ラディカル実篤
新しき村は大正7年(1918)武者小路実篤によって創立されたものですが、実篤は決して教祖的な存在ではありませんでした。勿論、実篤に対する尊敬・敬愛といったものはありますが、彼を教祖的存在に祭り上げなかったところに新しき村の「新しさ」があると私は思っています。禅の教えに「殺仏殺祖」というものがありますが、正にそれは村の精神でもあるのです。そうした観点から書いたのが、下記の拙論です。御笑覧下さい。
ラディカル実篤
日比野英次
はじめに
実篤は『理想的社会』の「緒」で次のように述べている。
現在の社会に満足出来ないとすれば、どう云ふ社会を我々は望むべきであるか、そしてその我々が望む社会に生活するにはどう云ふ方法をとったらいいか、それを自分はここで考へられるだけ考へて見たい。
しかし傲慢だとの非難を恐れずに言えば、その「考へ」は未だ充分な「思耕」を尽くしていない。殊に「どう云ふ社会を我々は望むべきであるか」という問題について、実篤のヴィジョンは未だ究極的なものではないと思われる。実篤はいみじくも「我々は目指す世界をはっきり知ることが必要と思ふ。それがはっ切りすれば、それに到達する道がわかる」と述べているが、実篤の目指す世界=理想的社会は未だ真に新しいものを表現し得ていないのだ。そこに新しき村について多くの人々が未だに抱いている誤解もしくは諸問題の根があると私は思う。その点について少し考えてみたい。
一、 実篤のヴィジョン
実篤は理想的社会の要件として次の三点を挙げている。
一、すべての人が、人力で得られる限りにおいて長生きするやうに十分注意されてゐること。
一、各個人が、出来るだけ自己の趣味、自己の正しき要求、天職、個性を発揮出来るやうに注意されてゐること。
一、すべての人が出来るだけ多くの喜びを感じて生きられるやうに注意されてゐること。
こうした「注意が十分に実行されてゐる社会は、理想的な社会である」と実篤は言っているが、それは結局、「新しき村の精神」の第一、すなわち「全世界の人間が天命を全うし、各個人の内にすむ自我を完全に生長させる」という理想に集約されるだろう。更にこの理想を私なりに具体化して言えば、「全世界の人間が天命を全うする」という理想は肉体の糧をめぐる水平的問題であり、「各個人の内にすむ自我を完全に生長させる」という理想は魂の糧をめぐる垂直的問題に他ならない。従って新しき村という理想的社会は、水平と垂直という本来次元を異にする問題を同時に解決するものだと言えよう。これは人間の実存構造に対応する実にラディカルな理想であり、おそらくこれ以上の社会的理想を考えることはできないと思われる。
しかし乍ら、多くの人々は未だそのラディカルな理想を真に理解していないのではないか。例えば「理想的社会では、すべての人が生きるために必要なものは、義務労働で解決し、その他は全然、自由を尊重することで解決したい」という実篤の言葉を、単に「義務労働さえ果せば、後は自分の好きなことができる」という程度に理解している人が多いのではないか。もし我々の目指す世界=新しき村がその程度のものなら、そのヴィジョンは何らラディカルなものではない。少なくとも私自身はそのように中途半端なものを「新しき村」と見做したくはないと思う。
では、何が問題なのか。それは肉体の糧を満たす水平的理想と魂の糧を満たす垂直的理想の関係に他ならない。前者をパンの理想、後者をパン以上の理想と言ってもいい。人はパンのみにて生くるにあらず、さりとてパンなしではパン以上の理想を追求することも叶わないという現実において、一般的にはパンの理想の実現、すなわち「すべての人間が食うに困らぬ社会の実現」を以て理想的社会の成就と見做されるだろう。実篤のヴィジョンでは、それは義務労働によって解決されることが目指される。しかし、そうした水平的理想の実現は真に理想的な社会に至る道の半分にすぎない。勿論、この半分の道でさえ極めて困難なものではあるが、ここで問題にしたいことはもう半分の道、つまり垂直的理想を実現する道との関係に他ならない。
残念乍ら、実篤のヴィジョンにおいて、その関係は根源的には問われていない。と言うより、それは問うべきではないとされているようにも見える。常識的に言えば、人々が共同の理想となし得るのは水平的理想に限られ、垂直的理想は各個人の魂の問題とされることだろう。実篤の基本的ヴィジョンもこの常識を超えるものではない。しかし、もしその常識に止まるならば、新しき村の理想は個人の垂直的理想追求を最大限に可能にする水平的理想、言わば個人主義を最大限に生かす共同体の理想にすぎないものと言わざるを得ない。それで何が悪いのか、と少なからぬ人は思うかもしれない。悪いわけではない。ただ、その理想は未だ究極的なものではないだけだ。
