存在の原理によるものだ。尤も「個人の理想追求に共同体など関係ない。むしろ邪魔なだけだ」と考える人も多いかもしれない。しかし私はそうは思わない。そもそも個人の理想というものは個人だけでは成就することは原理的に不可能であり、否応なく他者との関係を必要とするものだろう。人間の原点は単独者であるが、単独者のままで本当に生きることはできない。それが人間の現実だ。山奥で修行していたツァラトゥストラも里に下りて来ることを余儀なくされた。それは「十牛図」の示しているものと基本的に同じであり、孤独な哲学(修行)の往相は社会的実践の還相によって完成すると言えよう。すなわち人間が本当に生きることを成就できる場(自己完成の場)は孤独な山奥ではなく、あくまでも人々が生活する里であり、そこにこそ「新しき村」は実現するのだ。個人の理想は不可避的に共同体を必要とする。共同体においてこそ個人の理想は成就するのだ。私はこの点を、個人の理想と全体の理想の関係において更に考えてみたいと思う。  

個人の理想と全体の理想――前者の集合が後者になることはないし、後者が前者に口出しすることもできない。両者は質的に異なったものであり、全く次元が違っている。そこで取り敢えず「個人の理想は魂の糧に関するものであり、全体の理想は肉体の糧に関するものである」と考えてみる。言うまでもなく、人間にはその両方の糧が必要だが、それは人間が個人的な存在であると同時に全体的(社会的、と言った方がいいかもしれない)存在であることを意味している。すなわち、たとい自らの個人的な理想だけを追求して生きていきたいと願っても、他者との関係を否定することはできないということだ。むしろ個人の理想は、それを可能にするために否応なく全体の理想を必要とする。具体的に言えば、肉体の糧を得るための労働を最小限に、魂の糧を得るための仕事を最大限にすることを可能にする全体(社会)――これこそ理想的なものと言えるだろう。すなわち理想の共同体とは、個人の理想が最大限に生かされる全体に他ならない。しかし、それは個人が勝手なことをしてもいい社会とは根本的に異なる。そのような個々バラバラの状態を招いたのが、「古き村」のアンチ・テーゼとして実現した「近代都市」であると言えよう。

確かに「近代都市」は、全体のために個があるという「古き村」の封建主義的構造を否定し、個のためにこそ全体があるという新しい構造を実現した。しかし、その結果、「近代都市」における人間は個々バラバラのアトムとしての個人と化してしまった。私はこのようなアトムとしての個人では、人間として本当に生きることなど到底できないと思う。個人の「本当の生」は原理的に個人だけでは実現しない。「今、この瞬間に生きている私は本当の私である」と言うことができる時、主語の私が確認する述語の私=本当の私は「私」を超越している。それは、ヘーゲル的に言えば、「我である我々・我々である我」の実現に他ならない。こうして個人の「私」が「我である我々・我々である我」という全一的意識に辿り着く時、個人は人間として本当に生きていることを実感できるに違いない。具体的に言えば、それは「全ての人が自分の兄弟姉妹である」という実感であり、ここに「新しき村」の基礎があることは言うまでもない。そして、そうした全一的意識が求める理想の共同体は個の問題からの逃避(もしくは個が逃避する場)では決してなく、あくまでも個の問題の成就もしくは個が自らを真に生かせる場)でなければならない。従って、全体のために個が奉仕せねばならぬ「古き村」が問題外であるのは当然であるが、個のために全体が奉仕することだけを望む「近代都市」も理想的とは言えない。人間が本当に生きることにおいて、個人は決してバラバラな存在ではあり得ないからだ。そこには統一は必要ないが、統合は不可欠だと思われる。

