人生劇場(2)
バルザックの『人間喜劇』は「風俗研究」「哲学的研究」「分析的研究」の三つに分類されるそうだが、人生のドラマは煎じ詰めれば水平的ドラマと垂直的ドラマの二つになると思われる。すなわち、人が人として生活する風俗を描くのが水平的ドラマであり、世の大半のドラマはこれに属する。人は人を愛し、愛するが故に憎んだりもして、愛憎渦巻く葛藤が水平的ドラマを生み出す。そこで人は時に一線を踏み越える。その一線とは何か。これがすでに大きな問題だが、一般的には法律だろう。そして、法律の定める一線を踏み越えた者は犯罪者となる。勿論、法律では裁かれない踏み越えもある。道徳とか良心の呼び声の一線を踏み越えることだが、むしろこちらの方がドラマを複雑にする。垂直の次元が関係してくるからだ。法律などの目に見える一線を踏み越える、もしくは踏み越えない人の葛藤は水平的ドラマとなるが、そこに目に見えない一線が関係するとドラマは垂直化する。とは言え、この垂直化を見極めるのは至難の業だ 。凡百のドラマは人が犯罪者になる過程、もしくは犯罪者となった人を逮捕する過程が描かれるにすぎない。つまり、水平の次元から一歩も外に出ていない。問題は水平の次元そのものからの一歩、すなわち水平の次元という一線を踏み越えるリアリティにこそある。男の中の男である玉井金五郎に対する私の不満もその辺りにあるような気がしてならない。
人生劇場
振り返ってみれば、幼い頃から様々なドラマに影響されてきた。主にアニメのスポ根(スポーツ根性)ドラマの影響が大きかったが、中学生の時に観たテレビドラマ『人生劇場』も無視できない。むしろ、スポ根ドラマの影響は表層的なものであり、より深層に刻み込まれたのは『人生劇場』の方だったのかもしれない。殊にそのドラマの中で耳にした「野心なくして何の青春ぞや」という言葉。今や誰の言葉であったのか(青成瓢吉かその父か、あるいは吉良常か)さえ定かではないが、それは私の魂の方向を決定したように思う。しかし、野心とはなにか。かのクラーク先生も同じようなこと(be ambitious!)を言われたが、私にとって大きな志は単に「有名になる」とか「金持になる」といった社会的・経済的成功(出世)には見出されなかった。とは言え、表層的には、スポ根ドラマに影響されていた私は有名なプロ野球選手に憧れていた。けれど、常に違和感があった。多くの人たちから注目されたいというスケベ根性がありながら、そんな派手な生き方に人として本当に生きる偉大さはないとも思っていた。余談ながら、どういうわけか尾崎士郎と火野葦平の印象が私の中で重なっており、『人生劇場』と『花と龍』の世界も重なっている。おそらく、ほぼ同じ時期に『花と龍』の映画もテレビで観たせいだろう。周知のように、『花と龍』は何度も映画化されているが、鄙見によれば、山下耕作監督が中村錦之助と佐久間良子のコンビで撮った作品が最高だ。私は玉井金五郎に男の中の男を見た。そして自分も玉井金五郎のように生きたいと思った。しかし、比較的最近、火野葦平の原作を読んでみたが、かつての感動は甦らなかった。今でも玉井金五郎は男の中の男だとは思う。しかし、もはやそこに私の野心はない。一体、何が変わったのか。
補足:「虚」と「実」
「真理とは、それなくしては特定種の生物が生きることができない類の誤謬である。生にとっての価値が最後に決定を下す」とはニーチェの言葉だが、ここに言われている「誤謬」は私が問題にしている「虚」に等しい。私は殊更に特別な人生を望んでいるわけではない。他のイキモノを下に見て、単なるイキモノの生以上の生を求めているわけではない。むしろ、単なるイキモノの生、すなわち食うために生きること以外に生の「実」はないと思っている。剥き出しの生(ゾーエー)の欲望のままに生きること。そこにヒトの生の充実がある。ところが、幸か不幸か、人はそうした充実から疎外されている。ヒトの野生は言わばディオニュソスの充実であり、余りにも激しすぎて耐え切れないからだ。そこで人は生きるために「虚」を生み出す。それが剥き出しの野生を優しく包み込むビオスの次元に他ならない。人が人として本当に生きるドラマはビオスを舞台に展開する。ただし、それはゾーエーの次元をケダモノの世界として否定することではない。そもそも否定しようとしてもできないだろう。ディオニュソスの陶酔は絶えず魔 力と化してビオスの次元に働きかけていく。結果、人はゾーエーの「実」とビオスの「虚」に引き裂かれる。どちらか一方だけでは人は成人しない。引き裂かれた人生の祝祭的調和が成人としての人間の課題となる。
補足:人と人間
