新・ユートピア数歩手前からの便り -27ページ目

過剰のニヒリズム

「目の前」の問題と「その先」の問題。私は後者に究極性を見出している。「目の前」の問題が解決しても、「その先」の問題があるからだ。これは決して「目の前」の問題を無視することではなく、むしろその問題と究極的に格闘するためには「その先」の問題について徹底的に考える必要があるという意味に他ならない。その筈だった。しかし結果的に、今の私は「目の前」の問題から遠ざかっている。そう非難されても仕方がない。実際、「目の前」の問題と懸命に格闘している人、すなわち「善きサマリア人」を心から尊敬しているにもかかわらず、同時に私は疑念も懐いている。これは醜悪なる自己欺瞞なのか。何故、私は尊敬している「善きサマリア人」になれないのか。そもそも「目の前」の問題とは何か。様々な欠乏に苦悩する水平的問題だと私は理解している。例えば、お金の欠乏による貧困や自由の欠乏による抑圧だ。言うまでもなく、世界には未だ貧困や抑圧に苦しんでいる人たちが溢れている。従って、そうした欠乏のニヒリズムの克服こそが喫緊の課題であることは間違いない。しかし、人々が貧困や抑圧から解放される豊かで自由な世界が実現すれば、ニヒリズムは本当に克服されるのか。むしろ、豊かさや自由の中にこそ真のニヒリズムがあるのではないか。少なくとも私自身は欠乏のニヒリズムの克服の先にあるニヒリズム、すなわち過剰のニヒリズムに究極的な関心がある。だから、それを問題にしたい。ただし、先述したように、それが「目の前」の問題からの逃避であってはならない。では、「目の前」の問題(欠乏のニヒリズムの克服)は如何にして「その先」の問題(過剰のニヒリズムの克服)と関係するのか。

間奏曲:今後の思耕に向けてのノート

「おもろの世界では、天上にあるオボツ・カグラの神々が聞得大君という神女を媒体にして国王にセヂ(霊力)を付与し、支配権力を強化するという形が繰り返し強調されているが、天上の神、地上の神、その媒体者としての神女、そして太陽神崇拝という信仰を包み込んだ垂直構造のそういう形が、果たして沖縄のどの島々村々にも伝わる普遍的な神観念であり、世界観と言えるのであろうか。学生時代に、折口信夫先生から学んだ「まれびと」思想とも絡みながら、おもろを学ぶほどに私の想念は、そこの部分で立ち止まってしまう数年を繰り返してきたものである。

「まれびと」としてニライ・カナイから水平に来訪する神々と、オボツ・カグラから垂直に降臨する神々とが別なものとして振り分けて考えることができるようになってからもしばらくは、そのいずれを南島固有の神観念と考え、座標軸にすべきか、ということで迷いの連続であった。

そのうちに、私にも、水平神信仰と垂直神信仰の神観念に地域的偏差のあることが、南島の全体的展望の中で把握できるようになってきた。すなわち、垂直神信仰は首里王府を中心とする沖縄本島南部地域に密度の濃い信仰であり、沖縄北部や、奄美、宮古、八重山など、中央を離れる僻遠の地では、水平神信仰が分布し、未だに伝承されているという事実である。南島に対する民俗学や民族学の学問的開発が進むにつれて、沖縄の祭りの内容が明るみに出るようになってきたし、それらの報告によると、祭りの形式も、首里王府を中心とする沖縄南部地域とその他の地域とでは、いくつかの違いが指摘されている。」

「『古事記』で、底・中・上の語をかぶせられた海神たちがかかわったコスモスを垂直軸に立てないで、祖神たちが往来した水平軸を乗せたらどうなるだろう。「底」の語源が、「遥かなる海の果て」であったという解釈も成り立ちそうである。

古くは、神々の行動は水平軸に動いていたのに、それが天上と地上を結ぶ垂直軸を中心にするように変わっていったため、海の果ての遠い所をあらわした「スク」「そこ」の原意が、ものの高低をあらわす「底」という新しい意味を生み出し、それが言葉として広がり深まっていったのであろうと考えるからである。」

(外間守善『沖縄学への道』)

 