統一体と統合体――この差異にこそ理想の共同体をめぐる問題の核心がある。「古き村が統一体であるのに対し、新しき村は統合体であるべきだ」と言う時、その相違は偏に個人を真に活かすことができるかどうかという点にあるだろう。「古き村」は全体の意志によって統一され、個人はそれに従うことを求められる。言わば「全体のために個がある」というのが「古き村」の本質に他ならない。それに対して「新しき村」では個が中心となる。ただし、それは「近代都市」における個々バラバラのアトムとしての個ではなく、それぞれの個が全体を反映しているモナドとしての個だ。すなわち、村の一人一人の「私」が「新しき村」でなくてはならない。これは「古き村」の常識からすれば、もはや共同体とは言えぬものかもしれない。然り、「新しき村」はその究極の理想において共同体を超えていくものと思われる。「古き村」(全体のために個がある)を超えたのは「近代都市」(個のために全体がある)だが、「新しき村」はそれさえも超える後―近代(ポスト・モダン)のX共同体(X印つきの共同体は、従来の共同体概念の止揚を意味する)であるべきだ。

古き村―近代都市―新しき村。人間は原理的に何らかの共同体を求めざるを得ぬ存在だ。しかし現代人はもはや統一体としての共同体(古き村)に生きることはできず、さりとてその否定による個々バラバラの状態(近代都市)にも堪えられない。この窮境を打開するものこそ統合体としてのX共同体であり、「新しき村」はそれを実現しなければならない。しかし「古き村」の共同体と「新しき村」のX共同体は具体的にどう異なるのか。それについて述べるに当り、私は今後、「新しき村」のX共同体を「共働態」と記し、次のように「古き村」の共同体と区別したいと思う。

古き村―唯一の理想によって統一される共同体(「全体のために個がある」統一体)
新しき村―様々な個人の理想が統合される共働態(「個即全・全即個」の統合体)


   (2)祝祭共働態としての「新しき村」

「新しき村」の精神の第一は、「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に生長させることを理想とする」ことにある。私はこの理想を、「人間の天命を全うする事」は肉体の糧によって可能となり、「各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事」は魂の糧によって可能になるというように理解している。従って、「新しき村」は肉体の糧と魂の糧を同時に無理なく満たすことのできる共働体でなければならない。しかし先にも少し問題にしたが、常識的に考えれば、共働できるのは肉体の糧に関してだけであり、各個人の魂の糧については共働などできないだろう。確かに「近代都市」の構造においてはそう言う他はない。しかし「新しき村」の共働態では全く事情が異なる。この点について改めて考えてみたい。

私は先に「個人の理想は魂の糧に関するものであり、全体の理想は肉体の糧に関するものである」とした。言うまでもなく、この区別では肉体の糧を求めることにおいてしか人間の共働は成立せず、全体の理想は「全ての人が食うに困らぬ社会の実現」に限定されることになる。確かに「この世の中に食うために働く人が一人でもいれば、その世の中は未だ完全ではない」と言われる武者小路氏の言葉に明らかなように、それが「新しき村」の目指す理想の一つであることは間違いない。しかし乍ら、肉体の糧については共働し(六時間の義務労働)、魂の糧については孤独に、などという生活の在り方が人間の究極の理想であるとは到底思えないし、また思いたくもない。とは言え、それぞれの人間の魂の糧は純粋に主体的・個人的なものであり、そこには本来共働はあり得ない。それ故、魂の糧の追求は原理的に孤独なものだ、ということになる。

しかし、それにも拘らず、私は敢えて魂の糧についても共働を求めたいと思う。それは単なる芸術の共同制作の如き最大公約数的なものではなく、それぞれの魂の糧が舞い踊る最大公倍数的なものを目指す。勿論、そこにはもはや先に述べたような個人の理想と全体の理想の区別はない。すなわち、究極的な全体の理想は、「全ての人が食うに困らぬ社会の実現」という肉体の糧だけに限定された理想を超え、「全ての人の魂の糧が最大公倍数的に統合される祝祭空間の実現」という段階にまで達しなければならないのだ。私はそうした言わば魂の祝祭共働体こそ、個即全・全即個の成就を目指す「新しき村」の究極態だと思っている。それは存在の祭り、と言ってもいい。自己を真に活かす場である「新しき村」は毎日がお祭りであるような生活を実現すべきだ。自他共生という理想も祝祭共働態においてこそ実現できるものと信じている。宮澤賢治曰く、「おお朋だちよ、いっしょに正しい力を併せ、われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか」(「農民芸術概論綱要」)

