新・ユートピア数歩手前からの便り -28ページ目

包括的芸術(5)

真「実」の追求は重要だ。如何なる困難に直面しても断念するわけにはいかない。しかし、ウクライナで、ガザで、真「実」の追求は果たして有効に機能しているか。対立する双方の「実」が鬩ぎ合って膠着状態に陥っているだけではないか。確かに、国連を中心とした「実」の懸命の努力はある。難民を救おうとする人道支援の「実」もある。しかし、残念ながら、政治は総じて無力だと言わざるを得ない。それが現「実」だ。さりとて、こうした「実」のアポリアにおいて芸術に何ができるのか。政治に輪を掛けて無力ではないか。然り!「実」の政治と「虚」の芸術。前者があくまでも力勝負を挑むとすれば、後者は端から力を超越している。敢えて言えば、芸術は無力で現「実」に立ち向かう。ただし、この無力は一般的にはガンディー流の非暴力として理解されるだろう。つまり、戦車の力に対する言葉の力だ。尤も、言葉の力はあらゆる芸術表現の象徴であって、そこには映像や絵画・彫刻などの無言(沈黙)の力も含まれる。とすれば、芸術の実践は「歌で世界を変革する」というボブ・ディランの情熱以上のものではあり得ない。ボブ・ディランに限らず、様々なアーティストがそれぞれの芸術表現で世界を変革しようとしてきた。それは一応、政治等の水平革命に対する垂直革命を目指すものだと理解することはできる。しかし、決定的な何かが欠けている。そもそも芸術の実践とは何か。芸術家が国会議員や東京都知事になって社会を変革しようとすることか。冗談じゃない。それは単に芸術家が政治の世界にしゃしゃり出たにすぎず、もはや芸術とは無縁だろう。厳密に言えば、「虚」の芸術の「実」践は根源的な背理を孕んでいる。せいぜいボブ・ディラン程度の実践が限界なのかもしれない。しかし、私はその限界を超える芸術を求めたい。真「実」の追求を包括する「虚」のリアリティによる「一切価値の価値転倒」(Umwertung aller Werte)だ。「どこにもない場」としてのユートピアは善悪の彼岸にある

包括的芸術(4)

「真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができない類の誤謬である。生にとっての価値が最後に決定を下す」とはニーチェの言葉だが、芸術こそ、そして芸術のみが「誤謬としての真理」を問題にできる。それにしても「誤謬としての真理」とは何か。私は「虚」のリアリティだと理解している。そこには真「実」とは質的に全く異なるリアリティがある。さりとて真「実」は無意味だというつもりはない。むしろ、通常は「実」こそが一般的なリアリティであり、我々はどこまでも真「実」を追求すべきだ。この世界に蔓延る理不尽なことを徹底的に糾弾し、主に法律に基づいて悪を排除していく。そうした「実」のリアリティによって世界は確実に「善人の場所」になりつつある。ならば真「実」の追求だけで十分ではないか。どうして「誤謬としての真理」などという訳の分からぬものが必要になるのか。「それなくしては特定種の生物が生きることができない類」とニーチェは言っているが、「特定種の生物」とは何か。一種の貴族主義のようにも聞こえるが、決して単なるエリート主義ではない。確かに、誰もが「誤謬としての真理」を必要とするわけではない。大衆は芸術よりも娯楽を好み、食うに困ることさえなければ幸福に生きられる。言い換えれば、食うに困らず、適度に刺激的な娯楽さえあれば、世の中に少々理不尽なことがあっても大衆は日々の生活に安住できる。つまり、そこには「実」の世界を超越しなければならぬ契機がない。しかし、「特定種の生物」はそうした大衆の幸福な生活に安住できない。「家庭の幸福は諸悪の本」とばかりに「誤謬としての真理」を求める次元へと超越する。何故か。正にそれを問題にするのが芸術だと私は考えている。やや挑発的に言えば、家庭の幸福に安住する大衆の「実」、もしくはキング牧師の言う「善人の沈黙」に対するプロテストだ。勿論、「沈黙しない善人」は勇敢に真「実」を追求する。しかし、「実」のリアリティは究極的には「虚」のリアリティを要請する。両者は質的に異なるものの、そのcoincidentia oppositorumに包括的芸術の真骨頂がある。「虚」のリアリティだけの芸術は真の芸術に非ず。むしろ、現実逃避の娯楽と言うべきだ。「誤謬としての真理」を問題にする芸術は大衆を戦慄させる。尤も、現「実」には戦慄どころか、黙殺されてばかりいるけれども。いつか必ず。

