補足:人間の完成
スイッチを入れても画面に何も映らず音声も聞こえなければ、そのテレビは故障している。修理して故障が直れば正常に戻る。修理できずに故障が直らなければ欠陥品として廃棄される。モノの運命だ。人はどうか。目が見えない。耳が聞こえない。腕がない。足がない。それらはモノとしては故障であり欠陥に他ならない。イキ「モノ」としてのヒトも例外ではない。しかし、人は違う。障害者は欠陥品ではない。人はモノの運命を超越する。故障した欠陥品としてのテレビは廃棄されるしかないが、障害を負った人はそれでも生きていく。尤も、欠陥品としてのモノの運命に殉じる人もいないわけではないが、単なるイキ「モノ」としてのヒトで終わるのは忍びない。故障して欠陥品と化したモノが廃棄されても世界は残る。モノが存在する場所の根柢としての場。存在者を超越する存在そのものの次元。その目には見えない世界で人は人間になるべく生きていく。そこに私の求める人生劇場がある。ただし、「人間の完成」は再びモ ノの世界に反転していく。その反転が垂直的ドラマのクライマックスだと私は考えている。
補足:ラディカルな生
私は最近、キム・E・ニールセン著『ヘレン・ケラーの急進的な生活』(原題: The Radical Lives of Helen Keller)を読んだ。訳者の中野善達氏は『「奇跡の人」神話と社会主義運動』という副題を付している。この副題はこの著作の意図を的確に伝えている。ニールセンは序章で次のように述べている。
ヘレン・ケラーは世界中に知られている歴史的な人物であるが、その名高い物語は、アン・サリヴァンがその七歳の少女の手の上にポンプで汲み出した水をかけた、また、指文字が彼女の主なコミュニケーション手段となった一八八七年に始まり、更にしばしば、そこで終わってしまう傾向がある。一九六八年まで生存していた成人、政治的情熱や行動を示したヘレン・ケラーは、映画『奇跡を行う人』(『奇跡の人』)や、彼女に関する子供向けや成人向けの夥しい伝記からは欠落してしまっている。私たちが分かち合っている彼女に関する文化的諸記憶は一般的に、彼女の生き生きした政治的生活や政治的諸活動とりわけ、彼女の急進主義への関心や資本主義批判を抜かしてしまっている。
恥ずかしながら私も、「water」という言葉を認識するまでのヘレン、すなわち映画『奇跡の人』で描かれたヘレンしか知らなかった。ちなみに『奇跡の人』(原題:The Miracle Worker)とはヘレンではなく、やはりアン・サリヴァンであろう。つまり、私はヘレンの人生劇場の半分しか知らなかったことになる。それはヘレンがヒトから人になるドラマに他ならない。しかし、ヘレンにはその後の人生劇場、人から人間になるドラマがあった。正にそれはラディカルな生と称するに値するドラマだ。ただし、ニールセンの言う「radical」とは政治的な意味での急進主義、すなわち社会主義のようだが、私はもっと深い意味での「人間の完成」として理解したい。とは言え、私はヘレンを聖人と見做すつもりはない。ニールセンが指摘しているように、ヘレンの人間観には優生学的な錯誤があるようだ。しかし、鄙見によれば、ヘレンは誰よりも深く障害者と「人間の完成」の関係について考えた。そもそも「人間の完成」とは何か。五体満足な者は障害者よりも「人間の完成」に近いのか。ヘレンはラディカルに問い続けた。ニールセン曰く、「ヘレン・ケラーは、全く複雑な生活を送った複雑な個人であり、複雑なイコン(聖像)なのである。しかしながら、彼女は面倒な事態を通じて、論争を通じて、興奮ということを通じて、絶えざる運動を通じて力強く成長していった人物なのであった。」その宗教観も含めて、ヘレンから学ぶべきことは尽きない。
人生劇場(10)
