魔力としての弁証法
私は「遅れてきた青年」より更に遅れてきた者ですが、弁証法なしには生きていけません。と言うより、生きていくその運動そのものが弁証法だと思っています。従って弁証法のない所で、ただ生きて在るだけでは「本当に生きる」ことにはならないのです。そもそも「本当に生きる」ことを求める原動力それ自体が弁証法だと言えるでしょう。では、「本当に生きる」とは如何なることでしょうか。
私自身はそれを「生の充実」だと理解しています。「生の完全燃焼」だと言ってもいいでしょう。要するに、私もまた「あしたのジョー」のように燃え尽きたいのです。しかし、それを実現するためには絶対的なものが必要になるでしょう。人は絶対的なものに主体的に関係することによってのみ生を完全燃焼させる可能性を得る――これが私の根本テーゼです。
かくして私はずっと絶対的なものを求めてきました。最初は「絶対的なものに殉じる生き方=死に方」のみが生を完全燃焼させると考えました。例えば、大東亜戦争における神風特攻隊の若者たちのように。しかし、やがてそれはもはや不可能だと思うに至りました。何故なら、「天皇陛下万歳!」と叫んで死のうとしても、もはや天皇は現人神ではなく、殉じるに値する絶対的なものなど何処にも存在しないからです。「あしたのジョー」にとってはボクシングが絶対的なものであったかもしれませんが、私には全てが相対的なものにすぎません。しかし、それにも拘らず、私は絶対的なものの探究を断念することができないのです。
言わば神が死んだ世界において、敢えて絶対的なものを求め続けるとは如何なることでしょうか。単なる悪足掻きとしか見做されないかもしれませんが、それが今の私の究極的な問題となっています。果してそれは不可能な問題にすぎないのでしょうか。勿論、私は不可能だとは思っておりません。もし不可能なら、私の生もまた不可能だということになるでしょう。私は弁証法の魔力に最後の可能性を見ています。
私自身はそれを「生の充実」だと理解しています。「生の完全燃焼」だと言ってもいいでしょう。要するに、私もまた「あしたのジョー」のように燃え尽きたいのです。しかし、それを実現するためには絶対的なものが必要になるでしょう。人は絶対的なものに主体的に関係することによってのみ生を完全燃焼させる可能性を得る――これが私の根本テーゼです。
かくして私はずっと絶対的なものを求めてきました。最初は「絶対的なものに殉じる生き方=死に方」のみが生を完全燃焼させると考えました。例えば、大東亜戦争における神風特攻隊の若者たちのように。しかし、やがてそれはもはや不可能だと思うに至りました。何故なら、「天皇陛下万歳!」と叫んで死のうとしても、もはや天皇は現人神ではなく、殉じるに値する絶対的なものなど何処にも存在しないからです。「あしたのジョー」にとってはボクシングが絶対的なものであったかもしれませんが、私には全てが相対的なものにすぎません。しかし、それにも拘らず、私は絶対的なものの探究を断念することができないのです。
言わば神が死んだ世界において、敢えて絶対的なものを求め続けるとは如何なることでしょうか。単なる悪足掻きとしか見做されないかもしれませんが、それが今の私の究極的な問題となっています。果してそれは不可能な問題にすぎないのでしょうか。勿論、私は不可能だとは思っておりません。もし不可能なら、私の生もまた不可能だということになるでしょう。私は弁証法の魔力に最後の可能性を見ています。