人間になる(4)
私のパラダイス批判は善良なる市民の大半を敵に回す結果になるだろう。自分たちの誠実な生活が何だか侮辱されたように感じるからだ。勿論、私は侮辱などしていない。それは誤解だが、どうすれば私の真意は伝わるのか。例えば、太宰治の「家庭の幸福は諸悪の本」という言葉。これを善良なる市民はどう理解しているのか。「芸のためなら女房も泣かす」という桂春團治は例外かもしれないが、大抵の人は家庭の幸福を求める。真面目に働いて、然るべき伴侶を得て、やがて子宝にも恵まれて家庭を築く。これ以上の幸福があろうか。実際には、不倫、不妊、子ができても思い通りにならない、反抗、そして自分たち自身の所謂「老いるショック」などで、十全な家庭の幸福を享受できている人は稀だと思われる。むしろ、家庭の崩壊によって独居生活を余儀なくされている人の方が一般的かもしれない。ただし、孤独死に至る悲惨な独居生活もあるが、現代には「お一人様の生活」を満喫する風潮もある。また、シェアハウスなどで擬似的な家族を形成して「家庭の幸福」を享受している場合もある。何れにせよ、善良なる市民にとっては「家庭の崩壊」が諸悪の本にはなっても、「家庭の幸福」が諸悪の本になることなど考えられない。それは「お一人様の生活」を満喫している個人主義者も同様ではないか。家族関係や友人関係は煩わしいだけだと嘯きながら、「お一人様」も潜在的には私的領域を超えるホームを求めている。しかし、ここではホームの問題に深入りすることは自重し、太宰の言葉に集中したい。おそらく、糾弾されるべきは過度のマイホーム主義、すなわち自分の「家庭の幸福」だけを守ろうとするエゴイズムであろう。人は自らの「家庭の幸福」のためなら汚職にも手を染めるし、会社の不正も見て見ぬ振りをする。ウクライナやガザで何が起きようと、自らの「家庭の幸福」が安泰なら無視することができる。「家庭の幸福」が至上のものであり、それ以外は全て「向う岸」のことにすぎない。こうしたマイホーム主義の文脈においてのみ、「家庭の幸福は諸悪の本」という太宰の言葉は善良なる市民にとっても理解可能なものになる。しかし、それが太宰の言葉の真意なのだろうか。もし悪しきマイホーム主義を排した「家庭の幸福」があるのなら、すなわちウクライナやガザにも「家庭の幸福」(の復活)を求めていくのなら、そこに批判すべき如何なる問題があるのか。善良なる市民はそこに何ら問題を見出さないだろう。しかし、私のパラダイス批判は正にそこに究極的な問題を剔抉していく。
人間になる(3)
どうしてパラダイスに安住してはいけないのか。「いけない」とまで言い切ることはできない。人それぞれに夢がある。夢が叶う人。叶わぬ人。人生は様々なれど、それぞれの私的領域の充実に幸福を見出して生きていくのは決して悪いことではない。少なくとも私は人の私的領域を蔑ろにするつもりはない。ただ、「私的領域の充実はそれだけでは完結しない」と私は考えている。そもそも「私的領域の充実」とは何か。様々な欲望の充足が想定されるが、そこには宮澤賢治の有名な言葉「世界が全体幸福にならなければ、個人の幸福はあり得ない」に通じるエートスがある。端的に言えば、「私的領域の充実」はエゴイズムでは十全に得られない。あるいは、エゴイズムで得られるような「私的領域の充実」は高が知れている。しかし、こうしたエートスも大抵は量的な誤解に堕していく。例えば、家庭の幸福に「私的領域の充実」を見出す場合、自分の家庭の幸福だけではなく、他の全ての家庭の幸福を求める、という理解だ。それも大切なことだが、「個人の幸福の総和が世界全体の幸福になる」という量的なことが問題なのではない。問題はあくまでも質的であり、世界全体の幸福は個人の幸福とは質的に全く異なっている。同様に、「私的領域の充実」を究極的に求めれば、私的領域とは質的に全く異なる次元が要請されるのだ。それは同時に「人として生きる」限界でもある。人は今やキルケゴールの言う「精神としての自己」を自覚し始めている。キルケゴール曰く、「自己とは一つの関係、その関係それ自身に関係する関係である。あるいは、その関係において、その関係がそれ自身に関係するということ、そのことである。自己とは関係そのものではなくして、関係がそれ自身に関係するということなのである。」かくして人は関係がそれ自身に関係することにおいて私的領域を超越し、人間へと一歩を踏み出す。