包括的芸術(3)

「水平的運動はパラダイスを目指し、垂直的運動はユートピアを求める。そして、パラダイスは社会革命によって、ユートピアは精神革命によって、それぞれ実現する。」取り敢えず、これを基本テーゼとしたい。問題は二つの運動の関係だが、私は排他的ではないと考えている。しかし一般的には、水平的運動が「実」、垂直的運動は「虚」、と見做されている。先ず、この一般的見解について考えてみたい。ちなみに私は先日、ビリー・ホリデイが歌った『奇妙な果実』(Strange Fruit:作詞作曲はエイベル・ミーアポル)に関するドキュメンタリイを観た。周知のように、これはアメリカ南部でかつて頻発した黒人リンチ虐殺に対するプロテストソングだ。「プロテストソング」などという無粋な言葉では身も蓋もないが、この歌を耳にして心を動かされない人は皆無だろう。それにしても木に吊るされた「奇妙な果実」を見上げる白人たちの底抜けの無邪気さはどうだ。一片の罪悪感もない。恰も幼い子供たちが面白半分にカエルやバッタなどの小動物を殺して遊んでいるかのようだ。完全なる無垢。黒焦げになった「奇妙な果実」の写真を絵葉書にして、故郷の母に「昨夜、バーベキューしたよ」と近況報告している青年もいる。こうした醜悪極まりない無垢に対して我々はどう立ち向かうことができるのか。勿論、黒人はもとより、あらゆる人種・民族の人権を求める法的な闘争はある。実際、キング牧師を中心とした公民権運動は「正義の果実」を結んだと言える。少なくとも法的には「奇妙な果実」が生る木は全て伐採された。しかし、「黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになる」というキング牧師の夢は本当に実現したのか。黒人がアメリカ大統領になる時代を経ても、依然としてBlack Lives Matterのような運動が生じている。鄙見によれば、公民権運動を水平的運動としてのみ理解している限り、キング牧師の夢見た「自由と正義のオアシス」はついに夢の閾を越えることはない。そこにはどうしても垂直性が必要になる。では、垂直性とは何か。端的に言えば、それはビリー・ホリデイの“Strange Fruit”(1939)に胚胎し、更にボブ・ディランの“The Death of Emmett Till”(1962)やサム・クックの“A Change Is Gonna Come”(1964)に継承されているものだ。とは言え、垂直性だけでも夢の閾を越えて理想を実現することはできない。ボブ・ディランは「歌の力で世界を変革する」と言ったそうだが、歌が多くの人の心を動かすことは事実だとしても、歌の力そのものは「虚」に他ならない。公民権運動のような社会運動の「実」がなければ、歌(プロテストソング)の力の「虚」も生きない。さりとて「虚」がなければ「実」も本当に機能しない。垂直的運動は水平的運動を包括する。「どこにもない場」としてのユートピアを求める芸術は「自由と正義の場所」としてのパラダイスを実現する社会運動を包括する。両者の関係は不可分・不可同・不可逆だと私は考えている。

包括的芸術(2)

