祝祭とファシズム(2) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

祝祭とファシズム(2)

ユングは意識の中心である「自我」と無意識をも含む深層の「自己」という区別をしていますが、その文脈で言えば、祝祭の熱狂における忘我状態は「自我を超越する自己の運動」に他なりません。それに対してファシズムによる熱狂的忘我にはそのような深みはなく、単なる自我の喪失に止まっています。とは言え、祝祭とファシズムの差異はかなり微妙なものであり、祝祭は常にファシズムへと転化・堕落する危険性に晒されています。アポロとディオニュソスの結束が破れぬことを祈る他ありません。

何れにせよ、祝祭の主体的熱狂というものは一つの逆説です。それは禅で言う「無我の境地」に通じるものがあります。無我もまた逆説的真理なのです。

一般的に無我と言えば、自己を空にするマイナスの運動だと解されますが、それは一面的な理解に過ぎません。例えばコップに入っている水を全て捨てて空にする――この状態は無我の往相にすぎず、それだけでは無我を真に成就したとは言えません。何故なら、空の状態は常に何かが入ってくる可能性を孕んでいるからです。では、もう何も入ってくる可能性のない状態とは如何なるものでしょうか。言うまでもなく、それは満杯の状態です。そこに無我の還相があります。「無我の境地」とは空杯と満杯の循環(reciprocal)運動に他なりません。