「腐敗した世界」への嘆きを超えて
自らの人生に心から満足している人はそれほど多くはないでしょう。「こんな腐敗した世界に生れてきたんじゃない!」と歌っている人もいます。しかし問題は「どうしたら人生に満足できるか」ということです。勿論、人それぞれ満足の質は異なります。しかし「腐敗した世界」に対する不満・怒りにおいては共通しているのではないでしょうか。「腐敗した世界」に住めぬのなら、如何なる世界を構築すべきか――今やこの問いにおいて人々は連帯・結集しなければならぬ、と私は思っています。
しかし乍ら、多くの人々は「腐敗した世界」に対する嘆きで足を止めているのが現状のような気がします。私はその閉塞状況を何とかして打破したいのです。嘆き節はもうウンザリです。殊に若い人達がそんな次元でお互いの傷を舐めあっているのは醜悪でさえあります。
私は「腐敗した世界」への嘆きを超えて一歩踏み出すことを熾烈に望みます。そして多くの人々と嘆き節ではなく歓喜の歌を合唱したいのです。そうした合唱=祝祭にこそ人生における究極的な満足があるのではないでしょうか。
労働から仕事へ、嘆き節から歓喜の歌へ、そして勤勉から祝祭へ――そこには根源的な価値の転倒があります。私はそこから人間として本当に生きることの意味がラディカルに発展すると考えています。
しかし乍ら、多くの人々は「腐敗した世界」に対する嘆きで足を止めているのが現状のような気がします。私はその閉塞状況を何とかして打破したいのです。嘆き節はもうウンザリです。殊に若い人達がそんな次元でお互いの傷を舐めあっているのは醜悪でさえあります。
私は「腐敗した世界」への嘆きを超えて一歩踏み出すことを熾烈に望みます。そして多くの人々と嘆き節ではなく歓喜の歌を合唱したいのです。そうした合唱=祝祭にこそ人生における究極的な満足があるのではないでしょうか。
労働から仕事へ、嘆き節から歓喜の歌へ、そして勤勉から祝祭へ――そこには根源的な価値の転倒があります。私はそこから人間として本当に生きることの意味がラディカルに発展すると考えています。