日々の生活は苦しい。パワハラ、セクハラ、モラハラなど、多くの人は生きづらさを抱えて生きている。この生きづらさは通常水平的問題として処理される。軽度の場合は勤務後や休日に娯楽に没頭することで憂さ晴らしできるが、重度になれば健全な生活を求めて法的に闘う運動を余儀なくされるだろう。しかし、漱石は有名な『草枕』の冒頭で次のように述べている。「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画が出来る。」ここで言われる詩や画とは何か。住みにくい人の世からの束の間の現実逃避であるなら、それらもまた憂さ晴らしの娯楽以上のものではない。実際、刹那的にスカッとした気分にさせてくれる娯楽としての小説や映画も少なくない。私はそうした娯楽を一概に否定するつもりはないが、生きづらい人の世には娯楽以上の何かを求めたい。それは芸術だ。芸術は単なる憂さ晴らしなどではなく、生きづらい人の世とは全く別の世界の実現を目指す。とすれば、芸術は生きづらくない生活を求めて法的に闘う運動と何が違うのか。「法的に闘う運動が水平的であるのに対し、芸術はあくまでも垂直的運動だ」と主張するなら、水平的運動と垂直的運動との差異は何か。これについて暫く思耕したい。

包括的芸術

以前にも言及した米本浩二氏の『評伝 石牟礼道子:渚に立つひと』の中に、水俣病闘争の或るメンバーの次のような言葉が引用されている。

「石牟礼さんがいなければ水俣病事件は“損害賠償請求事件”の域を出なかったでしょうね。幻想的詩人でシャーマンの石牟礼さんだからこそ、反近代にとどまらず、人類史的な長い射程で水俣をとらえることができた。事件としては悲惨ですが、思想的には豊かなものがある。」

水俣病事件を単なる損害賠償請求事件にとどめなかったものは何か。『苦海浄土』という芸術に他ならない。チッソがタレ流した有毒な排水は美しい海を奪い、住民の健康を奪い、人間らしい生活を奪った。これは水平的問題であり、現「実」には法律によって処理される。すなわち、加害者の罪を特定し、その罪の被害者にそれ相応の損害賠償をすることだ。しかし、損害賠償とは何か。極端な場合には加害者の死を求める被害者もいるだろうが、一般的には賠償金の請求となる。それが妥当かどうかを決めるのは法律であり、それに基いて裁判で闘われる。当然、そこで下される判決に納得できる人もいれば到底納得できない人もいる。ここに水平的問題の限界がある。と言うのも、水平的もしくは法的には「奪われたものを奪い返す」というのが原則だが、たとい加害者を死刑に処しても、またどんなに多額の賠償金を手にしても、「最初に殺された善人」は戻ってこないからだ。水平的に考える限り、問題は復讐の閾を越えることはなく、しかも復讐は決して真に成就することはない。こうした限界を打ち破るものは何か。例えば、水俣病患者の次のような言葉がある。