人間になる(2)
一人だけでは人間になれない。さりとて多くの人が集まれば人間になるというわけでもない。群衆になるだけだ。アーレントは人間の本質に複数性を見ているが、それはあくまでも質的に(量的にではなく)理解されねばならない。従って、人が人間になる場合、人の単数性と人間の複数性との質的断絶が問題になる。この断絶を如何にして超克するか。尤も、「超克など必要ない」と思う人も少なくないだろう。そうした人は自らの個別性に安住しており、その私的領域の充実だけに関心がある。とは言え、殊更に孤立して他を排除する偏狭な人たちであるとは限らない。むしろ、お互いに個別性を尊重し合い、それぞれの私的領域の充実のために積極的に交流することもある。公的領域も否定されることはないが、それはあくまでも個々の私的領域の安全確保のために必要とされる二次的なものにすぎない。総じてエゴイズムの生活だが、社会的に害がなければパラダイスにもなり得る。しかし、パラダイスに人が人間になる可能性はない。逆説的に言えば、パラダイスは人が人間になる可能性を放棄したことによる楽園に他ならない。実際、 世の中の殆どの人は自らの身の丈に合ったパラダイスを見出して、そこに安住しようとしている。つまり、人間になることを断念している。これでいいのだろうか。確かに、「人デナシ」に転落することなく、人として生きる幸福を極めることは決して悪いことではない。しかし、私はその先の光景がみたい。パラダイスの先の理想を求めたい。
人間になる
私は理想を求め続けている。そして、人々が理想を求める共働態、すなわち祝祭共働態の実現を目指している。何年かかるか分からない。愚鈍な私は未だその端緒を開くことさえできていないが、せめてその構想だけは明らかにしておきたい。しかし、理想について語るのは至難の業だ。十中八九、夢と混同される。個々それぞれの夢は相対的なものだが、理想は絶対的だ。絶対的でなければ理想に値しない。更に言えば、その絶対性故に理想は極めて危険なものになる。尤も、日本国憲法に明記されている基本的人権や生存権の理想に疑問を懐く人は皆無だろう。もし誰かが個人として尊重されず、「健康で文化的な最低限度の生活」の欠乏に苦しんでいるのなら、我々はそうした「不本意な現実」を見過ごすべきではない。当然のことだ。実際。戦争や紛争地域は言うに及ばす、「不本意な現実」は世界中至る所に見出される。欠乏のニヒリズムは様々な形で世界を蝕んでいる。しかし、何を以て欠乏と見做すのか。未開人は欠乏しているか。日本はアメリカに敗れて、自分たちが如何に欠乏していたかを思い知らされた。映画やテレビドラマで垣間見るアメリカ一般市民の眩しいほど豊かな生活!日本はそのモノに溢れた生活に憧れ、奮闘努力の結果、曲がりなりにも表層的にはアメリカの豊かさを我が物とした。しかし、欠乏は満たされたのだろうか。むしろ、モノを所有して生活が豊かになればなるほど、欠乏は深まるのではないか。勿論、基本的人権や生存権が脅かされている人たちが豊かな生活を求めるのは当然であり、国際的にも支援していかねばならない。しかし、私の語るべき理想はそこにはない。相変わらず上手く語ることはできそうにないが、基本的人権や生存権といった水平的理想を蔑ろにするつもりなど全くない。ただし、それを現実に根付かせるためには、どうしても垂直的理想が要請されると私は考えている。それは個々の人が人間になる理想に他ならない。私にとって「人間」は「超人」を意味する。従って、「垂直的理想は全世界の人が人を超えて人間になることだ」と言うことができる。おそらく、このまま垂直的理想を如何に巧みに語っても、人々にパターナルな関係を強要する結果になるだけだと思われる。決してそうならないように、私は自分の語るべき垂直的理想を可能な限り具体的に表現することを試みたい。