世界の腐敗は水平化に起因するものだと私は考えてきた。水平化とは、裏を返せば垂直の次元の喪失に他ならない。だから私は世界の垂直化を求めた。それが究極的な理想社会には不可欠な運動だと確信したからだ。しかし、問題はそんなに単純ではなかった。そもそも水平化=世俗化も我々の理想にとっては必要な運動なのだ。たとい世界の腐敗をもたらす結果になったとしても、一概に否定することはできない。加えて世界の垂直化という運動もファシズムという危険性を孕んでいる。おそらく垂直化と水平化は相即すべき運動なのだろう。問題はその相即のリアリティだが、そのヒントは「垂直神信仰と水平神信仰」もしくは「縦超と横超」の関係にあるように思われる。民俗学的にはやはり民衆の水平神信仰が根源的(古層)なのであって、垂直神信仰には文化的洗練(政治性)が感じられる。水平神信仰を宗教、垂直神信仰を神学、と理解してもいいかもしれない。鄙見によれば、「神の死の神学」は垂直神信仰のラディカル化だが、それが世界を根源的に変革する運動になるためには水平神との祝祭共働が要請される。それについて更に思耕していきたい。

補足:包括的理想

「生きるに値する世界」が理想社会だとしても、現「実」は未だ理想とは程遠い。殆どの人は「生きるに値しない世界」で生きることを余儀なくされている。理不尽なことが多すぎる。一体、「生きるに値する世界」はどこにあるのか。どこにもない。敢えて言えば、「生きるに値する世界」は「どこにもない場」としての空想(fantasy)であり、その空想が一般的にはユートピアと称される。しかし、私にとってユートピアは空想ではなく、あくまでも「虚」だ。その差異は何か。一応、空想は現「実」からの逃避であるの対し、「虚」は「実」のディコンストラクションだと言えるが、これだけでは何のことかわからないだろう。そもそも人は「生きるに値する世界」以前に自らの生存(ゾーエー)の安全を必要とする。従って、戦争などで生存の危機に瀕すると人は安住の地を求めて難民となる。余談ながら、日本にも難民申請をしている多くの外国人がいるが、その大半を入管が拒絶していることが問題になっている。これについては別の機会にじっくり考えたいが、ここでは安住の地と「生きるに値する世界」は質的に異なることに注目したい。確かに日本は戦乱が相次ぐ紛争地に比べれば天国のような場所だと言える。しかし、難民の人たちにとっては贅沢な言い草かもしれないが、今の日本は「生きるに値する世界」ではない。何故か。生存の安全が維持されていても、生活(ビオス)の充実が欠けているからだ。「いや、そんなことはない。自分は平和な日本でかなり充実した生活を送っている」と反論する人もいるだろう。その幸福を一概に否定するつもりはないが、それは個人の私的領域における充実にすぎない。実際、「生きるに値しない世界」に生きる人でも何かしらの個人の楽しみを見出すことはできる。娯楽による生活の充実だ。生存の安全が確保された安住の地で思う存分娯楽を満喫できる生活。これ以上の幸福はないと確信する人も少なくないだろうが、私は敢えてその先にある生活の充実を求めたい。単なる個人の私的領域を超える包括的理想を求めたい。

補足:垂直に生きる

世界には様々な問題が渦巻いている。カミュによれば、人生が生きるに値するか否かを判断することが哲学の根本問題であり、例えば「天動説か地動説か」などという世界の解釈は二次的な問題にすぎない。マルクスも「哲学者は世界を様々に解釈してきたが、重要なことは世界の変革だ」と述べている。これはどういうことか。私は「人生の意味は世界の解釈によって見出されるものではなく、世界の変革によって生み出されるものだ」と理解している。端的に、「生きるに値する世界をつくることが人生の意味になる」と言ってもいい。更に「生きるに値する世界」を理想社会と解するならば、人生の意味は理想社会の実現と密接に関係しているだろう。ただし、人生に意味を求めるのは「虚」であり、「生の意味を問う以前に生を愛さねばならない」というアリョーシャ・カラマーゾフの忠告こそ「実」だ。実際、「人生は生きるに値するか否か」と問うことなく生を愛せるならば、それに優る幸福はない。しかし、ここではそのような幸福とは無縁の現代人の問題、すなわち「生への愛」ではなく「生への懐疑」から始めるしかない人の「意味を問う病」に集中したい。そこには「こんな腐敗した世界に生きるのはウンザリだ!」という絶望がある。この絶望から人は如何にして生きるか。「垂直に生きる」ということが極めて重要だと私は考えている。そもそも世界の腐敗は人々の生活の水平化、言い換えれば世俗化によって聖なる次元が失われたことに起因する。従って、その失われた次元の回復が喫緊の課題になるが、それは単なる宗教的次元の復活でもなければ伝統的社会への回帰でもない。「垂直に生きる」とは、世俗化した社会を否定するのではなく、そこに聖なるものを受肉させることなのだ。そうした「受肉としての聖化」こそ包括的芸術の主題に他ならない。

