新・ユートピア数歩手前からの便り -214ページ目

祝祭とファシズム(2)

ユングは意識の中心である「自我」と無意識をも含む深層の「自己」という区別をしていますが、その文脈で言えば、祝祭の熱狂における忘我状態は「自我を超越する自己の運動」に他なりません。それに対してファシズムによる熱狂的忘我にはそのような深みはなく、単なる自我の喪失に止まっています。とは言え、祝祭とファシズムの差異はかなり微妙なものであり、祝祭は常にファシズムへと転化・堕落する危険性に晒されています。アポロとディオニュソスの結束が破れぬことを祈る他ありません。

何れにせよ、祝祭の主体的熱狂というものは一つの逆説です。それは禅で言う「無我の境地」に通じるものがあります。無我もまた逆説的真理なのです。

一般的に無我と言えば、自己を空にするマイナスの運動だと解されますが、それは一面的な理解に過ぎません。例えばコップに入っている水を全て捨てて空にする――この状態は無我の往相にすぎず、それだけでは無我を真に成就したとは言えません。何故なら、空の状態は常に何かが入ってくる可能性を孕んでいるからです。では、もう何も入ってくる可能性のない状態とは如何なるものでしょうか。言うまでもなく、それは満杯の状態です。そこに無我の還相があります。「無我の境地」とは空杯と満杯の循環(reciprocal)運動に他なりません。

祝祭とファシズム

かつてパウル・ティリッヒが来日した際、「宗教のリアリティ」という問題をめぐって或る禅の大家と対話をしたことがあります。その中でティリッヒは大略、次のようなことを語りました。

「仏教とキリスト教は、人間が絶対的なもの(無制約的なもの)と関係するところに信仰のリアリティを見出す点において共通する。しかし根本的な違いもある。仏教は絶対的なものとの一致(identification)を目指しているのに対し、キリスト教は絶対的なものへの参与(participation)を求めている」

ティリッヒの仏教理解が必ずしも正鵠を射ているわけではありませんが、私は彼の言う「一致」と「参与」の区別は極めて重要だと思います。と言うのも、そこには祝祭とファシズムの根本的な差異もあるからです。

祝祭もファシズムも一種の熱狂であることに変わりはありません。しかし、昨日述べたように、ファシズムが主体喪失の熱狂であるのに対し、祝祭はあくまでも主体的な熱狂である点に根源的な差異があるのです。では、主体的な熱狂とは如何なるものでしょうか。そもそも熱狂とは所謂「我を忘れる」状態であって、主体的な熱狂というのは矛盾だと思われるでしょう。しかし私は決してそうは思いません。(つづく)

どうも本来の便りの趣旨から横道に逸れ、いつの間にか宗教哲学講義のような調子になりがちですが、この点は私の「ユートピア実現」にとって極めて重要なので、もう少し我慢してお読み下さい。

祝祭の輝き

祝祭における生の輝き、それは美的段階で失われた生の輝きを前向きに反復したものに他なりません。では、前向きの反復とは如何なるものでしょうか。本日はその点について述べたいと思います。

通常反復とは「同じものの繰り返し」を意味しますが、前向きの反復は必ずしもそうではありません。すなわち「美的段階の直接的な生の輝き」と「祝祭における生の輝き」の間には質的な差異があります。前者がそれぞれの感性による個人的な体験であるのに対し、後者は個々の生の輝きが言わば掛け算的に統合される全体的な体験だと言えるでしょう。

尤も全体的な体験などと言えば、ファシズムによる熱狂だと誤解されるかもしれません。確かにオリンピックやサッカーのワールドカップなどにおける熱狂は戦争における熱狂に通じるものがあるでしょう。その点は認めざるを得ません。

しかし祝祭の全体的体験はファシズムの熱狂とは根本的に異なります。ニーチェの言葉を借りて比喩的に言えば、ファシズムの熱狂はディオニュソスの酩酊にすぎないのに対し、祝祭の全体的体験はアポロとディオニュソスの結束に他なりません。すなわち祝祭には主体性がありますが、ファシズムにはないということです。従って祝祭における人間は自立者ですが、ファシズムにおける人間は没主体的な大衆だと言えるでしょう。

人生行路の三段階

デンマークの憂愁の哲学者ゼーレン・キルケゴールに実存弁証法というものがあります。一口で言えば、美的段階-倫理的段階-宗教的段階という「人生行路の三段階」です。それは反復の逆説を含み、なかなか複雑な構造になっていますが、私はその三段階を大略、直接的(感性的)段階-反省的(理性的)段階-祝祭的段階として次のように理解しています。

