祝祭とファシズム | 新・ユートピア数歩手前からの便り

祝祭とファシズム

かつてパウル・ティリッヒが来日した際、「宗教のリアリティ」という問題をめぐって或る禅の大家と対話をしたことがあります。その中でティリッヒは大略、次のようなことを語りました。

「仏教とキリスト教は、人間が絶対的なもの(無制約的なもの)と関係するところに信仰のリアリティを見出す点において共通する。しかし根本的な違いもある。仏教は絶対的なものとの一致(identification)を目指しているのに対し、キリスト教は絶対的なものへの参与(participation)を求めている」

ティリッヒの仏教理解が必ずしも正鵠を射ているわけではありませんが、私は彼の言う「一致」と「参与」の区別は極めて重要だと思います。と言うのも、そこには祝祭とファシズムの根本的な差異もあるからです。

祝祭もファシズムも一種の熱狂であることに変わりはありません。しかし、昨日述べたように、ファシズムが主体喪失の熱狂であるのに対し、祝祭はあくまでも主体的な熱狂である点に根源的な差異があるのです。では、主体的な熱狂とは如何なるものでしょうか。そもそも熱狂とは所謂「我を忘れる」状態であって、主体的な熱狂というのは矛盾だと思われるでしょう。しかし私は決してそうは思いません。(つづく)

どうも本来の便りの趣旨から横道に逸れ、いつの間にか宗教哲学講義のような調子になりがちですが、この点は私の「ユートピア実現」にとって極めて重要なので、もう少し我慢してお読み下さい。