新しき村は共同体にあらず!
世界には「理想社会」の実現を目指した様々な共同体があります。その中には「洗脳集団」と称されるものもあり、共同体運動は何か胡散臭いものだというのが一般的な印象だと思われます。すなわち共同体では個々の自由が抑圧され、全体主義的な雰囲気が支配的だとの印象です。それは強ち間違った印象ではないと思いますが、私の目指している「新しき村」は全く異なります。その点から書いたのが下記の論考です。御笑覧下さい。
新しき村は共同体にあらず!
日比野英次
はじめに
昨年或る女子大生が卒論の調査ということで来村された際、半ば冗談に「新しき村にあなたのような若い女性がどんどん入ってくれるようになるためにはどうしたらいいでしょうね?」と問うたところ、「今時そんな物好きな人はいないんじゃないですか」とあっさり言われてしまった。私はその余りに率直な応えに愕然としたが、よく考えてみれば、この彼女のような反応こそ世の人々の新しき村に対する一般的な印象なのだろう。すなわち、新しき村の理想は理想として、それを実現しようと本気で考えている人は「物好きな人」にすぎないということだ。
勿論、こうした印象は誤解に他ならない。私はそれが誤解であることを明らかにするために、これも昨年来村されたサイデンステッカー氏(「源氏物語」や谷崎・川端の英訳で高名な日本文学研究家)との一エピソードを紹介したいと思う。
1.犬と猫
私はサイデンステッカー氏に問うた――「あなたはコミューンに関心がありますか?」すると氏は即座に「関心はあるが、自分がコミューンに住もうとは思わない」と答えられた。そこで更にその理由を尋ねると、氏は暫し黙考の末、「それは犬が好きか、猫が好きかの違いです。犬はコミューンに住めるが、猫は住めません。私は猫のように生きたいと思っています」と言われた。
氏の言わんとされていることは明らかであろう。鎖に繋がれているような束縛された生活を意に介さぬ犬ならコミューンに住めるが、自由に動きまわることを尊ぶ猫には堪えられないというわけだ。(余談ながら、或る作家によれば「犬は自分を人間だと思い、猫は自分を神だと思っている」そうだ。)
おそらく、こうしたコミューン観は多くの人々に共通するものであり、冒頭に述べた女子大生の新しき村に対する反応もこれに基くものだろう。しかし、言うまでもなく、このコミューン観は新しき村には当てはまらない。それ故、私はサイデンステッカー氏に対して、「新しき村は猫の村を目指している。自由に生きる個人が自己を真に活かすことのできる共働体こそ必要なのだ」と反論した。この反論に対して氏はもはや何も言わず、ただ苦笑されるだけであった。
2.「猫の村」
サイデンステッカー氏との束の間の対話はそれで終わったが、問題は「猫の村」とは具体的に如何なるものか、ということだろう。私はサイデンステッカー氏に「新しき村は猫の村を目指している」と言ったが、後でよく考えてみると、それは少し違うように思えてきた。
確かに独立自尊の猫が他律的な「古き村」に住めぬことは言うまでもない。その意味において新しき村こそ猫に相応しいものだと私は思った。しかし、もし猫が自律を真に実現した存在なら、如何なる村も必要とはしないのではないか。すなわち個人主義的な「近代都市」こそ理想であって、それを超えて「新しき村」を求める必然性はないのではないか。おそらく、勝手気儘に生きることだけを望む猫レベルの存在なら、それで問題はないだろう。しかし、人間は違う。ただ生きて在ることだけでは満足できぬ人間にとって、「新しき村」を求めざるを得ぬ必然性は厳然として存在する。少なくとも人生の意味をあくまでも究極的に問うならば、他律のみならず自律さえも真の理想とするに値しないだろう。何故か。それらは何れも人間に真の自由をもたらさないからだ。
ヘーゲルによれば、他律と自律の違いは「主人が外にいるか内にいるか」ということにすぎない。つまり他律は他者の奴隷になることであり、自律は自分自身の奴隷(!)になることなのだ。何れにも真の自由はない。他律も自律も奴隷的生き方であることに変わりはないのだ。では、真の自由は如何なる生き方にあるのか。
他律、自律、とくれば次は神律となる。しかし問題は神律のリアリティであろう。それを真に理解するためには、神律における神=絶対者をラディカルに把握する必要がある。さもなければ、他律と自律を超える神律の真意を理解できないと思われる。すなわち、神律における神を超越神だと解すれば、それは実質的に他律と変わらない。また、内在神と解すれば、自律と大差ないものとなる他はない。超越神も内在神も神律のリアリティを語るに相応しくないものだ。
