真に新しきもの(2)
真に新しきものはラディカルなものであり、その本質は所謂「型破り」です。ただし、これはよく言われることですが、型がしっかり身についていない者に「型破り」はできません。型を伝統によって築かれたものだと解するならば、単なる伝統否定からは真に新しきものは生れないでしょう。そもそも伝統という型を破ることは並大抵のことではありません。伝統は「古典」を形成します。そして「古典」は現象的には「古きもの」ですが、昨日述べたように、その本質は「新しきもの」だと言えます。すなわち「古典」が生み出す感動は常に新しいのです。それは永遠の今に他なりません。
「古典=伝統」は水平に流れる時間を超越した垂直の次元に生きています。それはすでに一つの完成態だと言ってもいいでしょう。しかし、そこに安住することはできません。たとい「古典=伝統」による感動がどんなに安定(安心確実)なものであっても、今に生きる我々にはその型を破って「新しきもの」を創造していく使命(と言うと大袈裟に聞こえるかもしれませんが)があると私は思っています。
尤もこの点については大いに議論の余地があるでしょう。生き方の問題として伝統的なものに安住することは決して悪いことではありません。しかし少なくとも「新しき村の精神」に共鳴する者の生き方だとは言えないと思います。新しき村における生き方は常に「新しきもの」を生み出していくものです。不断の型破り――ここにこそ「新しき生活」の神髄があると私は信じています。
「古典=伝統」は水平に流れる時間を超越した垂直の次元に生きています。それはすでに一つの完成態だと言ってもいいでしょう。しかし、そこに安住することはできません。たとい「古典=伝統」による感動がどんなに安定(安心確実)なものであっても、今に生きる我々にはその型を破って「新しきもの」を創造していく使命(と言うと大袈裟に聞こえるかもしれませんが)があると私は思っています。
尤もこの点については大いに議論の余地があるでしょう。生き方の問題として伝統的なものに安住することは決して悪いことではありません。しかし少なくとも「新しき村の精神」に共鳴する者の生き方だとは言えないと思います。新しき村における生き方は常に「新しきもの」を生み出していくものです。不断の型破り――ここにこそ「新しき生活」の神髄があると私は信じています。