もしかしたら、殆どの人は水平的理想の共同体(全ての人が食うに困らぬ社会)の実現を以て満足し、垂直的理想の共働体を蛇足だと思うかもしれない。全ての人が究極的理想の実現を望むわけではないのだ。しかし「理想的社会」についてラディカルに「考へられるだけ考へる」ことを目指すならば、道は垂直的理想の共働体に辿りつく他はないと思われる。私はそのヴィジョンを祝祭共働体に見る。
二、祝祭共働体というヴィジョン
祝祭共働体とは何か。それは古き村の全体主義(統一体)と近代都市の個人主義(バラバラの個)の両者を止揚する個即全・全即個の統合体に他ならない。水平的理想と垂直的理想の関係に即して言えば、それは「個人の自我の完全なる生長」という垂直的理想が水平の次元において具体化することを意味する。更に宗教的な比喩を用いれば、水平的理想に受肉した垂直的理想が祝祭共働体を形成すると言えるだろう。こうした祝祭共働体が一般に理解され難いとすれば、おそらくそれはこの「受肉」のヴィジョンのせいだと思われる。と言うのは、先述したように、一般的には水平的理想と垂直的理想は断絶しているとするのが常識だからだ。
確かに水平的理想が共同のものであり、垂直的理想が個人のものであることは間違いない。従って理想の共同体はあくまでも水平的理想が実現された状態を意味し、そこにおいて個人は自由に(もはや肉体の糧=パンの問題に煩わされることなく)魂の糧を求めることができるだろう。しかし魂の糧は個人のもの(実存的なもの)であるが、それを満たす垂直的理想は個人主義によっては到底実現され得ないと私は思う。その意味において、「理想的社会」の極北に位置すべき「新しき村」は水平的理想が満たされただけの共同体を超えていく必要がある。すなわち「新しき村」は水平的理想の共同体であると同時に、垂直的理想の共働体でなければならないのだ。ここに「新しき村」の問題中の問題がある。
しかし率直に言って、私は未だ問題中の問題としての「祝祭共働体」について説得的に語り得る言葉を持っていない。また紙数の都合上からも、ここではその要点だけを記すに止めたい。
(1) 祝祭共働体は全世界の人間が幸福になるシステムの実現を目指す。それは決して抽象的なものであってはならない。基本はあくまでも各個人が現実に幸福になることであって、それを無視した全体の幸福などというものを考えることはできない。その意味において「滅私奉公」という古き理想は原理的に無に帰したと思い知るべきだ。少なくとも新しき村において、個人は如何なるものの犠牲にもなってはならない。しかし自立は孤立ではない。個人は個人主義によっては真に幸福になることはできないだろう。勿論、全体主義によってもなれない。重要なことは各個人の幸福がそのまま全体の幸福でもあるような現実だ。そのような現実を私は「祝祭」に見る。それは個即全・全即個という統合の現実であり、その現実において祝祭共働体は古き村のゲマインシャフト(Gemeinschaft=共同社会)と近代都市のゲゼルシャフト(Gesellschaft=利益社会)を共に止揚するポスト・モダンの「新しきゲマインシャフト」だと言えるかもしれない。
(2) 祝祭共働体はアウタルキー(Autarkie=自給自足)の精神に基く個人の連帯によって形成される。私はかつて人間生活の理想は完全なるアウタルキーにこそあると思っていた。しかしそれはどう考えてみても原理的に不可能であるし、またたとい可能であったとしても余り面白い生き方とは言えないだろう。やはり人間として生きることの真の喜びは他者との共働にこそあるのではないか。それは他者に依存して生きることとは全く異なる次元のことだ。それぞれの個人が人間生活に必要なものを生産して分かち合う――言わば自立した人間同士のコミュニケーションが共働の本質だと思われる。小田実の言葉を借りれば、それは決して「われら」とはならぬ「われ=われ」の連帯に他ならない。彼がいみじくも言っているように、自立と連帯は同時にかたちづくられるものであって、それ以外のものではない。