人それぞれにその人固有の人生劇場がある。水平的ドラマに終始する劇場もあれば、それを超えようとする劇場もある。言うまでもなく、私の究極的関心は後者にあるが、さりとて前者を蔑ろにするつもりはない。この実に歯切れの悪い躊躇が私の現実だ。本意ではないが、私はこの現実から始める他はない。とは言え、深く思耕する以前の私はもっと問題を単純に考え、水平的ドラマの超越は垂直の次元に生きることだという確信で満足していた。しかし、「垂直の次元に生きる」とは何か。私は垂直の次元を宗教的次元と同一視して、世俗的な生活から聖なる生への移行を求めた。つまり、垂直の次元もまた一つの場所であり、私の人生劇場は水平の次元から垂直の次元へ、目に見える世界から目に見えない世界へ、という場所の転換を要請したのだ。これは宗教的段階の一般的理解とも言えるが、今の私は大きな錯誤だと思っている。垂直の次元は場所ではなく、「どこにもない場」として機能する。従って、垂直の次元は人生劇場の舞台にはならない。人生劇場の現実の舞台は水平の次元だけだ。また、垂直の次元が宗教的次元だとしても、それを非宗教化するところに垂直的ドラマの本質がある。私はそうした本質をキルケゴールの実存弁証法(美的・倫理的・宗教的の人生行路の三段階)から学んだ。端的に言えば、大半の人の人生劇場は美的段階で展開する。快楽の追求。世俗的な幸福を求める水平的ドラマだ。それで満足できれば水平的ドラマに終始することになるが、世俗的幸福に懐疑すると、人生は倫理的段階に移行する。ただし、その移行までは未だ水平的ドラマに留まる。倫理的段階から宗教的段階への飛躍(単なる移行ではなく、水平の次元から垂直の次元へという「次元の飛躍」)によって初めて、垂直的ドラマは始動する。しかし、ここで留意すべきことは、「水平的ドラマは水平の次元で展開するが、垂直的ドラマは垂直の次元で展開するのではない」ということだ。先述したように、垂直の次元は「どこにもない場」なので、如何なるドラマの舞台にもなり得ないからだ。繰り返しになるが、人生劇場の舞台は唯一つ、水平の次元しかない。ここでキルケゴールの宗教的段階に深入りする余裕はないが、その本質はヘレン・ケラーの率直な次の言葉にも見出される。「全ての者が覚えておかなければならない唯一の原則は、宗教とは単にそれを信じるということではなく、その教義を実生活で実現させて生きることにある。」禅で言えば、往相と還相。目に見える世界に絶望した者は目に見えない世界に生きる希望を見出すが、それは目に見えない世界での瞑想への逃避であってはならない。瞑想は必要だが、それに終始することなく、目に見える世界の根源的変革という活動に反転していかねばならない。目に見えない世界は断じて安住の地などではない。ヘレン・ケラーも目に見えない世界に生きる自らの希望を次のように表現している。「私は今のような世界を好みません。私はそうでありたいと思うような世界に、少しでも近づけるように試みています。」目に見えない世界を垂直の次元と解するならば、「垂直の次元に生きる」とは「どこにもない場」の力(水平的には無力でしかない力)を水平の次元に反映させていくことに他ならない。人生劇場はそのような垂直的ドラマに究極する。
人生劇場(9)
視覚障害者は目に見える世界からの疎外という不幸を背負わされている。しかし、その不幸は目に見えない世界のリアリティをより強く、より鮮明に知ることができるという幸福と表裏一体だ。そして、目に見えない世界こそが人生劇場の表舞台(本舞台)だとすれば、視覚障害故にそれを霊視できる幸福は視覚障害の不幸に優るだろう。とは言え、実際にその幸福を望む者は殆どいない。一般的には目に見える世界こそが人生劇場の表舞台であり、視覚障害は不幸でしかないからだ。目に見えない世界を実感する幸福ではなく、目に見える世界で幸福になること――ここに水平的ドラマの本質がある。従って、その論理を逆転すること、すなわち目に見えない世界を中心に生きることが垂直的ドラマの本質ということになる。卑近な例を挙げれば、目に見える美しさ(容姿)と目に見えない美しさ(心)が対立する時、決然と後者を選択するようなドラマだ。確かに、見た目の美しさに惑わされることなく、しっかりと不可視の美しさを見極めるドラマは感動を呼ぶ。私も嫌いではない。しかし、そうした目に見えない世界中心のドラマは未だ本当の意味で垂直的ドラマではない、と私は考えている。むしろ、それは依然として水平的ドラマとの境界線上に留まる。では、その境界線は如何にして突破されるのか。