補足:テロリズムと垂直性

世界は腐敗している。悪人が甘い汁を吸い続け、善人は過酷な生活を強いられる。こんな理不尽が許されていい道理がない。悪人は成敗しなければならぬ。そして、善人が幸福に暮らせる正当な世界を実現するのだ。根源的な世直し!では、どうすればいいのか。法律で悪人を裁けるのか。或る程度は可能だろう。しかし、悪人は巧みに法の網を潜り抜けて生き延びる。遺憾ながら合法的な道には限界がある。その時、神の声が聞こえてくる。「一人一殺・一殺多生」 かのボンヘッファーもキリスト教の牧師でありながら極悪人・ヒトラーの暗殺を企てた。合法的に排除できない悪人は宗教的にポアする他はない。ちなみに私は最近、藤原聖子氏の『宗教と過激思想:現代の信仰と社会に何が起きているか』という著作を拝読したが、悪人の根絶を要請する宗教的過激思想はあらゆる宗教に通底しているようだ。すなわち、「法で裁けないなら宗教で断罪する!」という要請だ。確かに、こうした過激思想に見られる宗教的要請は水平の次元を突き抜けている。しかし、そこに私が求めている垂直性はない。むしろ、垂直性は宗教を超越する。従って厳密に言えば、垂直の次元と宗教的次元は微妙に異なる。世界に渦巻く理不尽なことを糺す水平的運動。そして、それを包括する垂直的運動。包括的芸術はテロリズムをディコンストラクトするドラマであるべきだ。

包括的芸術(10)

包括的芸術は人工楽園の実現を目指す。人工楽園とは人間本性(human nature)の理想を核とするものであり、自然そのもの(Nature)を「実」とすれば「虚」に他ならない。ちなみに人工楽園と自然楽園は一般的には対を成すものと見做されるが、厳密には自然楽園も人工楽園の一つにすぎない。荒ぶる自然そのものが楽園である道理はなく、人間本性にとって快適な自然の在り方のみが楽園として認識されるからだ。つまり、ヘビやムカデやゴキブリのいない自然のみが楽園足り得る。当然、そんな都合のいい自然などあり得ず、自然楽園は畢竟人工的に制御された自然の楽園にならざるを得ない。ただし、自然楽園も人工楽園だという大前提を踏まえた上で、自然楽園と人工楽園の対について考えることはできる。すなわち、可能な限り自然に即して「ありのままの自分に生きる」理想とあくまでも人間本性もしくは理性に即して「あるべき自分を生きる」理想だ。便宜上、前者を核とする自然楽園をアルカディア、後者を核とする人工楽園をパラダイスと称したい。おそらく安藤昌益ならば、活真の直耕に基づく「自然の世」としてのアルカディアこそ理想社会なのであって、思耕に基づく「法の世」としてのパラダイスはその堕落態でしかないと言うだろう。こうした農本主義的世界観を一概に否定するつもりはないが、私は更にアルカディアとパラダイスの対立の先に行ってみたい。やや単純化して言えば、生活の場所(拠点)としての農村と都市、生活の実質(生き甲斐)としての「共生による脱成長」と「競争による成長」という対立の先だ。とは言え、農村で「競争による成長」を目指す人もいれば、都市で「共生による脱成長」を求める人もいるに違いない。実際、アルカディアとパラダイスという理想の対立はもはや場所の対立に還元できないと私は思っている。あるいは農都往還というシャレたライフスタイルもある。それは或る意味、アルカディアとパラダイスの折衷のようにも思われるが、私にとっては中途半端な妥協でしかない。尤も、潤沢な年金生活者が悠々自適の田舎暮らしを満喫できるような幸福に憧れる人も少なくないだろうが、私は敢えて更にその先を問題にしたい。それこそが包括的芸術の主題だからだ。鄙見によれば、現代社会の閉塞状況はパラダイスの限界を示している。それは絶望的な環境破壊や経済格差に現れている「競争による成長」の限界であり、もはや希望は「共生による脱成長」を核とするアルカディアにしかないように見える。しかし、本当にそうか。たといアルカディアを求める水平的運動が現「実」であったとしても、パラダイスの可能性は未だ汲み尽くされていない。少なくとも、その魔力を超克するためには垂直的運動が不可欠だ。では、垂直的運動とは何か。それはアルカディアとパラダイスの対立・葛藤を通じて単数の人(我)が複数の人間(我々)になっていくドラマに他ならない。もはや誤解はないと思うが、複数の人間とは群れる人ではない。全く違う。その差異も含めて、包括的芸術は人間として本当に生きる「理想のドラマ」を展開する。もとより容易なことではない。一人では書けないし、何よりもアルカディアとパラダイスという二つの理想が熾烈に鬩ぎ合う場所に現「実」に立つことが絶対条件となる。唐突ながら、私はそのような場所を沖縄に見出そうとしている。残念ながら、今は体調を崩して自由に動けないが、いつか必ずその場所に立ちたいと思う。そこから包括的芸術は始まる。