(3) 祝祭共働体は「労働の芸術化」(ウィリアム・モリスが言うような意味における)を目的とする。肉体の糧を得るための活動を「労働」、魂の糧を得るための活動を「仕事」とするならば、両者の一致にこそ真の理想的生活がある。その一致の形態としては、「労働の仕事化」(例えば、篤農家)と「仕事の労働化」(例えば、職業芸術家)の二種が考えられるが、それらを総合して「労働の芸術化」と称したいと思う。勿論、「労働」と「仕事」を二元論的に分離し、義務「労働」を果した後にのみ「仕事」の自由が得られるというのが現実であろう。新しき村における現実の生活も、その例外ではない。しかしその現実に止まるならば、村の生活に「新しさ」など全くなく、それは基本的にサラリーマンの生活(九時から五時まで生活のために労働して、それ以後自分の好きなことを楽しむ)と大差ないものと言わざるを得ない。それで悪いわけではないが、真に理想的な生活とは言えないだろう。
結局、新しき村を真に必要とする者は誰か。それは現代社会に絶望している者だろう。論理的にはそうなる。しかし実際には現代社会に対する絶望がそのまま新しき村の必要にはなっていない。何故か。それは新しき村のヴィジョンが現代社会の絶望を真に克服し得るものになっていないからだ。つまり誰もがそこで生活したくなるような社会のあり方――それを新しき村は未だ示すことができないでいる、ということだ。では如何なる社会が我々にとって真に理想的なもの足り得るのか。問題の核心は個人生活の捉え方にあると思われる。理想的社会においては先ず個人の自由が最大限に尊重されなければならない。それは実篤のヴィジョンの核心でもある。しかし、それだけではないと思う。確かに個々の自由な生活が完全に保障されれば、多くの人々はそこに理想的社会の実現を見ることだろう。他人に一切煩わされることのない生活。しかし私はそれ以上の生活を望みたい。また、そう望むところにこそ真の「新しさ」があると思う。それは他者と共働する祝祭の生活だ。尤も他者との関係には微妙な問題がある。しかし人間として生きることの実存的な喜びは、やはり他者との関係から生まれてくるのではないか。少なくとも究極的な「理想的社会」としての新しき村のヴィジョンは、自立した自由人としての個人が他者との共生(もしくは連帯)に生きる喜びを見出す祝祭共働体に辿り着くものと思っている。
おわりに
若き実篤は「理想的社会」の実現を望んだ。単に望んだだけではなく、実際に「新しき村」としてその実現の第一歩を踏み出した。これは誰にでもできることではない。若きマルクスも言うように、世界を様々に解釈する哲学者の仕事もさること乍ら、重要なことはやはり世界の変革なのだ。実篤は間違いなくその一歩を踏み出した。しかしそれが真に「新しき一歩」となるためには、更にラディカルなヴィジョン(祝祭共働体)が必要になるだろう。真の実篤はラディカルな実篤だと私は確信している。
ラディカル実篤
日比野英次
はじめに
実篤は『理想的社会』の「緒」で次のように述べている。
現在の社会に満足出来ないとすれば、どう云ふ社会を我々は望むべきであるか、そしてその我々が望む社会に生活するにはどう云ふ方法をとったらいいか、それを自分はここで考へられるだけ考へて見たい。
しかし傲慢だとの非難を恐れずに言えば、その「考へ」は未だ充分な「思耕」を尽くしていない。殊に「どう云ふ社会を我々は望むべきであるか」という問題について、実篤のヴィジョンは未だ究極的なものではないと思われる。実篤はいみじくも「我々は目指す世界をはっきり知ることが必要と思ふ。それがはっ切りすれば、それに到達する道がわかる」と述べているが、実篤の目指す世界=理想的社会は未だ真に新しいものを表現し得ていないのだ。そこに新しき村について多くの人々が未だに抱いている誤解もしくは諸問題の根があると私は思う。その点について少し考えてみたい。
一、 実篤のヴィジョン
実篤は理想的社会の要件として次の三点を挙げている。
一、すべての人が、人力で得られる限りにおいて長生きするやうに十分注意されてゐること。
一、各個人が、出来るだけ自己の趣味、自己の正しき要求、天職、個性を発揮出来るやうに注意されてゐること。
一、すべての人が出来るだけ多くの喜びを感じて生きられるやうに注意されてゐること。
こうした「注意が十分に実行されてゐる社会は、理想的な社会である」と実篤は言っているが、それは結局、「新しき村の精神」の第一、すなわち「全世界の人間が天命を全うし、各個人の内にすむ自我を完全に生長させる」という理想に集約されるだろう。更にこの理想を私なりに具体化して言えば、「全世界の人間が天命を全うする」という理想は肉体の糧をめぐる水平的問題であり、「各個人の内にすむ自我を完全に生長させる」という理想は魂の糧をめぐる垂直的問題に他ならない。従って新しき村という理想的社会は、水平と垂直という本来次元を異にする問題を同時に解決するものだと言えよう。これは人間の実存構造に対応する実にラディカルな理想であり、おそらくこれ以上の社会的理想を考えることはできないと思われる。