そもそも目に見えない世界が本当の世界だとしても、目に見える世界への執著から自由になることは容易なことではない。殊に宗教的人間にとって、視覚を含めた身体の五感は霊視の妨げになるものと見做されてきた。中でも宗教的苦行者は五感を無にすることで目に見えない世界への悟りを開こうと精進している。無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法。極端な場合には、鞭で自らの身体を打ち据え、更には腕を斬り落とし、眼を潰すという自傷行為の徹底にまで行き着く。それは明らかに異常だが、坐禅などの瞑想で無の境地に至ろうとする生き方は人生劇場の一方の極を成している。おそらく、その極こそが垂直的ドラマの核にもなると多くの人は思うに違いない。かく言う私も例外ではない。目に見える俗世間を棄てて目に見えない聖なる空間に生きるドラマ。しかし、そのドラマの純粋性に憧れながらも、私はそれを自らの人生劇場とすることを躊躇する。この躊躇は何であろうか。
人生劇場(8)
ヘレン・ケラーはかつて、心無い記者から「視力と聴力はあるが、知性を欠いていて、それで外界を理解しなければならないとしたら、どうであろうか」と問われた時、即座に「むしろ、今のままでいたい」と返答したそうだ。これは我の強いヘレン一流の負け惜しみであろうか。決してそうではない。ヘレンは本当に心の底からそう思っていた。ただし、外界を理解する知性とは単なる知識ではない。単なる知識であれば視力や聴力があった方が有利だろう。ヘレンによれば、視力や聴力によって得られる単なる知識では世界の本当の姿を捉えることができない。周知のように、こうしたヘレンの認識の根柢にはスウェーデンボリの神学がある。それは「物質的肉体の内部にある、完全な感覚を備えた精神的身体(霊魂)の存在」を核とした神学だ。この神学によれば、精神的諸感覚に基づく真の認識(神を知ること)は物質的肉体がもたらす幻影に満ちた諸感覚によって妨げられることになる。ヘレンは自らの障害がより深い精神性の感覚をもたらし、目で見たり耳で聞いたりする世界よりも「無窮の、より不思議で完全で、満足できる世界」を知ることを可能にしたと確信した。つまり、一般的には障害者は無能力者と見做されることが多いが、ヘレンは逆に自らの障害を神からの思いがけない精神的な贈り物と理解したのだ。これを障害者の自己正当化と嗤うことは誰にもできないだろう。目に見える世界と目に見えない世界。前者が水平の次元だとすれば、後者は垂直の次元だ。殆どの人は目に見える世界を現実として生きている。ヘレンは逆だ。では、この逆転に垂直的ドラマがあるのだろうか。
人生劇場(7)
私はおこがましくも自分の使命は「この醜悪に世俗化された現代社会に聖なる次元を取り戻すこと」にあると思っている。しかし、「醜悪に世俗化された」とは言うものの、世俗化には理不尽な「魔術の園」から人を解放する積極的な面もある。世俗化と近代化は表裏一体の運動であり、人生劇場には欠かせない一場面だ。古ければ良いというものではない。古きものは淘汰されなければならぬ。さりとて新しければ良いというものでもない。今は新しくても、すぐに古くなる。本当に新しいもの、決して古くならない新しいものとは何か。それはむしろ、古きものの深層にあるのか。それとも――というのが人生劇場のクライマックスになるだろう。結局、問題はUrbildとVorbildの関係に収斂していく。そして、その問題を解く鍵となるのが垂直性に他ならない。とは言え、人生劇場に垂直性を結実させるのは至難の業だ。問題にすることは誰にでもできる。しかし、それを一つのリアリティとしてドラマ化するのは誰にでもできることではない。私は偉そうに「昨今のドラマには垂直性が欠けている」と嘯いているが、「じゃあ、テメェに書けるのか」と問われれば一言もない。おそらく、「どこにもない場」としての垂直の次元を言葉によって表現することは不可能だろう。敢えて言えば、沈黙の言葉によって表現すること、すなわち黙示にしか可能性はない。かのドストエフスキイの天才を以てしても、それは極めて稀だ。それでも私は垂直的ドラマの追求を断念することはできない。人が人間になっていくドラマ、世俗化された現代社会が聖なるものによって新しくされていくドラマの実現!ボンクラにはボンクラの意地がある。