包括的芸術(9)

先日、テレビを観ていたら経済思想家の斎藤幸平氏が或る学者の研究に基づいて「3.5パーセントの人が立ち上がれば世界を変えることができる」と主張されていた。これは「3.5パーセントの少数派が96.5パーセントの多数派に勝利できる」という背理の主張ではないだろう。3.5パーセントの人が「今の世界の流れは間違っている」と行動を起こせば、それは周囲の他者に波及し、やがて多数派になっていく――結局、現「実」に世界を変えるのは常に多数派なのだ。3.5パーセントの弱者の決起が多数派の強者になる道を切り拓き、それが世界を変える、と言ってもいい。そこには何ら背理はなく、弱者が連帯して強者になることで勝敗を決するという「実」がある。私はこうした斎藤氏の「実」を批判するつもりなど全くない。むしろ、その「脱成長コミュニズム」に基づく共生の運動が多数派になることを心から願い、私自身もその末席に連なりたいと思っている。ただ、「実」の運動が本当に機能するためには「虚」のリアリティが不可欠ではないか。斎藤氏は「資本主義のその先へ」と言われる。しかし、現「実」社会の政治経済は未だ資本主義に立脚し、大多数の人も依然として資本主義がもたらしてくれる「生活の豊かさ」を求めている。この強大な流れに抗する3.5パーセントの人になるためにはどうすればいいのか。「生活の豊かさ」という資本主義の光の反面、すなわち環境破壊や経済格差という影に対する根源的批判は当然だが、そうした「実」の次元における水平的運動だけでは世界は変わらない。何故か。一時的には共生原理の「実」が競争原理の「実」を抑制できても、水平化された世界に生き続けることに人は耐えられないからだ。この点、未だ上手く表現できないが、敢えて誤解を恐れずに言えば、「平和な世界に生き続けることに人は耐えられない」という現「実」に通底している。ただし、これは単に「人は競争や成長をやめられない」ということではない。確かに人は、他者との競争もさることながら、常に自分自身と格闘し、「あるべき自己」に成長することに生きる意味を見出している。「競争による成長」が生き甲斐を生む、と言ってもいいだろう。しかし人の生き甲斐はそれだけではない。当然、「共生による脱成長」の生き甲斐もあるに違いない。殊に、「競争による成長」の追求が現代社会の閉塞状況をもたらしていることからすれば、斎藤氏の言われるように、我々は「共生による脱成長」にこそ生き甲斐を見出すべきだと考えられる。実際、この世界から理不尽なことが一掃されるドラマを人々は待望しているのであり、それは正に全てを水平化する「脱成長コミュニズム」のドラマであろう。そこには悪しき平等主義への危険性もあるが、多様性が尊重される共生への期待の方が大きい。とは言え、「共生による脱成長」の水平的運動のドラマには何かが欠けている。私はそう思わざるを得ない。言うまでもなく、欠けている何かとは垂直的運動のドラマだ。私は先に「垂直的運動は水平的運動を包括する」と述べたが、その包括的芸術は「競争による成長」と「共生による脱成長」のcoincidentia oppositorumを要請する。明らかに背理だが、私はそこに「虚」のリアリティを求めたい。どうも振り出しに戻っただけのようだが、背理とは質的に異なる「虚」のリアリティは3.5パーセントの少数派の可能性を必ずや切り拓くものと私は考えている。

包括的芸術(8)