「そぎゃん言うもんじゃなか。人を憎めばそれだけ苦しくなるじゃろう。許す。チッソも許す。差別した人も許す。」

私はここに垂直性を見出す。果たして、この垂直性は如何にして現「実」を切り裂いていけるのか。

補足:「虚」のリアリティ

「より高い次元は包括的である。(The higher dimension is the more inclusive.)それ故に個々の次元の間に排他関係は存在せず、逆に包括関係が存在する。言い換えれば、一つの真理は決して他の真理に矛盾しない。それどころか、より高い次元においてはじめて、より低い次元の真理の本来性が輝く」――これはヴィクトール・フランクルの言葉だが、私は自らの問題意識に即して次のように理解する。垂直の次元は水平の次元を包括する。肉体の糧(パンの問題)と魂の糧(パン以上の問題)との関係は断じて排他的ではない。むしろ包括的であり、食うための日常生活の問題も「本当に生きる」という魂の問題において初めてその本来性が輝く。しかしながら、現実には生活の問題と魂の問題は分離され、前者が「実」で後者が「虚」だと見做されることが多い。すなわち、魂の糧は一般的に不要不急の問題でしかない。確かに、災害やコロナ禍などの限界状況においては、「今を生き延びる」という生活の問題以外は全て不要不急のように見える。しかし、本当にそうだろうか。私は先日、鬱病に苦しみ、何とかその絶望的状況から這い上がろうとしている或る有名なミュージシャンのドキュメンタリイを観た。彼はどうも生来物事を深く考え込むタイプのようで、音楽に対しても人一倍情熱的に取り組んできたと思われる。音楽が彼のライフワークだと言ってもいい。そのことの意味を彼なりに真摯に考え、私の文脈で言えば、「食うための音楽」(売れる音楽)と「自己を真に生かす音楽」(魂の音楽)の相剋に苦しんできたに違いない。幸い、彼の創る楽曲は人気を博し、彼の率いるバンドは商業的にも成功を収めた。つまり、彼は「売れっ子」になり、「食うための音楽」と「自己を真に生かす音楽」が一致する幸福を獲得した。しかし、コロナ禍において彼の音楽活動が不要不急と見做されたことが幸福なミュージシャンを不幸のどん底に突き落とした。結果、鬱病が発症した。彼は考え過ぎなのだろうか。そんな筈はない。考えるべきことを考えたまでのことだ。鄙見によれば、日常生活において「実」とされることだけにリアリティがあるのではない。そして、「実」のリアリティだけが支配的になれば世界は歪む。例えば、今や南の島が軍事基地化されようとしているが、これは緊迫する世界情勢の「実」がもたらした当然の結果だと言える。実際、国の安全保障や島民生活の経済的発展の「実」からすれば、島の軍事基地化は歓迎すべき現実であろう。逆に、それに反対することはキレイゴトの「虚」にすぎない。しかし、このように「実」と「虚」を分離するのは根源的に間違っていると私は思う。敢えて両者の排他的関係を前提にするならば、我々は今こそ「虚」のリアリティについて真剣に思耕すべきではないか。鬱病に陥ったかの有名ミュージシャンのように。魂の糧を問題にする芸術は水平的には不要不急に見えても垂直的にはそうではない。戦争、貧困、環境破壊といった水平的問題も芸術が垂直的に包括する。とは言え、「世界の至る所で進行する軍事基地化も芸術の問題だ」などと主張する者は狂人扱いされるに違いない。ならば、世界を根源的に変革する可能性は狂人にしか見出せない――私は本気でそう考えている。

補足:最初に殺される善人

善人は争わない。如何なる権利も主張しない。街でチンピラに絡まれて「金を出せ!」と脅されると素直に有り金全部渡してしまう。同様に、ニセの乞食から「お恵みを!」と泣きつかれても素直に有り金全部渡してしまう。後悔はない。怒りもない。そもそも脅されたとか騙されたという自覚すらない。欲はなく決して瞋らずいつも静かに笑っている。およそ相手の要求を拒むということを知らない。こんな善人を多くの人はデクノボウと呼ぶ。ホメラレモセズクニモサレズ。けれど、本当にそうか。サフイフモノニワタシハナリタイ、と本当に思えるのか。むしろ、決して争わない善人は少なからぬ人を苛立たせるのではないか。チンピラに脅された時、ニセ乞食にせびられた時、どうして反抗しないのか。たとい反抗して、ひどく殴られて、結局は有り金全部奪われることになったとしても、断じて悪人の理不尽な要求に服従してはならない。不服従と無抵抗は全く違う。不服従は立派な抵抗なのだ。チンピラに殴られても殴り返さない。非暴力の徹底。その結果、不服従の善人が死に至るという最悪の場合でも、その死は決して無駄ではない。善人の不服従の死が何度も何度も繰り返されれば、悪人もやがて改心するのではないか。しかし、それならば善人の無抵抗が何度も何度も繰り返されても同じではないか。善人の無抵抗は徒に悪人を増長させるだけなのか、それとも悪人をウンザリさせて改心を促すのか。率直に言って、私にはよくわからない。ただ、善人の不服従の死が結果的に悪人の改心をもたらすとしても、最初に殺される善人が必ずいる事実を無視することはできない。また、無抵抗を貫く場合でも、最初に殺される善人の犠牲を回避できないだろう。従って、不服従にせよ無抵抗にせよ、自分自身が最初に殺される善人になる覚悟がなければ、善人になどなろうとしない方がいい。ましてや自分の愛する人たち(家族や友人・恋人)が最初に殺される善人になろうとしている時、黙って見過ごせる人など皆無に等しい。とすれば、我々は無抵抗でも不服従でもなく、戦う善人にこそなるべきではないか。すなわち、悪人を根絶するために、この世のあらゆる悪と徹底的に戦う善人だ。しかし、戦う善人とは何か。それは本当に善人と言えるのか。悪との戦いには、自ら悪となる覚悟が要請されるのではないか。ここに善人の「実」の限界がある。