人生劇場(6)
この四月から始まったテレビドラマに『95(キュウゴー)』という作品がある。原作は早見和真、脚本は喜安浩平、監督は城定秀夫。「1999年に世界は終末を迎える」というノストラダムスの大予言が一大ブームとなり、年明けには阪神淡路大震災、三月にはオウムの地下鉄サリン事件と続いた1995年。そんな騒然とした時代に青春を過ごした高校生たちのドラマだ。彼等は一様にこの現実社会に苛立っている。「こんな世界なんて終わってしまえ!いや、終わるべきだ」と内心感じている。しかし、彼等は学校教育を無視しているようだが、決して弱い不登校生ではない。むしろ、優等生とは言えないが、力のある不良の部類に属する。誰にも虐められていないし、誰も虐めてはいない。ただ、「世界の終わり」を信じ、それまでに何かを成し遂げようとしている。しかし、一体何を求めているのか。未だ第三話が終了しただけなので具体的なことは何もわからないが、これまでの流れは単なる風俗劇に終始している。つまり、垂直の次元が欠けている。率直に言って、私はこの種のドラマの雰囲気が好きだ。腐敗した世界に心底ウンザリして、今にも一線を越えようとする雰囲気。しかし、それは所詮水平的な一線、法律に基づく社会的規範の如きものにすぎない。果たして、このドラマは垂直的な一線にまで辿り着くのだろうか。今後の展開に期待したい。
人生劇場(5)
私の究極的関心は垂直的ドラマにあるが、さりとて水平的ドラマを軽視するわけではない。むしろ、人生劇場の主流は水平的ドラマだと思っている。とりわけ重要なのは学校という舞台だ。そもそも私の思耕の原点には不登校の生徒との出会いがあり、「理想の学校をつくりたい」という希望が常に念頭にある。それが「新しき村の実現」という未完のプロジェクトにも繋がっていくのだが、そのUrbildとも言うべき「理想の学校」とは何か。林竹二先生は次のように語っている。
「本来教育の場である学校が、まさしく人間性破壊の工場になっている。そう言わざるを得ないところまで行き着いてしまっているのです。学校というのは、本来、人間の子を人間らしい人間に育てるための場でしょう。そうではありませんか。ところが現実はそうではなくて、「人間を育てる」などと言えば、何を戯言を言うかと嘲笑されるのが落ちで、どんな犠牲を払ってでも、いわゆる名門校に、一人でも多くの卒業生を入れるということに血道を上げている。こうして、不可避的により多くの子が切り捨てられたり、陽の当たらないところにおかれることになる。だから、私はいま学校に教育はないと思うのです。」(『問いつづけて――教育とは何だろうか』)
図らずも本日、『「普通」なんて言葉じゃくくれない:不登校経験者が7割の高校』というドキュメンタリイを観たが、私は基本的に今の学校を拒絶する生徒の方が正しいと思う。尤も、厳密に言えば、主体的に学校を拒絶している生徒は稀であり、大半の不登校生は学校に切り捨てられているのだろう。林先生も次のような指摘をされている。
「パンを求めている子どもに石を与えているのが今の教育です。そこで優等生なんかは石でも、うまい、うまい、という顔をして食べてみせるわけですね。ところが、「石なんか食えるか」と言ってそれをはねつける者、拒む者は切り捨てられるのです。」(同上)
優等生には石だとわかっていながら、恰もパンであるかのように食べてみせることのできる能力がある。大した能力だと感心する。そうやって優等生は受験戦争に勝ち、就職戦線にも勝ち抜き、社会の勝ち組になっていくに違いない。従って、こうした力のある優等生に既存社会を変革する可能性を期待しても無駄だ。可能性は力のない落ちこぼれにしかない。しかし、力のない落ちこぼれが如何にして力のある優等生に勝てるのか。ここに水平的ドラマとしての人生劇場におけるクライマックスがある。例えば、先述のドキュメンタリイで紹介された広島みらい創生高校では、パンを求めている生徒にパンを与える教育が試みられている。素晴らしい試みだと思う。実際、これまで切り捨てられてきた生徒たちの多くはここで学ぶことによって生きていく自信を取り戻し、それぞれの未来に向かって卒業していく。こうした学びの場が日本中、そして世界中に広がっていくことを願わずにはいられない。しかし、何かが足りない。優等生たちがつくったこの社会を落ちこぼれたちが根源的に変革するためには何かが欠けている。力ではない。力による変革では優等生に勝てる筈がない。これを水平的ドラマの限界と解するならば、人生劇場は次のステージに向かうしかないだろう。すなわち、垂直的ドラマだ。