サルがヒトになり、ヒトが人になり、最終的に人は人間になる。サルとヒト並びにヒトと人の違い(進化の過程)は生物学や人類学で客観的に理解することができる。問題は人と人間の違いだ。客観的には何も変わらない。芋虫が蝶になる。オタマジャクシが蛙になる。同様にイキモノとして人は子供から大人になる。芋虫にとっての蝶、オタマジャクシにとっての蛙、子供にとっての大人が、それぞれのVorbildだと言えなくもない。しかし、人の場合は違う。ボーヴォワールの有名な言葉に準えれば、人は大人に(成長するように)生まれるのではない、大人になるのだ。人は蝶や蛙のように大人にならない。一般的には二十歳になると成人式を行うが、イキモノとして、あるいは社会的に大人になることが必ずしも成人を意味しない。少なくとも私は大人と成人を厳密に区別したい。端的に言えば、成人とは人間になることだ 。人が人間になる。そこにはイキモノとして人が大人に成長することとは質的に全く異なるドラマが展開する。
補足:成人としての人間に関するボンヘッファーの援用
人の独立は単なる無神論を導くが、成人としての人間の自立は神の死の神学を要請する。その違いは何か。私は次のようなボンヘッファーの言葉に答えを見出す。
「我々は――たとい神がいなくても――この世の中で生きていかねばならない。このことを認識せずして誠実ではあり得ない。そして正にこのことを、我々は――神の御前で――認識する!神御自身が、我々に強いて、この認識に至らせ給う。このように、我々が成人するということは、神の御前で自分らの状況をより真実に認識することへと我々を導くのだ。神は、我々が神なしで生きてゆける者として生きなければならないということを、我々にわからせ給う。我々と共にい給う神とは、我々をお見捨てになる神なのだ!神という作業仮設なしで我々がこの世で生きるようにさせ給う神こそ、我々が絶えずその御前にいる神である。神の御前で、そして神と共に、我々は神なしに生きる。神は、御自身を、この世から十字架へと追いやられるままにまかせ給う。神は、この世においては無力で弱い。正にそのようにしてのみ、神は、我々のもとにいて下さり、我々を助け給う。キリストの助けは彼の全能によるものではなく、彼の弱さに、つまり彼の苦難による。」
Dietrich Bonhoeffer, Wiederstand und Ergebung(抵抗と信従).
Vorbildとしての人間(10)
私の致命的な過誤。「江戸城をつくったのは誰か」と問われて、司馬遼太郎なら「太田道灌」、藤沢周平なら「名もなき大工たち」と答える。できすぎた対比だが、藤沢周平の世界に愛着を懐きながら、私は司馬遼太郎になりたいと思った。太田道灌の実際の業績はさておき、建築なら設計図、すなわちどういう「かたち」にするかという理念の構築にこそ本質がある。勿論、名もなき大工たちがいなければ、その「かたち」は永久に画餅にすぎない。「かたち」を実現する労働を無視するつもりはないが、私は自分の仕事は理念の構築の方にあると確信していた。音楽なら楽譜、すなわち作曲の理念を明確に示すことに私の究極的関心がある。極端な話、完璧な設計図や楽譜さえあれば、後は二次的な問題しかないと思っていた。しかし、どうもそうではないようだ。余談ながら、かつて一世を風靡した『プロジェクトX』の新シリーズが始まったが、その第一回は東京スカイツリーだった。旧シリーズの東京タワーも感動的な大工事だったが、その二倍の高さを誇るスカイツリーの建設には正に想像を絶する困難さがあったようだ。その設計(デザイン・構造計算も含む)も並大抵の苦労ではないが、やはりその理念を現実化する大工事にこそ本当のドラマがあった。同様に音楽に関しても、最近逝去された小澤征爾氏の偉大さが私には今一つよく理解できなかった。指揮者に限らず、楽器の演奏者の偉大さもわからない。ピアノやヴァイオリンのコンクールで日本人が世界一になったりすると「凄い!」とは思うが、その凄さは作曲家の偉大さには及ばない。次元が違う。ついでに演劇(映画も含む)に関しても同様であり、私にとって最も重要なものは脚本であり、それを現実化する演出や俳優の演技はどんなに素晴らしくても二次的な問題でしかない。私はずっとそう考えてきたが、こうした二段階的思耕は明らかに本末転倒であった。ビオスにおける理念の構築に人の究極的な仕事があるとしても、それはゾーエーにおける労働と切り離すことなどできない。ただし、私は昨日の便りで「虚」に徹するべきだと明言したが、それは決して「実」からの逃避を意味するものではない。問題は理念の構築という「虚」の仕事そのものを「実」にすることにある。そうした「虚」と「実」の祝祭的一致を求めて活動する生き方こそ人間のVorbildに他ならない。
Vorbildとしての人間(9)