補足:現「実」的な理想社会としてのパラダイス

理不尽なことを手っ取り早く無くすためには、善人が強大な権力を獲得して世界を支配すればいい。家康が善人であったかどうかは別にして、徳川幕府に強大な権力を集中できたからこそ二百六十年に及ぶ天下泰平が曲がりなりにも成ったことは事実だ。勿論、幕藩体制に理不尽なことがなかったわけではない。むしろ、徳川幕府に限らず、およそ中央集権体制には理不尽ことが絶えない。何故か。中央の権力者が善人でなくなるか、上意下達する官僚が善人でなくなるか、そのどちらか、あるいはその両方に原因がある。従って、君側の奸を徹底的に排除して善人が中央を完璧に支配できさえすれば、中央集権体制以上の理想社会はないと言える。実際、悪の横行を許さぬ法律を厳密につくり、その違反者を厳罰に処す体制が確立すれば、世界から悪人は根絶されるだろう。論理的にはそうなる。最近のテレビドラマを観ていても、政界や大企業の利権と癒着した警察や法曹が冤罪などを生み出し、その腐敗を糾弾する正義の人の活躍を描くものが目立つ。こうしたドラマに影響されて、正義の人が立法・行政・司法の三権のトップに立てば、世界は確実に理想に近づいていくに違いない。そこにパラダイスが実現する。しかし、パラダイスは究極的な理想社会だろうか。究極的であろうとなかろうと、現実に殆どの人が求めているのはパラダイスだ。善人の絶対的支配の下で悪に脅かされることなく日々平穏無事に暮らすこと、これ以上の幸福はない。私とてパラダイスを一概に否定するつもりはなく、実力ある善人のリーダーの登場を待望している面もある。と同時に、やはり拭い難い違和感もある。それは「善人の支配」に対する違和感だ。あるいは「善人が強大な権力を持つ」ことに対する違和感。確かに論理的には、善人が社会を支配すれば、そこから悪人は排除されるに違いない。しかし、強大な権力を以て社会を支配しようとする人はもはや善人ではいられないのではないか。善人は支配者になった瞬間から変質し始める。たとい善人であっても、権力によって実現した理想社会はほぼ必然的にディストピアと化す。論理的に完璧な水晶宮としてのパラダイスは、その完璧さ故に破綻する運命にある。これは杞憂であろうか。

生きるための「虚」(10)