パターナルな関係
星一徹が我が子・飛雄馬に大リーグボール養成ギプスを強いたのは是か非か。野球少年だった幼い頃から、私はずっと考え続けている。星一徹は戦争で肩を壊した。その壊した肩を補うために魔送球を編み出したものの、それは邪道だと非難されて結局「巨人の星」になるという夢を断念せざるを得なかった。そうした自らの見果てぬ夢を我が子に託したのだとすれば、全ては星一徹のエゴイズムではないか。実際、飛雄馬は当初、大リーグボール養成ギプスをつけることに反撥していた。しかし、エゴイズムだけではなかった。その根柢にはやはり「我が子の幸福のため」という親心があり、いつしか飛雄馬もそれに気づいてギプスに対して肯定的になった。ただし、それもこれも「巨人の星」という夢を飛雄馬が共有しなければ、父親の深い愛情も子に伝わらなかったであろう。確かに、親子二代の夢の実現ということはあり、夢の共有も不可能なことではない。しかし、絶対的な夢などあり得ない。たとい一子相伝の立派な夢であっても、子がその夢に絶対的な関心を懐くとは限らない。もしかしたら飛雄馬も野球ではなく一流のピアニストになるという夢に心奪われたかもしれない。その場合には一流のピアニスト養成ギプス(そんなものがあるとして)こそが望まれるのであって、大リーグボール養成ギプスなどは迷惑でしかない。こうしたことは凡百の親が子に授ける英才教育についても言えるだろう。親は皆「子のために良かれ」と思っている。しかし、親の夢が子の夢になるとは限らない。尤も、最初から主体的に自分の夢を持つことはないので、様々な夢の可能性を与えられることは子にとっても悪くはない。大リーグボール養成ギプスであろうと一流のピアニスト養成ギプスであろうと、将来反撥することになったとしても、決して無駄にはならないと思われる。しかし、それにもかかわらず、親の夢と子の夢は質的に断絶していると考えるべきだ。何故その点に拘るかと言えば、最近改めて「未開と文明」について考えることを余儀なくされているからだ。例えば、アジアやアフリカ、ラテンアメリカ(この呼称自体に既に問題があるが)の所謂「未開民族」の生活を文明化することは是か非か。醜悪なる侵略が非難されるのは当然だが、心ある善良な人々は「未開人のために良かれ」と思って文明化を推進したのではないか。果たして、それは西欧人の夢の押し付けでしかなかったのか。絶対的な夢などはない。様々な夢があっていい。されど今こそ「未開と文明」の対立に垣間見られるパターナルな関係を超える理想について思耕すべき秋ではないか。
補足:新しき人よ目覚めよ
ドストエフスキイは「美しき人」を表現しようとしてムイシュキンという白痴を生み出し、「美しき女」を表現しようとしてソオニャという娼婦を生み出した。綺麗は汚い、汚いは綺麗。ここに垂直の理想がある。ヴィクトール・フランクルは「それでも人生には意味がある」と述べているが、このtrotzdemに真理が胚胎している。過酷な真実(現実)にもかかわらず、生きていく真理の力が宿る。もし人生に水平の次元しかないのであれば、ムイシュキンは哀れな白痴にすぎないし、ソオニャも惨めな娼婦でしかない。垂直の次元が真実を真理に一変させる。しかしそれは、例えばアウシュヴィッツの現実を容認することではない。垂直の次元は「どこにもない場」なので、それだけに一層、過酷な真実からの格好の「逃げ場所」と化してしまう。ユートピアは現実逃避の阿片ではない。この致命的な誤解を粉砕することが野性の理想主義の第一歩になる。ブレイク曰く、Rouse up, O, Young men of the New Age ! 無垢な「美しき人」は、汚辱に塗れた世俗の経験を通じて「新しき人」とならねばならない。
補足:静かな生活