しかし乍ら、多くの人々は未だそのラディカルな理想を真に理解していないのではないか。例えば「理想的社会では、すべての人が生きるために必要なものは、義務労働で解決し、その他は全然、自由を尊重することで解決したい」という実篤の言葉を、単に「義務労働さえ果せば、後は自分の好きなことができる」という程度に理解している人が多いのではないか。もし我々の目指す世界=新しき村がその程度のものなら、そのヴィジョンは何らラディカルなものではない。少なくとも私自身はそのように中途半端なものを「新しき村」と見做したくはないと思う。
では、何が問題なのか。それは肉体の糧を満たす水平的理想と魂の糧を満たす垂直的理想の関係に他ならない。前者をパンの理想、後者をパン以上の理想と言ってもいい。人はパンのみにて生くるにあらず、さりとてパンなしではパン以上の理想を追求することも叶わないという現実において、一般的にはパンの理想の実現、すなわち「すべての人間が食うに困らぬ社会の実現」を以て理想的社会の成就と見做されるだろう。実篤のヴィジョンでは、それは義務労働によって解決されることが目指される。しかし、そうした水平的理想の実現は真に理想的な社会に至る道の半分にすぎない。勿論、この半分の道でさえ極めて困難なものではあるが、ここで問題にしたいことはもう半分の道、つまり垂直的理想を実現する道との関係に他ならない。
残念乍ら、実篤のヴィジョンにおいて、その関係は根源的には問われていない。と言うより、それは問うべきではないとされているようにも見える。常識的に言えば、人々が共同の理想となし得るのは水平的理想に限られ、垂直的理想は各個人の魂の問題とされることだろう。実篤の基本的ヴィジョンもこの常識を超えるものではない。しかし、もしその常識に止まるならば、新しき村の理想は個人の垂直的理想追求を最大限に可能にする水平的理想、言わば個人主義を最大限に生かす共同体の理想にすぎないものと言わざるを得ない。それで何が悪いのか、と少なからぬ人は思うかもしれない。悪いわけではない。ただ、その理想は未だ究極的なものではないだけだ。
もしかしたら、殆どの人は水平的理想の共同体(全ての人が食うに困らぬ社会)の実現を以て満足し、垂直的理想の共働体を蛇足だと思うかもしれない。全ての人が究極的理想の実現を望むわけではないのだ。しかし「理想的社会」についてラディカルに「考へられるだけ考へる」ことを目指すならば、道は垂直的理想の共働体に辿りつく他はないと思われる。私はそのヴィジョンを祝祭共働体に見る。
二、祝祭共働体というヴィジョン
祝祭共働体とは何か。それは古き村の全体主義(統一体)と近代都市の個人主義(バラバラの個)の両者を止揚する個即全・全即個の統合体に他ならない。水平的理想と垂直的理想の関係に即して言えば、それは「個人の自我の完全なる生長」という垂直的理想が水平の次元において具体化することを意味する。更に宗教的な比喩を用いれば、水平的理想に受肉した垂直的理想が祝祭共働体を形成すると言えるだろう。こうした祝祭共働体が一般に理解され難いとすれば、おそらくそれはこの「受肉」のヴィジョンのせいだと思われる。と言うのは、先述したように、一般的には水平的理想と垂直的理想は断絶しているとするのが常識だからだ。
確かに水平的理想が共同のものであり、垂直的理想が個人のものであることは間違いない。従って理想の共同体はあくまでも水平的理想が実現された状態を意味し、そこにおいて個人は自由に(もはや肉体の糧=パンの問題に煩わされることなく)魂の糧を求めることができるだろう。しかし魂の糧は個人のもの(実存的なもの)であるが、それを満たす垂直的理想は個人主義によっては到底実現され得ないと私は思う。その意味において、「理想的社会」の極北に位置すべき「新しき村」は水平的理想が満たされただけの共同体を超えていく必要がある。すなわち「新しき村」は水平的理想の共同体であると同時に、垂直的理想の共働体でなければならないのだ。ここに「新しき村」の問題中の問題がある。
しかし率直に言って、私は未だ問題中の問題としての「祝祭共働体」について説得的に語り得る言葉を持っていない。また紙数の都合上からも、ここではその要点だけを記すに止めたい。