この世には理不尽なことがある。正直者が損をして、ズルい奴が得をする。正直者に力がなくて、ズルい奴に力があるからだ。強い者が弱い者を虐げる。しかし、人はそれを理不尽だと言うけれど、弱肉強食は自然の「実」だ。強い力を有する者、知的にも経済的にも優れている者がこの世界を支配するのは当然ではないか。少なくとも、この「当然」が世界を発展させてきたことは厳然たる事実だ。そして、弱い者もその事実の恩恵に浴している。格差は理の当然。むしろ、格差がないことの方が不自然だ。しかし、その不自然を要請する力がある。物理的な力ではない。かつて『ヒロシマ・ノート』にも登場する老哲学者は、自らが取り組む核廃絶運動に関して「所詮、大国の強大な権力に基づく核兵器の必要には勝てないのではないか」と問われた時、暫く考えて次のように語ったと言われる。「精神的原子の連鎖反応が物理的原子の連鎖を超えねばならぬ。」言うまでもなく、「物理的原子の連鎖」とは核兵器そのものを意味するが、私はそれを必要とする権力も含めたい。核兵器を必要とする権力と核廃絶を求める力。老哲学者は後者が前者を超えねばならぬと主張するが、それは如何にして可能になるのか。論理的に考えれば、大国の権力に勝る民衆の力が要請されるが、物理的力としては無理がある。ペンが物理的に剣に勝つことなど不可能であり、戦車に対する言葉も同様だ。それにもかかわらず、「ペンは剣よりも強し」という信念が現実となり、言葉が戦車に勝つとすれば、そこには物理的力とは質的に全く異なる力が働くことになる。老哲学者は「精神的原子の連鎖」と表現しているが、私は端的に「魂の力」と言いたい。ただし、「魂の力」は現実には「虚」でしかない。「実」はあくまでも物理的な力だ。私は先に「正直者が損をして、ズルい奴が得をする。正直者に力がなくて、ズルい奴に力があるからだ」と述べたが、「正直者が得をして、ズルい奴が損をする」社会を理想とするならば、その理想社会の実現は正直者の権力獲得を前提とする。具体的には、正直者がズルい奴を厳しく取り締まる法律をつくり、それを徹底的に実行する警察を始めとする体制を確立することだ。それは正直者が支配する世界であり、それを実現するのはあくまでも物理的力に他ならない。つまり、正直者が強い者となって支配する理想社会だ。果たして、これが究極的な理想社会だろうか。確かに、正直者の善人が支配すれば、弱い者は虐げられず、逆に弱い者を虐げる者が激しく糾弾されることになる。悪人は一掃され、善人だけの社会になる。しかし、一体誰が善人と悪人を識別するのか。強い力を持った権力者だとすれば、たといそれが正直者の善人であったとしても、世界は歪む。鄙見によれば、強い権力によって実現される理想社会は究極的なものではない。それはパラダイスではあってもユートピアではない。とは言え、パラダイスは現実的な理想社会ではある。無下に否定はできない。これに対して、ユートピアは「魂の力」によってのみ実現する。パラダイスを可能にする現「実」的な権力に比べれば、ユートピアを実現する「魂の力」は「虚」でしかない。無力と言ってもいい。正直者が権力者になることなく、無力のまま実現する理想社会、それがユートピアだ。「実」のパラダイスか、それとも「虚」のユートピアか。究極的な決断が求められる。

生きるための「虚」(9)

私は最近、米本浩二氏の『評伝 石牟礼道子』を拝読した。副題は『渚に立つひと』。「石牟礼道子は渚に立つひとである。前近代と近代、この世とあの世、自然と反自然、といった具合に、あらゆる相反するもののはざまに佇んでいる」と米本氏は序章で述べている。僭越ながら、私はそこに「実」と「虚」のはざまを付け加えたい。人は「実」と「虚」のはざまを生きる。そのはざまを生きることで生類のヒトは人を経て人間になっていく。「人類というより生類という言葉で表現したいのです。海から上がってきた生類が最初の姿をまだ保っている海。それが渚です。海の者たちが上がるとき、“ここが陸地だ”と思うでしょう。陸地から海へ行くときは“ここから先が海だ”と思ったでしょう。海と陸を行き来する。文明と非文明、生と死までも行き来する。人間が最初に境界というものを意識した、その原点が渚です」とは石牟礼道子自身の言葉だが、渚は正に人生の原点だ。では、「渚に立つひと」は如何に生きるべきか。「実」と「虚」のはざまでどう生きるか。石牟礼道子は『苦海浄土』を書いた。余談ながら、『苦海浄土』は第一回大宅壮一ノンフィクション賞に選ばれたが、石牟礼道子は受賞を辞退している。「水俣病という悲劇を問題にした作品で晴れがましい賞を受けるのは忍びない」というのが辞退の理由のようだが、その奥底には「『苦海浄土』はノンフィクションに非ず!」という強い思いがあったのではないか。渡辺京二氏が喝破されているように、『苦海浄土』は石牟礼道子の私小説に他ならない。それは「実」と「虚」のはざま、ノンフィクションとフィクションのはざまから生み出された作品だ。私はその「はざま」を凝視したい。私が求めているユートピアもその「はざま」から生まれてくる。ちなみに、石牟礼道子は次のように述べている。「私のゆきたいところはどこか。この世ではなく、あの世でもなく、ましてや前世でもなく、もうひとつの、この世である。」蓋し至言、「どこにもない場」としてのユートピアもまた「もうひとつのこの世」だと言えるだろう。