では、如何なる神観もしくは絶対者観が神律のリアリティを語り得るのか。今ここで、その議論に深入りすることは自重したい。ただ、それを語ろうとすれば、「対立者の一致」(クザーヌス)、「同一性と差異性の同一性」(ヘーゲル)、あるいは「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)といった逆説的表現にならざるを得ず、神律のリアリティはその実「律」(ノモス)の止揚にあることだけを指摘するに止める。すなわち神律とは絶対的な逆説であり、真の絶対者としての神に律されることは、その神も含めた何者にも律されることのない絶対的自由の実現を意味するのだ。結論だけを言えば、神律とは祝祭であり、そのリアリティは神と遊ぶことに他ならない。
何れにせよ、新しき村を「猫の村」だと主張したのは早計であった。勿論、新しき村はあくまでも自由な生活を求める。しかし、それは猫のような自由ではない。他律の束縛(犬の生活)から自律の自由(猫の生活)を経て、神律の自由(祝祭的生活)へ――ここに新しき村が求める究極の理想があると私は思う。
おわりに
もしコミューン=共同体が「犬の村」に限定されるのなら、新しき村は共同体ではない。では一体何かと言えば、今の私は「祝祭共働体」と答えるしかない。「祝祭共働体」こそ人間の自由が真に実現される場なのだ。個が全体に束縛される「共同体」は古き村の構造であり、新しき村はその構造をディコンストラクトすることによって個が真に生きる全体(個即全・全即個の統合体)を実現しなければならない。それが「祝祭共働体」なのだが、こう言ってみたところで多くの人は納得しないだろう。「祝祭共働体」の具体的なヴィジョンを示さなければ誰一人として説得できないことは重々承知しているつもりだ。
ただ、それにも拘らず、ここで言っておきたいことは、新しき村は決して一部の「物好きな人」のみが住める特殊な場所ではないということだ。そもそも一般の普通の人にとって息が詰まるような生活がどうして新しき村の理想になり得ようか。新しき村はあくまでも、我々が本当に人間らしく生きられる生活を実現しようと思っている。その意味において、本当に生きようとしている全ての人にとって、新しき村は不可避であり、その実現は人類の使命だとさえ言えるだろう。
既存の社会でそれなりに幸福に生活できる人はそれでいい。しかし現実の社会に絶望している人、この社会ではとても人間らしく生きられないと切実に感じている人、そうした人々は新しき村に無縁でいることはできないと思われる。勿論、現実の村は未だ新しき村になっていない。その理想を実現する道は遥かに遠いと言わざるを得ない。だからこそ、多くの人々(特に若者、更に言えば若い女性!)の力が必要なのだ。一人でも多くの人が新しき村に積極的な関心を寄せてくれることを心から願っている。
新しき村は共同体にあらず!
日比野英次
はじめに
昨年或る女子大生が卒論の調査ということで来村された際、半ば冗談に「新しき村にあなたのような若い女性がどんどん入ってくれるようになるためにはどうしたらいいでしょうね?」と問うたところ、「今時そんな物好きな人はいないんじゃないですか」とあっさり言われてしまった。私はその余りに率直な応えに愕然としたが、よく考えてみれば、この彼女のような反応こそ世の人々の新しき村に対する一般的な印象なのだろう。すなわち、新しき村の理想は理想として、それを実現しようと本気で考えている人は「物好きな人」にすぎないということだ。
勿論、こうした印象は誤解に他ならない。私はそれが誤解であることを明らかにするために、これも昨年来村されたサイデンステッカー氏(「源氏物語」や谷崎・川端の英訳で高名な日本文学研究家)との一エピソードを紹介したいと思う。
1.犬と猫
私はサイデンステッカー氏に問うた――「あなたはコミューンに関心がありますか?」すると氏は即座に「関心はあるが、自分がコミューンに住もうとは思わない」と答えられた。そこで更にその理由を尋ねると、氏は暫し黙考の末、「それは犬が好きか、猫が好きかの違いです。犬はコミューンに住めるが、猫は住めません。私は猫のように生きたいと思っています」と言われた。
氏の言わんとされていることは明らかであろう。鎖に繋がれているような束縛された生活を意に介さぬ犬ならコミューンに住めるが、自由に動きまわることを尊ぶ猫には堪えられないというわけだ。(余談ながら、或る作家によれば「犬は自分を人間だと思い、猫は自分を神だと思っている」そうだ。)
おそらく、こうしたコミューン観は多くの人々に共通するものであり、冒頭に述べた女子大生の新しき村に対する反応もこれに基くものだろう。しかし、言うまでもなく、このコミューン観は新しき村には当てはまらない。それ故、私はサイデンステッカー氏に対して、「新しき村は猫の村を目指している。自由に生きる個人が自己を真に活かすことのできる共働体こそ必要なのだ」と反論した。この反論に対して氏はもはや何も言わず、ただ苦笑されるだけであった。