人生劇場(4)
オウム真理教とか統一教会といったカルト宗教が世間を騒がせたことから、「宗教は危険なものだ」という認識が一般的となった。宗教の教団はどれもこれも、多かれ少なかれ「洗脳集団」であり、その本質は健全な人なら忌避すべき阿片にすぎない。多くの人はそう思っている。強ち間違いではない。しかし、阿片には阿片の役割がある。この目に見える世界とは別の世界に誘(いざな)ってくれる役割だ。そして、そんな阿片を必要とする人にはその人なりの理由がある。確かに、目に見える世界で健全に生活できる人には阿片など必要ないだろう。しかし、この世界に生きているのはそんな幸福な人たちばかりではない。むしろ、この世界の醜悪さにウンザリしている人の方が大半ではないか。そうした人たちはもはや既存社会の安寧を願って冠婚葬祭に明け暮れるだけの既成宗教では満たされず、逆に既存社会をぶっ壊す新しき宗教を求める。それがカルト宗教だ。そこには既成宗教にはない新鮮さがある。その新鮮さがカルトをより宗教らしい宗教に見せる。たといその正体が阿片であっても、別世界のリアリティは腐った現実社会に勝る。しかし、そこに垂直の次元はない。霊だの解脱だのと宗教用語が乱れ飛んでいるが、その内実は水平的ドラマの三文芝居にすぎない。それなのに何故、かくも多くの人が性懲りもなく宗教に魅せられるのか。おそらく、人生劇場に宗教は不可欠なのだろう。それも既成宗教のような安全な宗教ではなく、危険なカルト宗教が。実際、宗教を欠いた人生劇場は平板で退屈な水平的ドラマにすぎないが、問題は宗教の本質にある。別世界に誘う阿片の役割もさることながら、別世界と宗教的次元は違う。更に言えば、私は昨日の便りで「垂直の次元は一応、宗教的次元に等しい」と述べたが、厳密には同じではない。微妙だが無視できぬ差異がある。宗教的次元は大抵一つの「聖なる場所」(聖域)として機能するが、垂直の次元は「どこにもない場」だという差異。この差異が人生劇場のドラマを質的に決定する。
人生劇場(3)
人のドラマは水平の次元で展開するが、人が人間になるドラマは垂直の次元を要請する。さりとて「人間のドラマは垂直の次元で展開する」とは言えない。微妙な違いだが、これがドラマの質に大きく影響する。人にせよ人間にせよ、「人生劇場」の舞台(場所)は水平の次元しかない。水平と垂直とドラマの場所が二つあるかのような二世界論は根源的に間違っている。垂直の次元はあくまでも「どこにもない場」であり、如何なる意味においてもドラマが展開する場所にはなり得ない。それは人と人間が客観的には何も変わらないのと同断だ。人が人間になると背中に羽根が生えるわけではないし、俗世間を超越して聖なる場所に到達するわけでもない。では、何が変わるのか。残念ながら、私は上手く説明できない。そもそも人が人間になるドラマが要請する垂直の次元とは何か。それは一応、宗教的次元に等しいと言えるが、単に宗教や信仰を扱えば垂直の次元に至るというわけではない。むしろ、ボンヘッファーが問題にした「非宗教化」に垂直の次元は垣間見えるのであり、凡百の宗教ドラマは水平の次元を超えてはいない。例えば、三浦綾子氏に『氷点』という作品がある。何度も映像化されている名作だが、私は最近、石原さとみ主演のテレビドラマを観た。贖罪もしくは免罪といった実に重いテーマが問題にされているが、私はそこに垂直の次元を見出すことができなかった。私は決して三浦氏の良き読者ではないが、氏の『塩狩峠』にも同じことを思う。別に三浦氏を批判するつもりはないが、垂直的ドラマが単なる宗教文学でないことだけは確かだ。