人生劇場(9)
視覚障害者は目に見える世界からの疎外という不幸を背負わされている。しかし、その不幸は目に見えない世界のリアリティをより強く、より鮮明に知ることができるという幸福と表裏一体だ。そして、目に見えない世界こそが人生劇場の表舞台(本舞台)だとすれば、視覚障害故にそれを霊視できる幸福は視覚障害の不幸に優るだろう。とは言え、実際にその幸福を望む者は殆どいない。一般的には目に見える世界こそが人生劇場の表舞台であり、視覚障害は不幸でしかないからだ。目に見えない世界を実感する幸福ではなく、目に見える世界で幸福になること――ここに水平的ドラマの本質がある。従って、その論理を逆転すること、すなわち目に見えない世界を中心に生きることが垂直的ドラマの本質ということになる。卑近な例を挙げれば、目に見える美しさ(容姿)と目に見えない美しさ(心)が対立する時、決然と後者を選択するようなドラマだ。確かに、見た目の美しさに惑わされることなく、しっかりと不可視の美しさを見極めるドラマは感動を呼ぶ。私も嫌いではない。しかし、そうした目に見えない世界中心のドラマは未だ本当の意味で垂直的ドラマではない、と私は考えている。むしろ、それは依然として水平的ドラマとの境界線上に留まる。では、その境界線は如何にして突破されるのか。そもそも目に見えない世界が本当の世界だとしても、目に見える世界への執著から自由になることは容易なことではない。殊に宗教的人間にとって、視覚を含めた身体の五感は霊視の妨げになるものと見做されてきた。中でも宗教的苦行者は五感を無にすることで目に見えない世界への悟りを開こうと精進している。無色無受想行識無眼耳鼻舌身意無色声香味触法。極端な場合には、鞭で自らの身体を打ち据え、更には腕を斬り落とし、眼を潰すという自傷行為の徹底にまで行き着く。それは明らかに異常だが、坐禅などの瞑想で無の境地に至ろうとする生き方は人生劇場の一方の極を成している。おそらく、その極こそが垂直的ドラマの核にもなると多くの人は思うに違いない。かく言う私も例外ではない。目に見える俗世間を棄てて目に見えない聖なる空間に生きるドラマ。しかし、そのドラマの純粋性に憧れながらも、私はそれを自らの人生劇場とすることを躊躇する。この躊躇は何であろうか。