幼時における明確な自己意識に目覚める以前の状態(夢見る無垢 dreaming innocence)が美的段階であり、人はそこで感性的な生の輝きを体験します。しかし残念乍ら、そうした根源的な生の輝きは自己意識に目覚めると同時に失われる運命にあります。ウィリアム・ブレイクはこの運命を「無垢の歌 Songs of Innocence」と「経験の歌 Songs of Experience」という対比で詩的に表現していますが、こうした一種の楽園喪失は人間にとって不可避だと思われます。しかし、その失われた生の輝きを何とかしてもう一度取り戻そうとすることも不可避です。そして美的段階で失われた生の輝きを反復しようとすることを以て人は倫理的段階に突入します。

しかし、その倫理的な試みは絶望に至る他はありません。と言うのも、美的段階は確かに一つの楽園ではありますが、一度失われれば、後向きにそこに戻ろうとすることは金輪際不可能だからです。そもそも美的楽園は反省以前の状態なので、それは常に既に(必然的に)失われたものとしてしか意識されないでしょう。すなわち楽園にいる時はそこが楽園であるという意識はなく、それを失って初めて楽園だったと意識されるということです。その意味において、楽園は常に失楽園でしかありません。従って美的段階の生の輝きをそのまま直接的に反復することは絶対に不可能になります。

では、どうすべきか。生の輝きをもう一度味わいたいという願いは永久に断念せざるを得ないのでしょうか。そんなことはない!と私は思います。可能性は前向きの反復(運動)にあります。失われた美的段階の生の輝きに後向きに戻ろうとするのではなく、前向きに生の輝きを創造するのです。そこに祝祭の輝きがあるというのが私のヴィジョンに他なりません。

生の輝き

人は何のために生きるか。それは十人十色でしょうが、私の場合は「生の輝き」です。自らに与えられた生を輝かせるために私は生きる――しかし、これは幾分トートロジー(Tautologie)的な答えかもしれません。と言うのも、結局は何によって生は輝くかということが問題になるからです。それを理論的に問い詰めることは難しい。また、あまり意味のないことでしょう。生の輝きはあくまでも個人の主体的な問題に他ならず、そこではそれぞれの個人的な体験が大きく影響するに違いありません。おそらく誰しもその幼時の「美的段階」に生の輝きを体験したことがあると思います。私にもあります。

それは小学四年生の時のことです。私は左鎖骨を折って暫く学校を休んでいたのですが、或る土曜日の昼下がり、病院から戻ってくると実に多くの友達が見舞いに来てくれていました。その頃の私は貧乏長屋に住んでいたのですが、その狭くて汚い家に友達が犇いている光景が忘れられません。そして「やあ、帰って来た、帰って来た」という誰かの叫ぶ声が今でも耳の奥底に響いています。ガキ大将で少し威張っていた私はみすぼらしい家を友達に見られたことを気にしながらも、本当に嬉しかった。あの時、私の生は確かに輝いていたと思います。それは人と人との信頼、それに基く連帯感(少し大袈裟ですが)だったと今の私は理解しています。あの輝きをもう一度味わいたいのです。それは言わば人間の連帯感による生の輝きの反復(Wiederholung)に他なりません。

魔力としての弁証法

私は「遅れてきた青年」より更に遅れてきた者ですが、弁証法なしには生きていけません。と言うより、生きていくその運動そのものが弁証法だと思っています。従って弁証法のない所で、ただ生きて在るだけでは「本当に生きる」ことにはならないのです。そもそも「本当に生きる」ことを求める原動力それ自体が弁証法だと言えるでしょう。では、「本当に生きる」とは如何なることでしょうか。

私自身はそれを「生の充実」だと理解しています。「生の完全燃焼」だと言ってもいいでしょう。要するに、私もまた「あしたのジョー」のように燃え尽きたいのです。しかし、それを実現するためには絶対的なものが必要になるでしょう。人は絶対的なものに主体的に関係することによってのみ生を完全燃焼させる可能性を得る――これが私の根本テーゼです。

かくして私はずっと絶対的なものを求めてきました。最初は「絶対的なものに殉じる生き方=死に方」のみが生を完全燃焼させると考えました。例えば、大東亜戦争における神風特攻隊の若者たちのように。しかし、やがてそれはもはや不可能だと思うに至りました。何故なら、「天皇陛下万歳!」と叫んで死のうとしても、もはや天皇は現人神ではなく、殉じるに値する絶対的なものなど何処にも存在しないからです。「あしたのジョー」にとってはボクシングが絶対的なものであったかもしれませんが、私には全てが相対的なものにすぎません。しかし、それにも拘らず、私は絶対的なものの探究を断念することができないのです。

言わば神が死んだ世界において、敢えて絶対的なものを求め続けるとは如何なることでしょうか。単なる悪足掻きとしか見做されないかもしれませんが、それが今の私の究極的な問題となっています。果してそれは不可能な問題にすぎないのでしょうか。勿論、私は不可能だとは思っておりません。もし不可能なら、私の生もまた不可能だということになるでしょう。私は弁証法の魔力に最後の可能性を見ています。

