新しき村の実現について | 新・ユートピア数歩手前からの便り

新しき村の実現について

「ユートピア数歩手前からの便り」とは、言うまでもなくウィリアム・モリスの「ユートピア便り」(News from Nowhere)に準じたものです。ただモリスの場合は自分の理想とする社会をファンタジーとして作品化したわけですが、私は敢えてユートピアを現実のものとするという目的でこの便りをお送りしたいと思っています。勿論「ユートピア」の語源からすれば、それは「どこにもないところ」ですから、それを現実のものにしようとすることは実に馬鹿馬鹿しく無駄なことかもしれません。しかし私は決して無意味なことだとは思っておりません。そこで私が現実化しようとしている所謂「理想社会」の在り方について、本日から数回に渡って述べたいと思います。それらは全て「新しき村」の機関誌に掲載したものですが、私の今後の便りの序章として御笑覧下さい。


新しき村の実現について 
日比野英次

はじめに  

私は「新しき村」を武者小路実篤の村に限定して考えていない。古今東西の所謂ユートピア思想が「新しき村」の土台となっている。しかし、その中で武者小路氏の構想を中心に考えるべきだとすれば、それは氏があくまでも「個を活かす」ということを目的とされた点に見出されるだろう。

武者小路氏はあくまでも個人の魂の糧を問題にする芸術家であった。確かに氏には社会全体の改革という関心もあり、それなくして「新しき村」の活動もあり得ないが、氏はついに実際的な社会運動家ではなかったと思われる。そこに氏の限界を見出す人も多いが(特に現実的な共産主義者などは、氏の試みを「空想的」の一言で片付けてしまうに違いない)、見方を変えれば、そこに氏の大きさがあるとも言えるだろう。

何れにせよ、私は個人としての人間(単独者)が本当に生きることを求める――これが全てのユートピア思想の出発点でなければならぬと思っている。従って「新しき村」は個人としての人間が本当に生きることを実現できる場でなければならない。これこそユートピアを求める様々な試みの原点であるべきだろう。言わば個を真に活かす全体の実現だ。それは全体のために生きる(犠牲となる)個の止揚であることは当然であるが、同時に個のために存在する全体の止揚でもあることも忘れてはならない。すなわち私の目的地は、個即全・全即個の成就としての「新しき村」なのだ。私は、こうしたユートピアの究極とも言うべき「新しき村」の具体的内容を、その真の新しさについて考えることで明らかにしていきたいと思う。


   「新しき村」の新しさについて

五月の連休中に村を訪れた観光客の一人が「新しい村なんて言うけど、古い建物ばかりでちっとも新しくないじゃないか」と呟いていたそうであるが、「新しき村」を「新しくつくられた村」だと思う誤解には単なる笑い話では済まされぬ或る根源的な問題が潜んでいるように思われる。すなわち「新しき村」は「新しい村」ではないのだ。

では「新しき村」の本当の新しさとは一体何か。それは「昨年つくられたものよりも今年つくられたものの方が新しい」というような水平的時間の流れにおける新しさではなく、あくまでも垂直的な時間における新しさであろう。尤も我々が日常生活において感じているのは水平に流れている時間なので、垂直的な時間はむしろ永遠と言った方がいいかもしれない。ただし、それは悪無限としての「永久」とは異なり、或る理想の時熟(カイロス)として水平的な時間(クロノス)に突入してくる「永遠の今」なのだ。従って、それは決して抽象的なものではない。私はそうした垂直的な新しさを、「古き村―近代都市―新しき村」という弁証法において明らかにしたいと思う。


   (1)古き村―近代都市―新しき村

先に述べたように、「新しき村」の魅力は自己(個人としての人間=単独者)を真に活かすことを主たる目的とする共同体という点にある。これを個と全体の関係で言えば、全体のために個があるという構造をもつのが封建主義的な「古き村」であるのに対し、「新しき村」は個を真に活かすための全体(これは後述するように単に個のために全体があるという構造ではない。その微妙な差異が問題なのだ)の実現を目指していると言えよう。こうした「新しき村」の理想は実に魅力的なものであるが、ここには根本的かつ構造的な矛盾がある。それは自己を真に活かすということと共同体の関係だ。前者は垂直的の次元における主体的な事柄であるのに対し、後者は水平の次元における社会的な事柄に他ならない。果して自己を真に活かそうとすることは共同体を必要とするだろうか。我々は先ず、この根本的な問題に立ち返らねばならない。さもなければ、「新しき村」に幻滅する者の後を絶てないだろう。

