補足:静かな生活 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

補足:静かな生活

特に明確な理由もなく、かなり以前に録画しておいた伊丹十三監督の映画『静かな生活』を観た。原作は言うまでもなく大江健三郎。ドラマの主人公であるイーヨーの周囲では様々な騒動が起きるが、イーヨーの生活そのものは常に静かだ。その静かさは美しくもあるが、何だか異様な感じがする。何でもない人が何でもない日常を生きる。その美しさがドラマのテーマのようにも思えるが、「普通の人」の日常生活に通常美しさはない。そして、満員電車の中で見知らぬ女学生に「落ちこぼれ!」と怒鳴られるイーヨーは明らかに「普通の人」ではない。「普通の人」は何でもない日常を生きても美しくないが、「普通の人」ではないイーヨーが何でもない日常を生きると美しい。何故か。イーヨーは人間の理想とは全く無縁の次元に生きているからだ。私はそう考える。純粋に水平の次元だけに生きているから、と言ってもいい。尤も、イーヨーには彼なりの夢はあるだろう。おそらく、音楽に関する夢が。しかし、理想はない。理想と言うより、大義と言った方が理解しやすいかもしれない。イーヨーの生活には如何なる意味においても大義はない。もしかしたら、Sollenさえない。言わば「野の花・空の鳥」のような生活だ。だからこそ、その日常が美しく輝く。原作者の大江健三郎は、この世界に生きる「美しき人」のUrbildとしてイーヨーを創造したのではないか。ちなみに、ドストエフスキイは現代社会にイエス・キリストの如き「美しき人」を甦らせようと思ってムイシュキン公爵を創造したと言われている。しかし、周知のように、ドストエフスキイはその「美しき人」を「白痴」として描く他はなかった。大江健三郎もドストエフスキイと同じ轍を踏むしかなかったのであろうか。身の程知らずの言い草ながら、私は全く別次元の「美しき人」を摸索している。