祝祭共働態としての「新しき村」――私はここにユートピアの究極態を見る。勿論、現にある新しき村がこの最終段階に辿り着くまでには、未だいくつもの段階を経なければならない。その第一はやはり肉体の糧をめぐる水平的問題、すなわち「全ての人が食うに困らぬ社会を如何に実現するか」という経済問題であろう。「新しき村」といえども肉体の糧を得るための経済なくしては成り立たない。さもなければ、布施で肉体の糧を得て魂の糧を追求している出家者集団と大差ないものに堕してしまうだろう。「新しき村」に経済は不可欠だ。ただし、それは古い経済(特に資本主義経済)であってはならない。「新しき村」には新しい経済が必要なのだ。それは近代農業を超える農業の在り方を様々な形で摸索している多くの先進的な農民たちが求めているものでもある。残念乍ら今の私にはそれについて具体的に述べられるだけの力はないが、新しい農業の在り方、そしてそれを可能にする新しき経済を求める運動が徐々に世界的なうねりとなりつつあることは間違いない。日本におけるユートピア(もしくはコミューン)運動の草分け的存在である「新しき村」がこの流れを無視することはできないだろう。むしろ先頭に立って新しき経済を追求し、それによって祝祭共働態を実現しなければならない。そして全世界に向かって叫ぶのだ、「全ての農業労働を、舞踏の範囲まで高めよ」(宮澤賢治)と。   


 おわりに

ヒトが人間として生きる。それは垂直の次元における魂の糧と水平の次元における肉体の糧を満たすことを意味する。私はこうした人間観に基いて、魂の糧を求める活動を「仕事」、肉体の糧を求める活動を「労働」としたいと思う。もし人間の本来的な生を「仕事」に見るならば、「労働」を最小限に、いや将来的には無に帰することこそ人生の理想だと言えるだろう。そして、その理想を実現するものこそ「新しき村」でなければならない。昔から「働かざる者食うべからず」というのが常識であるが、「働く」を「労働」と見なすならば、この常識はもはや「新しき村」では通用しない(勿論、これはあくまでも理想を実現した究極態においてのことだ)。「新しき村」では「働かなくても食うことができる」からだ。しかし、これは決して「新しき村」を怠け者の村にすることではない。尤も怠けることが自分の魂の糧だという人は怠けてもいいだろう。怠けることが彼の「仕事」になるからだ。それで自分が人間として本当に生きているという実感が得られるならば、他人がとやかく言う筋合いはない。しかし現実にそういうことはあり得ないと思う。「怠ける」という状態は「労働」の拒否ではあり得ても、決して「仕事」の否定にはなり得ない。「仕事」の否定は人間として生きることの否定に他ならないからだ。それに「労働」を無に帰することは水平の次元を否定するものではない。たとい垂直の次元に人間本来の生があるにせよ、それは主体的なもの(神的なものと私の絶対的関係)であって、それ自体が共同体を成すことはあり得ない。「新しき村」はあくまでも水平の次元において形を成す。すなわち、それぞれの主体がその垂直の次元において収穫した魂の糧による饗宴こそ「新しき村」の究極態なのだ。私はそうした祝祭共働態の実現こそ我々の「仕事」だと思っている。