そこで、改めて問う。理想の共同体とは何か。しかし、私の考える理想が他者の理想と同一であるとは限らない。してみると理想の共同体というのは一つの矛盾ではないか。先ずこの矛盾について考えてみる必要がある。もし唯一の理想を追求する共同体を考えてみれば、それは抑圧以外の何ものでもないだろう。と言うのは、理想は個人によって種々雑多であるのが当然であるからだ。それ故、唯一の理想によって統一される共同体は何ら理想的ではないと言えよう。実際、共同体の生活と聞くと顔を顰める人が多いのは、そこでは個人の自由が制限されるという印象のせいだと思われる。残念なことに、現にある殆どの共同体はその印象が正しいことを証明しているが、理想の共同体とは決してそういうものではない筈だ。では、理想の共同体の真の姿とは如何なるものか。

私は理想の共同体というものを一応「様々な個人の理想が統合される共同体」だと理解している。そこでは個人の理想が自由に、何に妨げられることもなく追求される。もはや経済的な問題を気にする必要はない。個人は自らの理想追求に最大限集中することができるのだ。このように重要なことはあくまでも個人の理想追求だが、それは個人だけでは決して達成できないだろう。これは経済的な理由によるだけではなく、むしろ人間存在の原理によるものだ。尤も「個人の理想追求に共同体など関係ない。むしろ邪魔なだけだ」と考える人も多いかもしれない。しかし私はそうは思わない。そもそも個人の理想というものは個人だけでは成就することは原理的に不可能であり、否応なく他者との関係を必要とするものだろう。人間の原点は単独者であるが、単独者のままで本当に生きることはできない。それが人間の現実だ。山奥で修行していたツァラトゥストラも里に下りて来ることを余儀なくされた。それは「十牛図」の示しているものと基本的に同じであり、孤独な哲学(修行)の往相は社会的実践の還相によって完成すると言えよう。すなわち人間が本当に生きることを成就できる場(自己完成の場)は孤独な山奥ではなく、あくまでも人々が生活する里であり、そこにこそ「新しき村」は実現するのだ。個人の理想は不可避的に共同体を必要とする。共同体においてこそ個人の理想は成就するのだ。私はこの点を、個人の理想と全体の理想の関係において更に考えてみたいと思う。  

個人の理想と全体の理想――前者の集合が後者になることはないし、後者が前者に口出しすることもできない。両者は質的に異なったものであり、全く次元が違っている。そこで取り敢えず「個人の理想は魂の糧に関するものであり、全体の理想は肉体の糧に関するものである」と考えてみる。言うまでもなく、人間にはその両方の糧が必要だが、それは人間が個人的な存在であると同時に全体的(社会的、と言った方がいいかもしれない)存在であることを意味している。すなわち、たとい自らの個人的な理想だけを追求して生きていきたいと願っても、他者との関係を否定することはできないということだ。むしろ個人の理想は、それを可能にするために否応なく全体の理想を必要とする。具体的に言えば、肉体の糧を得るための労働を最小限に、魂の糧を得るための仕事を最大限にすることを可能にする全体(社会)――これこそ理想的なものと言えるだろう。すなわち理想の共同体とは、個人の理想が最大限に生かされる全体に他ならない。しかし、それは個人が勝手なことをしてもいい社会とは根本的に異なる。そのような個々バラバラの状態を招いたのが、「古き村」のアンチ・テーゼとして実現した「近代都市」であると言えよう。