「腐敗した世界」への嘆きを超えて

自らの人生に心から満足している人はそれほど多くはないでしょう。「こんな腐敗した世界に生れてきたんじゃない!」と歌っている人もいます。しかし問題は「どうしたら人生に満足できるか」ということです。勿論、人それぞれ満足の質は異なります。しかし「腐敗した世界」に対する不満・怒りにおいては共通しているのではないでしょうか。「腐敗した世界」に住めぬのなら、如何なる世界を構築すべきか――今やこの問いにおいて人々は連帯・結集しなければならぬ、と私は思っています。

しかし乍ら、多くの人々は「腐敗した世界」に対する嘆きで足を止めているのが現状のような気がします。私はその閉塞状況を何とかして打破したいのです。嘆き節はもうウンザリです。殊に若い人達がそんな次元でお互いの傷を舐めあっているのは醜悪でさえあります。

私は「腐敗した世界」への嘆きを超えて一歩踏み出すことを熾烈に望みます。そして多くの人々と嘆き節ではなく歓喜の歌を合唱したいのです。そうした合唱=祝祭にこそ人生における究極的な満足があるのではないでしょうか。

労働から仕事へ、嘆き節から歓喜の歌へ、そして勤勉から祝祭へ――そこには根源的な価値の転倒があります。私はそこから人間として本当に生きることの意味がラディカルに発展すると考えています。

祝祭と傍観者

「踊る阿呆に観る阿呆、同じ阿呆なら踊らねば損」というのは実に深い哲学だと思います。祝祭に観客は必要ありません。と言うより、観客になってはならないのです。ただ観ているだけでは祝祭にはなりません。参加なくして祝祭なし。これが原則だと思います。

しかし乍ら、観客は単なる傍観者ではないと言えるかもしれません。例えば素晴らしい選手に心から声援を送ることで一体化すれば、その観客はその選手とともにゲームに参加していると言えるでしょう。そう考えれば、祝祭には様々な参加の「かたち」があることを認めざるを得ません。選手としての参加だけではなく、観客としての参加もあり得るということです。

勿論、「かたち」が違えば、その意味もまた違ってくるでしょう。あくまでも祝祭に観客は必要ないというのが原則ですが、観客としての祝祭もあり得ます。ただし選手の参加がなければ観客の祝祭は始まらないという意味で、それはやはり二次的なものだと言うべきでしょう。

何れにせよ、私自身は観客にはなりたくありません。あくまでも「踊る阿呆」として祝祭空間を創造し、その輪の中に入りたいと思っています。そうした祝祭空間にこそ「ユートピア」も現出するのではないでしょうか。

破壊と創造

「破壊は創造の情熱だ」というバクーニンの言葉が次第に私の中で大きくなっていきます。先ずぶち壊せ! 論理的に言えば、破壊の後に如何なる創造を試みるかというヴィジョンが必要でしょう。確かに創造のヴィジョンなしに破壊することは無謀だと言えます。しかし本当にそうでしょうか。

現実には、創造のヴィジョンについて考え始めると、いつまで経っても破壊に着手できなくなります。それ故、先ずぶち壊せ! これが正解なのかもしれぬ、と思い始めています。ヴィジョンは必要ですが、完璧なヴィジョンなどというものはあり得ません。それは罠です。

完璧なヴィジョンを求めれば、研究もしくは思耕の域を超えることができなくなります。尤も思耕=研究も一つの実践であると言えますが、私の求めている真の実践は違います。やはり「初めに行動(Tat)ありき」だと思いますが、如何でしょうか。

真に新しきもの(2)

真に新しきものはラディカルなものであり、その本質は所謂「型破り」です。ただし、これはよく言われることですが、型がしっかり身についていない者に「型破り」はできません。型を伝統によって築かれたものだと解するならば、単なる伝統否定からは真に新しきものは生れないでしょう。そもそも伝統という型を破ることは並大抵のことではありません。伝統は「古典」を形成します。そして「古典」は現象的には「古きもの」ですが、昨日述べたように、その本質は「新しきもの」だと言えます。すなわち「古典」が生み出す感動は常に新しいのです。それは永遠の今に他なりません。

「古典=伝統」は水平に流れる時間を超越した垂直の次元に生きています。それはすでに一つの完成態だと言ってもいいでしょう。しかし、そこに安住することはできません。たとい「古典=伝統」による感動がどんなに安定(安心確実)なものであっても、今に生きる我々にはその型を破って「新しきもの」を創造していく使命(と言うと大袈裟に聞こえるかもしれませんが)があると私は思っています。

尤もこの点については大いに議論の余地があるでしょう。生き方の問題として伝統的なものに安住することは決して悪いことではありません。しかし少なくとも「新しき村の精神」に共鳴する者の生き方だとは言えないと思います。新しき村における生き方は常に「新しきもの」を生み出していくものです。不断の型破り――ここにこそ「新しき生活」の神髄があると私は信じています。