自己紹介に代えて

私は数年前まで岐阜県の小さな短大で宗教哲学を教えておりましたが、自らの「思耕」の成果を実践するために、意を決して新しき村にやって来ました。ずっとキリスト教を中心にした宗教思想を研究してきたわけですが(とはいえ私はキリスト教徒ではありません)、1989年にPh.Dを取得してアメリカから帰国する頃から「これからは研究よりも実践だ」と思い始めました。勿論、宗教について全てを研究し尽くしたわけではありませんが、宗教もしくは哲学の本質は結局「人間が本当に生きるとはどういうことか」という問いの解明であり、それは私自身が本当に生きてみせることでのみ成就されると思ったのです。マルクスも言っております――「哲学者はこれまで世界を様々に解釈してきた。しかし、重要なことは世界を変革することだ」と。少なくとも私は様々な宗教や哲学の思想をただ講義するだけの人間にはなりたくありません。そんなわけで、帰国以来、実に滑稽な試行錯誤を繰り返してきましたが、不登校の高校生を対象にした学校で教えたのを切掛に「人間の真の自立」ということを中心に考え始め、それはやがて農の実践、更には理想的なコミューンの実現というヴィジョンにまで発展しました。その過程で、オーエン、フーリエといった所謂ユートピア思想、ソローの「森の生活」、日本では安藤昌益、宮澤賢治、そして武者小路実篤の新しき村などに関心を持った次第です。


新しき村については、その名前だけは昔から知っておりましたが、それが現在も続いていることを比較的最近知り、村のHPを通じて2001年の5月に村を初めて訪れました。それ以来、折に触れて村を訪れたのですが、その回数を重ねる度に、新しき村を実現することの困難さを思い知らされました。「村は絶望的に停滞している」というのが私の偽らざる印象でした。実際、新しき村に関心を持って入村しても、やがて幻滅して離村してしまう者の後が絶えません。おそらく皆さんが来村されても、その理想と現実の余りのギャップに幻滅されることでしょう。かく言う私も幻滅を余儀なくされた者の一人でした。その時の村には武者小路実篤の精神が息づいているのを実感できる所が殆どなく、そもそも村の理想について熱く議論できる雰囲気がなかったのです。むしろ、それを求めると嫌がられる傾向さえありました。何故こんなことになってしまったのか、それを詳しく分析している暇はありませんが、ただ村には日向の時代から「農業現実派」と「芸術理想派」の対立という問題があったようです。すなわち、新しき村は決して単なる農業生産共同体ではない筈ですが、さりとて農業による経済的自立なくして「自己を真に活かす生き方」もあり得ない、というディレンマです。それ故、「人はパンのみにて生くるにあらず」と思って新しき村での生活を始めようとした人がパンの生産だけをしているように見える村の現状に幻滅するのは当然でしょう。重要なことは「パン以上の理想」(魂の糧)と「パンの現実」(肉体の糧)のバランスであり、新しき村にはその両者が必要不可欠であるにもかかわらず、今の村は「パンの現実」に囚われ過ぎているように思われたのです。


とまれ、私はこうした村の現状に幻滅し、入村を諦めかけました。しかし今は、その幻滅にもかかわらず、敢えて入村し、そこに踏みとどまるべきだという思いを次第に強くして、現在に至っております。と言うのも、今の新しき村を断念して、私自身の新しき村を一から創ろうとしたところで、結局同じようなディレンマに直面するのは明白だからです。とすれば、たとえ現状がどんなに停滞していても、今の村に踏みとどまって、少しずつその理想実現に努めていくべきでしょう。幸いなことに、今の村でもその改革の可能性が皆無だというわけではありません。村内の若い人や村外会員の中にも、村の改革を望む声は次第に大きくなりつつあります。大袈裟に言えば、新しき村の実現は人類の理想だと私は思っています。そして、その理想を全世界に広めていくことが村の使命だと思います。残念ながら、今の新しき村は未だその理想を実現しておりませんが、多くの「同志」が共働すれば必ず実現できるものと信じております。その意味において、多くの方々との出会いを心から求める次第です。
                                                                                                                                    

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