(1) 祝祭共働体は全世界の人間が幸福になるシステムの実現を目指す。それは決して抽象的なものであってはならない。基本はあくまでも各個人が現実に幸福になることであって、それを無視した全体の幸福などというものを考えることはできない。その意味において「滅私奉公」という古き理想は原理的に無に帰したと思い知るべきだ。少なくとも新しき村において、個人は如何なるものの犠牲にもなってはならない。しかし自立は孤立ではない。個人は個人主義によっては真に幸福になることはできないだろう。勿論、全体主義によってもなれない。重要なことは各個人の幸福がそのまま全体の幸福でもあるような現実だ。そのような現実を私は「祝祭」に見る。それは個即全・全即個という統合の現実であり、その現実において祝祭共働体は古き村のゲマインシャフト(Gemeinschaft=共同社会)と近代都市のゲゼルシャフト(Gesellschaft=利益社会)を共に止揚するポスト・モダンの「新しきゲマインシャフト」だと言えるかもしれない。
(2) 祝祭共働体はアウタルキー(Autarkie=自給自足)の精神に基く個人の連帯によって形成される。私はかつて人間生活の理想は完全なるアウタルキーにこそあると思っていた。しかしそれはどう考えてみても原理的に不可能であるし、またたとい可能であったとしても余り面白い生き方とは言えないだろう。やはり人間として生きることの真の喜びは他者との共働にこそあるのではないか。それは他者に依存して生きることとは全く異なる次元のことだ。それぞれの個人が人間生活に必要なものを生産して分かち合う――言わば自立した人間同士のコミュニケーションが共働の本質だと思われる。小田実の言葉を借りれば、それは決して「われら」とはならぬ「われ=われ」の連帯に他ならない。彼がいみじくも言っているように、自立と連帯は同時にかたちづくられるものであって、それ以外のものではない。
(3) 祝祭共働体は「労働の芸術化」(ウィリアム・モリスが言うような意味における)を目的とする。肉体の糧を得るための活動を「労働」、魂の糧を得るための活動を「仕事」とするならば、両者の一致にこそ真の理想的生活がある。その一致の形態としては、「労働の仕事化」(例えば、篤農家)と「仕事の労働化」(例えば、職業芸術家)の二種が考えられるが、それらを総合して「労働の芸術化」と称したいと思う。勿論、「労働」と「仕事」を二元論的に分離し、義務「労働」を果した後にのみ「仕事」の自由が得られるというのが現実であろう。新しき村における現実の生活も、その例外ではない。しかしその現実に止まるならば、村の生活に「新しさ」など全くなく、それは基本的にサラリーマンの生活(九時から五時まで生活のために労働して、それ以後自分の好きなことを楽しむ)と大差ないものと言わざるを得ない。それで悪いわけではないが、真に理想的な生活とは言えないだろう。
結局、新しき村を真に必要とする者は誰か。それは現代社会に絶望している者だろう。論理的にはそうなる。しかし実際には現代社会に対する絶望がそのまま新しき村の必要にはなっていない。何故か。それは新しき村のヴィジョンが現代社会の絶望を真に克服し得るものになっていないからだ。つまり誰もがそこで生活したくなるような社会のあり方――それを新しき村は未だ示すことができないでいる、ということだ。では如何なる社会が我々にとって真に理想的なもの足り得るのか。問題の核心は個人生活の捉え方にあると思われる。理想的社会においては先ず個人の自由が最大限に尊重されなければならない。それは実篤のヴィジョンの核心でもある。しかし、それだけではないと思う。確かに個々の自由な生活が完全に保障されれば、多くの人々はそこに理想的社会の実現を見ることだろう。他人に一切煩わされることのない生活。しかし私はそれ以上の生活を望みたい。また、そう望むところにこそ真の「新しさ」があると思う。それは他者と共働する祝祭の生活だ。尤も他者との関係には微妙な問題がある。しかし人間として生きることの実存的な喜びは、やはり他者との関係から生まれてくるのではないか。少なくとも究極的な「理想的社会」としての新しき村のヴィジョンは、自立した自由人としての個人が他者との共生(もしくは連帯)に生きる喜びを見出す祝祭共働体に辿り着くものと思っている。
おわりに
若き実篤は「理想的社会」の実現を望んだ。単に望んだだけではなく、実際に「新しき村」としてその実現の第一歩を踏み出した。これは誰にでもできることではない。若きマルクスも言うように、世界を様々に解釈する哲学者の仕事もさること乍ら、重要なことはやはり世界の変革なのだ。実篤は間違いなくその一歩を踏み出した。しかしそれが真に「新しき一歩」となるためには、更にラディカルなヴィジョン(祝祭共働体)が必要になるだろう。真の実篤はラディカルな実篤だと私は確信している。