2.「猫の村」
サイデンステッカー氏との束の間の対話はそれで終わったが、問題は「猫の村」とは具体的に如何なるものか、ということだろう。私はサイデンステッカー氏に「新しき村は猫の村を目指している」と言ったが、後でよく考えてみると、それは少し違うように思えてきた。
確かに独立自尊の猫が他律的な「古き村」に住めぬことは言うまでもない。その意味において新しき村こそ猫に相応しいものだと私は思った。しかし、もし猫が自律を真に実現した存在なら、如何なる村も必要とはしないのではないか。すなわち個人主義的な「近代都市」こそ理想であって、それを超えて「新しき村」を求める必然性はないのではないか。おそらく、勝手気儘に生きることだけを望む猫レベルの存在なら、それで問題はないだろう。しかし、人間は違う。ただ生きて在ることだけでは満足できぬ人間にとって、「新しき村」を求めざるを得ぬ必然性は厳然として存在する。少なくとも人生の意味をあくまでも究極的に問うならば、他律のみならず自律さえも真の理想とするに値しないだろう。何故か。それらは何れも人間に真の自由をもたらさないからだ。
ヘーゲルによれば、他律と自律の違いは「主人が外にいるか内にいるか」ということにすぎない。つまり他律は他者の奴隷になることであり、自律は自分自身の奴隷(!)になることなのだ。何れにも真の自由はない。他律も自律も奴隷的生き方であることに変わりはないのだ。では、真の自由は如何なる生き方にあるのか。
他律、自律、とくれば次は神律となる。しかし問題は神律のリアリティであろう。それを真に理解するためには、神律における神=絶対者をラディカルに把握する必要がある。さもなければ、他律と自律を超える神律の真意を理解できないと思われる。すなわち、神律における神を超越神だと解すれば、それは実質的に他律と変わらない。また、内在神と解すれば、自律と大差ないものとなる他はない。超越神も内在神も神律のリアリティを語るに相応しくないものだ。
では、如何なる神観もしくは絶対者観が神律のリアリティを語り得るのか。今ここで、その議論に深入りすることは自重したい。ただ、それを語ろうとすれば、「対立者の一致」(クザーヌス)、「同一性と差異性の同一性」(ヘーゲル)、あるいは「絶対矛盾的自己同一」(西田幾多郎)といった逆説的表現にならざるを得ず、神律のリアリティはその実「律」(ノモス)の止揚にあることだけを指摘するに止める。すなわち神律とは絶対的な逆説であり、真の絶対者としての神に律されることは、その神も含めた何者にも律されることのない絶対的自由の実現を意味するのだ。結論だけを言えば、神律とは祝祭であり、そのリアリティは神と遊ぶことに他ならない。
何れにせよ、新しき村を「猫の村」だと主張したのは早計であった。勿論、新しき村はあくまでも自由な生活を求める。しかし、それは猫のような自由ではない。他律の束縛(犬の生活)から自律の自由(猫の生活)を経て、神律の自由(祝祭的生活)へ――ここに新しき村が求める究極の理想があると私は思う。
おわりに
もしコミューン=共同体が「犬の村」に限定されるのなら、新しき村は共同体ではない。では一体何かと言えば、今の私は「祝祭共働体」と答えるしかない。「祝祭共働体」こそ人間の自由が真に実現される場なのだ。個が全体に束縛される「共同体」は古き村の構造であり、新しき村はその構造をディコンストラクトすることによって個が真に生きる全体(個即全・全即個の統合体)を実現しなければならない。それが「祝祭共働体」なのだが、こう言ってみたところで多くの人は納得しないだろう。「祝祭共働体」の具体的なヴィジョンを示さなければ誰一人として説得できないことは重々承知しているつもりだ。
ただ、それにも拘らず、ここで言っておきたいことは、新しき村は決して一部の「物好きな人」のみが住める特殊な場所ではないということだ。そもそも一般の普通の人にとって息が詰まるような生活がどうして新しき村の理想になり得ようか。新しき村はあくまでも、我々が本当に人間らしく生きられる生活を実現しようと思っている。その意味において、本当に生きようとしている全ての人にとって、新しき村は不可避であり、その実現は人類の使命だとさえ言えるだろう。
既存の社会でそれなりに幸福に生活できる人はそれでいい。しかし現実の社会に絶望している人、この社会ではとても人間らしく生きられないと切実に感じている人、そうした人々は新しき村に無縁でいることはできないと思われる。勿論、現実の村は未だ新しき村になっていない。その理想を実現する道は遥かに遠いと言わざるを得ない。だからこそ、多くの人々(特に若者、更に言えば若い女性!)の力が必要なのだ。一人でも多くの人が新しき村に積極的な関心を寄せてくれることを心から願っている。