確かに「近代都市」は、全体のために個があるという「古き村」の封建主義的構造を否定し、個のためにこそ全体があるという新しい構造を実現した。しかし、その結果、「近代都市」における人間は個々バラバラのアトムとしての個人と化してしまった。私はこのようなアトムとしての個人では、人間として本当に生きることなど到底できないと思う。個人の「本当の生」は原理的に個人だけでは実現しない。「今、この瞬間に生きている私は本当の私である」と言うことができる時、主語の私が確認する述語の私=本当の私は「私」を超越している。それは、ヘーゲル的に言えば、「我である我々・我々である我」の実現に他ならない。こうして個人の「私」が「我である我々・我々である我」という全一的意識に辿り着く時、個人は人間として本当に生きていることを実感できるに違いない。具体的に言えば、それは「全ての人が自分の兄弟姉妹である」という実感であり、ここに「新しき村」の基礎があることは言うまでもない。そして、そうした全一的意識が求める理想の共同体は個の問題からの逃避(もしくは個が逃避する場)では決してなく、あくまでも個の問題の成就もしくは個が自らを真に生かせる場)でなければならない。従って、全体のために個が奉仕せねばならぬ「古き村」が問題外であるのは当然であるが、個のために全体が奉仕することだけを望む「近代都市」も理想的とは言えない。人間が本当に生きることにおいて、個人は決してバラバラな存在ではあり得ないからだ。そこには統一は必要ないが、統合は不可欠だと思われる。

統一体と統合体――この差異にこそ理想の共同体をめぐる問題の核心がある。「古き村が統一体であるのに対し、新しき村は統合体であるべきだ」と言う時、その相違は偏に個人を真に活かすことができるかどうかという点にあるだろう。「古き村」は全体の意志によって統一され、個人はそれに従うことを求められる。言わば「全体のために個がある」というのが「古き村」の本質に他ならない。それに対して「新しき村」では個が中心となる。ただし、それは「近代都市」における個々バラバラのアトムとしての個ではなく、それぞれの個が全体を反映しているモナドとしての個だ。すなわち、村の一人一人の「私」が「新しき村」でなくてはならない。これは「古き村」の常識からすれば、もはや共同体とは言えぬものかもしれない。然り、「新しき村」はその究極の理想において共同体を超えていくものと思われる。「古き村」(全体のために個がある)を超えたのは「近代都市」(個のために全体がある)だが、「新しき村」はそれさえも超える後―近代(ポスト・モダン)のX共同体(X印つきの共同体は、従来の共同体概念の止揚を意味する)であるべきだ。

古き村―近代都市―新しき村。人間は原理的に何らかの共同体を求めざるを得ぬ存在だ。しかし現代人はもはや統一体としての共同体(古き村)に生きることはできず、さりとてその否定による個々バラバラの状態(近代都市)にも堪えられない。この窮境を打開するものこそ統合体としてのX共同体であり、「新しき村」はそれを実現しなければならない。しかし「古き村」の共同体と「新しき村」のX共同体は具体的にどう異なるのか。それについて述べるに当り、私は今後、「新しき村」のX共同体を「共働態」と記し、次のように「古き村」の共同体と区別したいと思う。

古き村―唯一の理想によって統一される共同体(「全体のために個がある」統一体)
新しき村―様々な個人の理想が統合される共働態(「個即全・全即個」の統合体)


   (2)祝祭共働態としての「新しき村」

「新しき村」の精神の第一は、「全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に生長させることを理想とする」ことにある。私はこの理想を、「人間の天命を全うする事」は肉体の糧によって可能となり、「各個人の内にすむ自我を完全に生長させる事」は魂の糧によって可能になるというように理解している。従って、「新しき村」は肉体の糧と魂の糧を同時に無理なく満たすことのできる共働体でなければならない。しかし先にも少し問題にしたが、常識的に考えれば、共働できるのは肉体の糧に関してだけであり、各個人の魂の糧については共働などできないだろう。確かに「近代都市」の構造においてはそう言う他はない。しかし「新しき村」の共働態では全く事情が異なる。この点について改めて考えてみたい。

私は先に「個人の理想は魂の糧に関するものであり、全体の理想は肉体の糧に関するものである」とした。言うまでもなく、この区別では肉体の糧を求めることにおいてしか人間の共働は成立せず、全体の理想は「全ての人が食うに困らぬ社会の実現」に限定されることになる。確かに「この世の中に食うために働く人が一人でもいれば、その世の中は未だ完全ではない」と言われる武者小路氏の言葉に明らかなように、それが「新しき村」の目指す理想の一つであることは間違いない。しかし乍ら、肉体の糧については共働し(六時間の義務労働)、魂の糧については孤独に、などという生活の在り方が人間の究極の理想であるとは到底思えないし、また思いたくもない。とは言え、それぞれの人間の魂の糧は純粋に主体的・個人的なものであり、そこには本来共働はあり得ない。それ故、魂の糧の追求は原理的に孤独なものだ、ということになる。