特に明確な理由もなく、かなり以前に録画しておいた伊丹十三監督の映画『静かな生活』を観た。原作は言うまでもなく大江健三郎。ドラマの主人公であるイーヨーの周囲では様々な騒動が起きるが、イーヨーの生活そのものは常に静かだ。その静かさは美しくもあるが、何だか異様な感じがする。何でもない人が何でもない日常を生きる。その美しさがドラマのテーマのようにも思えるが、「普通の人」の日常生活に通常美しさはない。そして、満員電車の中で見知らぬ女学生に「落ちこぼれ!」と怒鳴られるイーヨーは明らかに「普通の人」ではない。「普通の人」は何でもない日常を生きても美しくないが、「普通の人」ではないイーヨーが何でもない日常を生きると美しい。何故か。イーヨーは人間の理想とは全く無縁の次元に生きているからだ。私はそう考える。純粋に水平の次元だけに生きているから、と言ってもいい。尤も、イーヨーには彼なりの夢はあるだろう。おそらく、音楽に関する夢が。しかし、理想はない。理想と言うより、大義と言った方が理解しやすいかもしれない。イーヨーの生活には如何なる意味においても大義はない。もしかしたら、Sollenさえない。言わば「野の花・空の鳥」のような生活だ。だからこそ、その日常が美しく輝く。原作者の大江健三郎は、この世界に生きる「美しき人」のUrbildとしてイーヨーを創造したのではないか。ちなみに、ドストエフスキイは現代社会にイエス・キリストの如き「美しき人」を甦らせようと思ってムイシュキン公爵を創造したと言われている。しかし、周知のように、ドストエフスキイはその「美しき人」を「白痴」として描く他はなかった。大江健三郎もドストエフスキイと同じ轍を踏むしかなかったのであろうか。身の程知らずの言い草ながら、私は全く別次元の「美しき人」を摸索している。
補足:聖なるものと神聖なもの
特攻隊の若者たちは大義に殉じた。それなのに特攻を命じた上官たちは戦後ものうのうと生き永らえた。そして、「海軍反省会」かなんか知らないが、先の大戦を振り返って「特攻は作戦としては愚劣だった」とか何とか御託を並べている。何という醜悪!確かに、どんなに勇ましくとも、特攻は愚劣な作戦だった。それは厳然たる事実だ。しかし、大義に殉じたことも愚劣だったのか。理性はそれを野蛮と判断する。そもそもこの世に大義など存在しないのであり、そんなバカげた空想を信じて散華するのは愚の骨頂だ。戦後はこうした理性的判断が支配的となり、特攻を賛美する者は野蛮な狂信者のレッテルを貼られる運命を辿った。かくして曲がりなりにも平和で豊かな経済大国が生まれたが、それで良かったのか。大義は野蛮人のみが必要とする迷信もしくは狂信の産物にすぎないのか。私は決してそうは思わない。ただし、純真な若者に特攻を余儀なくさせるような大義を私は信じない。人生の輝きに聖なるものは不可欠だ。しかし、聖なるものはほぼ必然的に神聖なものへと実定化される。この実定化は聖なるものの現実化でもあるが、同時に聖なるものと人との関係の歪曲化にもなる。端的に言えば、我々が現実に関係し得るのは神聖なものでしかないが、それは往々にして人に対して他律的に作用する。大義も然り。大義に聖なるものが未だ主もなく客もない純粋経験として受肉していれば問題ないが、神聖なものとして人々の上に君臨すると大義は歪む。大義は野蛮なものにもなるが、真の大義は野性の理想主義を要請する。
野性の理想主義(10)
誤解を恐れずに言えば、私自身、ファシズムに魅了されている。ただし、ムッソリーニやヒトラーなどの独裁者に心酔しているわけではない。とんでもないことだ。むしろ、私にとってファシズムは独裁者を根源的に否定する力に他ならない。とすれば、ファシズムとアナキズムの見分けがつかなくなるではないか。実際、ケヴィン・パスモアがホセ・オルテガ・イ・ガセットを援用して強調しているように、ファシズムは「得体の知れない顔つき」をしていて定義不可能だ。オルテガ曰く、「ファシズムにどういう面からアプローチしても、ファシズムはあるものであると同時にその反対物でもあるのだ。それはAであるとともにAではない…。」