私の求めているドラマは極めて単純なものだ。相手はピストルを持っている。私は素手だ。たとい私が格闘技の達人でも、飛び道具には敵わない。私は相手の言いなりになるしかない。相手が主人で、私は奴隷だ。この関係が「実」だとすれば、そこで私は何を為すべきか。奴隷としてずっと生き続けることに甘んじたくなければ、私は万難を排して相手のピストルを奪いに行くしかない。ピストルさえ獲得すれば、今度は私が主人になれる。しかし、相手も負けじと別のピストルを手に入れたなら、主人の地位をめぐる血みどろの争いが延々と続くことになる。ピストルよりもマシンガン、マシンガンよりもミサイル、などと軍拡競争をエスカレートさせても、双方が核兵器に辿り着けば、もはや力の差のつけようがなくなる。勿論、核兵器が封印されても、現「実」には軍事力の差をつける方策はいくらでもあるし、経済などの他の分野で力の差をつけることもできる。つまり、主人と奴隷の関係は「実」質的にはなくならない。大国と小国。金持と貧乏人。資本家と労働者。たとい両者の関係に主人と奴隷を見なくても、力の強い者と弱い者の関係は「実」として君臨し続ける。それは力の弱い者も歓迎しているのではないか。そもそも主人と奴隷の関係が耐え難いのは悪しき主人の場合に限られ、善き主人であれば奴隷も歓迎するに違いない。有能な力ある善き主人に従ってさえいれば、奴隷も結構幸福な人生を送ることができるからだ。むしろ、何かと気苦労の多い主人よりも気楽な奴隷の方が幸福なのかもしれない。しかし、こうした力の「実」に対抗し得る「虚」のドラマを敢えて構想するならば、それは如何なるものか。ピストルを持っている相手に素手で勝つドラマか。それがピストルの力に勝る超能力のドラマであれば依然として力のドラマでしかないだろう。とすれば、私のドラマの可能性は無力の「虚」に求めるしかない。果たして、無力は力に勝てるのか。いや、この問いがすでに間違っている。勝負ではない。勝負すれば、力の弱い者が強い者に勝てる道理がない。弱者が強者に勝つのは背理だ。大番狂わせの背理のドラマも魅力的だが、それは「虚」のドラマとは質的に異なる。一体。何が違うのか。

包括的芸術(7)

私は人間として本当に生きたいと述べた。これがすでに「虚」ではないか。二つの「虚」がある。単なるイキモノを超えて殊更「人間」を求める「虚」。そして生きることに殊更「本当」を求める「虚」。イキモノとして生きる。死ぬまで生きる。それだけが「実」だ。そうだとすれば、真「実」を求めることもすでに「虚」ではないか。生きたい。死にたくない。戦争や災害で自らのイノチが危殆に瀕する時、他者を押しのけてでも生き延びようとする。場合によっては他者を殺してでも生き残ろうとする。弱肉強食、それが「実」だ。生きることに真も偽もない。卑怯者として生き延びる。裏切者として生き残る。それを恥辱とするのは「虚」だ。しかし、ヒトは人となり、更に人間になろうとする。単なるイキモノを超えて「人間として本当に」生きようとする。私は敢えてその「虚」を極めたいと思う。自らのイノチを犠牲にしてでも他者のイノチを生かそうとする。自他共生の理想。世界全体が幸福にならなければ個人の幸福はないと愚直に信ずる。「実」からすればキレイゴトでしかない。勿論、人間として生きようとしても「実」を拒絶することはできない。しかし、「実」を超える「虚」のリアリティにこそ人間の本質があり、それを単なるキレイゴトにはしないドラマこそ包括的芸術に他ならない。それは個人では書けない。どうしても複数性の人間の連帯が要請される。我である我々・我々である我。だから私はこの拙い便りをよろめきながらも書き続けている。

包括的芸術(6)

おそらく私の思耕は殆ど理解不能だろう。こんなことを言えば天才気取りの唐変木だと思われても仕方ないが、天才気取りどころか、人並み以下のボンクラの私は自分の思耕が自分でもよく理解できない。私はどうして「虚」のリアリティに拘るのか。私は人間として本当に生きたいと思っている。それなのに何故、「虚」のリアリティを求めるのか。「本当の生」と「虚」のリアリティは如何なる関係にあるのか。真「実」を求めて懸命に生きている人たちがいる。暗い世の中を少しでも明るくしたい。苦しんでいる人を少しでも楽にしたい。皮肉ではなく、心から尊敬している。しかし、具体的に何をすればいいのか。世の中を暗くしている人、人を苦しめている者、すなわち悪人どもを排除すればいいのか。この世界から悪人を排除すれば善人だけのパラダイスが実現する。明快な論理だが、悪人とは誰か。「奇妙な果実」を見上げている悪人たちも、それぞれの家庭に戻れば善きパパ、善きママではないか。私はよくわからなくなってきた。真「実」は悪を糾弾し、善の支配を目指す。これに対して「虚」は善悪の彼岸で善悪の区別がなくなることを求める。極めて曖昧で理解不能。果たして、この思耕はどこに辿り着くのか。