しかし、それにも拘らず、私は敢えて魂の糧についても共働を求めたいと思う。それは単なる芸術の共同制作の如き最大公約数的なものではなく、それぞれの魂の糧が舞い踊る最大公倍数的なものを目指す。勿論、そこにはもはや先に述べたような個人の理想と全体の理想の区別はない。すなわち、究極的な全体の理想は、「全ての人が食うに困らぬ社会の実現」という肉体の糧だけに限定された理想を超え、「全ての人の魂の糧が最大公倍数的に統合される祝祭空間の実現」という段階にまで達しなければならないのだ。私はそうした言わば魂の祝祭共働体こそ、個即全・全即個の成就を目指す「新しき村」の究極態だと思っている。それは存在の祭り、と言ってもいい。自己を真に活かす場である「新しき村」は毎日がお祭りであるような生活を実現すべきだ。自他共生という理想も祝祭共働態においてこそ実現できるものと信じている。宮澤賢治曰く、「おお朋だちよ、いっしょに正しい力を併せ、われらのすべての田園とわれらのすべての生活を一つの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか」(「農民芸術概論綱要」)

祝祭共働態としての「新しき村」――私はここにユートピアの究極態を見る。勿論、現にある新しき村がこの最終段階に辿り着くまでには、未だいくつもの段階を経なければならない。その第一はやはり肉体の糧をめぐる水平的問題、すなわち「全ての人が食うに困らぬ社会を如何に実現するか」という経済問題であろう。「新しき村」といえども肉体の糧を得るための経済なくしては成り立たない。さもなければ、布施で肉体の糧を得て魂の糧を追求している出家者集団と大差ないものに堕してしまうだろう。「新しき村」に経済は不可欠だ。ただし、それは古い経済(特に資本主義経済)であってはならない。「新しき村」には新しい経済が必要なのだ。それは近代農業を超える農業の在り方を様々な形で摸索している多くの先進的な農民たちが求めているものでもある。残念乍ら今の私にはそれについて具体的に述べられるだけの力はないが、新しい農業の在り方、そしてそれを可能にする新しき経済を求める運動が徐々に世界的なうねりとなりつつあることは間違いない。日本におけるユートピア(もしくはコミューン)運動の草分け的存在である「新しき村」がこの流れを無視することはできないだろう。むしろ先頭に立って新しき経済を追求し、それによって祝祭共働態を実現しなければならない。そして全世界に向かって叫ぶのだ、「全ての農業労働を、舞踏の範囲まで高めよ」(宮澤賢治)と。   


 おわりに

ヒトが人間として生きる。それは垂直の次元における魂の糧と水平の次元における肉体の糧を満たすことを意味する。私はこうした人間観に基いて、魂の糧を求める活動を「仕事」、肉体の糧を求める活動を「労働」としたいと思う。もし人間の本来的な生を「仕事」に見るならば、「労働」を最小限に、いや将来的には無に帰することこそ人生の理想だと言えるだろう。そして、その理想を実現するものこそ「新しき村」でなければならない。昔から「働かざる者食うべからず」というのが常識であるが、「働く」を「労働」と見なすならば、この常識はもはや「新しき村」では通用しない(勿論、これはあくまでも理想を実現した究極態においてのことだ)。「新しき村」では「働かなくても食うことができる」からだ。しかし、これは決して「新しき村」を怠け者の村にすることではない。尤も怠けることが自分の魂の糧だという人は怠けてもいいだろう。怠けることが彼の「仕事」になるからだ。それで自分が人間として本当に生きているという実感が得られるならば、他人がとやかく言う筋合いはない。しかし現実にそういうことはあり得ないと思う。「怠ける」という状態は「労働」の拒否ではあり得ても、決して「仕事」の否定にはなり得ない。「仕事」の否定は人間として生きることの否定に他ならないからだ。それに「労働」を無に帰することは水平の次元を否定するものではない。たとい垂直の次元に人間本来の生があるにせよ、それは主体的なもの(神的なものと私の絶対的関係)であって、それ自体が共同体を成すことはあり得ない。「新しき村」はあくまでも水平の次元において形を成す。すなわち、それぞれの主体がその垂直の次元において収穫した魂の糧による饗宴こそ「新しき村」の究極態なのだ。私はそうした祝祭共働態の実現こそ我々の「仕事」だと思っている。