極右と極左はウロボロスの様相を呈する。ただし、ファシズムの語源であるイタリア語の「ファッショ」(束)、更にはラテン語の「ファスケス」(束稈)に基づけば、ファシズムの基本は人と人とを結束させる理想にあると解することは可能だろう。従って、ファシズムは国民同士を結束させる理想としてはナショナリズムの顔つきをし、国や民族を廃棄した次元で人々を結束させる理想としてはアナキズムの顔つきをすることになる。勿論、人と人との結束そのものを嫌悪する反ファシズムの理想もあり得る。徹底した個人主義に基づき、個々人の私的領域の充実のみを追求する理想だ。これは日本国憲法第十三条(すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。)に基づく理想だと言えるだろう。おそらく、日本国民の大半はこうした反ファシズムの理想を支持していると思われる。大事なのは私的領域であって、公的領域など眼中になし。オリンピックで金メダル目指して奮闘する日本選手に感動しても、それは所詮金メッキの結束にすぎない。オリンピックが終われば、束の間のナショナリズムはやがて剝がれ落ち、再び個人主義の日常が露わになる。それで幸福ならそれもよし。しかし、個々バラバラの幸福に本当の「生の充実」があるだろうか。個人として尊重されるのは結構だが、「世界全体が幸福にならなければ個人の幸福はあり得ない」という賢治の言葉も無視できない。さりとて世界全体の幸福とは何か。理性は個人の幸福を求め、それを踏み越える全体主義の野蛮は滅私奉公に流れる。公的領域とか世界全体の幸福は否応なくファシズムを要請する。それは極めて危険な理想ではあるが、先述したように様々な顔を持つ。私が魅了されているファシズムは、野蛮と理性の稜線上を行く野性の理想主義だ。この道を歩く。
野性の理想主義(9)
ウンベルト・エーコが述べているように、今やファシズムは普段着を装うている。かつてのようにアウシュヴィッツや黒シャツ隊といった醜悪な服装で登場すれば誰も近づきはしないが、「ウル・ファシズムは恰も罪のないような偽装の下に戻って来る」。その偽装を剥がすことが我々の使命だとエーコは言うが、それは至難の業だ。余談ながら、最近は先の大戦に関するドキュメンタリイやドラマを頻繁に観ているが、そこには一様に「正義の戦争などあり得ない。戦争はただ悲惨なだけで、御国のために死ぬなんて馬鹿なことだ。生命より尊いものなど皆無であり、ましてや身捨つるほどの祖国なんてない。平和が一番。どんなことがあろうと、戦争は二度としてはならない!」という叫びが通奏低音として響いている。それは既に大方の常識と化しているようだ。しかし、その常識の裂け目から次のように囁かれたらどうだろう。
「確かに戦争は愚劣だ。二度としてはならない。しかし、その平和主義が、例えば級友が虐められているのに見て見ぬ振りをする卑劣な態度を生み出しているのではないか。自分に禍が降りかからない限り、沈黙し続ける。いや、自分が虐めの対象になっても、泣き寝入りする。決して戦わない。下手に戦えば、虐めはますます酷くなる。堪忍は無事長久の基。自分が戦わなければ、戦いの相手にさえならなければ、戦いは始まらない。本当にそうか。それが平和なのか。たといそうだとしても、そんな平和に何の意味がある。平和に、平穏無事に生き続けることだけが人生ではない。むしろ、何かのために自らの生命を懸けることにこそ生の輝きがある。君は虐められている級友のために戦うべきだ。戦うことは暴力に身を委ねることではない。非暴力と無抵抗は質的に全く異なる。無抵抗の平和は卑劣だが、抵抗としての戦いは崇高なものだ。平和主義(何が何でも平和に固執する)は畢竟奴隷根性の産物にすぎない。」
この囁きにはファシズムへの誘惑がある。人は何かのために生きたいと願っている。誰かの役に立つ人になることを望んでいる。こうした願望にファシズムは巧みに忍び込む。そして、多くの人をいつしか魅了する。このファシズムの魅了がパラダイスとユートピアの分岐点となる。