素人考えだが、お金には二つの機能があるように思う。一つはモノを交換する手段として人と人との間を流れて(current)社会の中を循環し続ける通貨(currency)の機能。もう一つはそれ自体が価値あるモノとなって社会の中で富として蓄積していく貨幣(money)の機能。前者の機能だけであればお金は実に便利な道具だが、後者の機能には人を狂わせる魔力がある。こうしたお金のヤヌス的特質は言葉についても当てはまるのではないか。すなわち、人と人とのコミュニケーションの道具としての言葉と理想のドラマを生み出していく言葉だ。お金同様、後者の言葉が魔力を胚胎していることは言うまでもない。
さて、幸か不幸か、魔力としての言葉を有するのは人だけだ。それとは無縁の他のイキモノは表層的なコミュニケーションで満たされている。人もそれに倣うべきだろうか。確かに、ゾーエーの次元に言葉は必要ない。必要だとしても、鳥やオオカミやサル程度の言葉で十分だ。それ以上の言葉の力、すなわち魔力を駆使すればビオスの次元を切り拓くことができるが、それは「虚」の生への踏み込みでもある。ビオスの次元は言葉によって構成されている。従って、「実」生活に人生を限定したいなら、人は表層的なコミュニケーションで満足しなければならない。それは実質的に魔力としての言葉を滅却した世界に生きることに他ならない。そんなことが果たして可能だろうか。私は難しいと思う。魔力としての言葉の滅却は、人間理性の力を統制的原理に限定して、構成的原理を否定することに等しいからだ。周知のように、カントは『純粋理性批判』の冒頭で次のように述べている。
「人間理性はその認識の或る種類において特異な運命をもっている。それは、理性が拒絶することはできないが、しかし解答することもできない幾つかの問いによって悩まされているという運命だ。拒絶することができないというのは、それらの問いが理性自身の本性によって理性に課せられているからであり、解答することができないというのは、それらの問いが理性のあらゆる能力を超え出ているからだ。」
こうした二律背反の運命は如何にして克服されるのか。先述したように、ビオスの「虚」を拒絶するのも一つの可能な道だが、私は敢えて「虚」に徹するべきだと考えている。人は今や人間として生きる理想の一歩手前に立っている。
Vorbildとしての人間(8)
人以外のイキモノは言葉のない世界に生きている。確かに、他のイキモノにも声や身振りなどによってそれなりのコミュニケーションが成立している。その声や身振りを言葉と見做すこともできるが、私は認めない。その程度のコミュニケーションの道具は言葉ではない。自分勝手な独りよがりの解釈だ。しかし、私がここで問題にしている言葉は、例えば短期の海外旅行においてレストランで料理を注文したり店で土産物を買ったりする際に必要となる程度の言葉ではない。それなら翻訳機や身振り手振りで事足りるだろう。言い換えれば、そこには未だ「人と人とが本当に理解し合う」という次元が切り拓かれていない。余談ながら、私の五年に及ぶ拙い留学体験を振り返ってみれば、私は最後まで言葉に苦しんだ。自分の本当に語りたいことがついに表現できなかった。そういう忸怩たる思いがある。ゼミなどで自分の考えを発表しなければならぬ時、私はいつも「日本語だったら、もっと自由に言えるのになあ!」と思ったものだ。しかし、帰国して日本語で自由に何でも言えるようになっても、私は依然として言葉に苦しんでいた。何故か。私は「語り得ぬもの」を語ろうとしていたからだ。そのことにおいて、母語も外国語も違いはない。私には語学の才はないが、五年もいればそれなりに日常生活に困らぬ程度のコミュニケーションはできるようになる。しかし、その先には進めない。ちなみに、先月終了したテレビドラマに『Eye Love You』と題する下らぬラヴコメディがあった。私は非常な忍耐を以て最後まで観たが、主人公の女性は相手の心の声が聞き取れるという一種の超能力を持っている。しかし、恋人の韓国人の若者の心の声は聞き取れない。何故か。韓国語で考えているからだ。この青年は日本語も話せるので、日本語で考えている時はその心の声を聞き取ることができる。どうしてこのような差異が生じてくるのか、私には終始疑問であった。心の声とは、日本語と韓国語で差異が生まれてくるような表層的なものにすぎないのか。もしそうなら、実におめでたいと言わざるを得ない。人と人とがそうした表層的なコミュニケーションで満足できるなら、それはそれで幸福なことだ。むしろ、互いの深層にまで及ぶ相互理解など求めぬ方がいい。迷惑だ。それが一般的な共通認識なのかもしれない。実際、殆どの人にとって「語り得ぬもの」など語ろうとする必要はないだろう。ところが、言葉には敢えて表層的なコミュニケーションを超えていこうとする力がある。「語り得ぬもの」を語ろうとする魔力がある。その言葉の魔力に究極的な関心を懐くのは、やはり狂気のなせる業なのか。
Vorbildとしての人間(7)
言葉のない世界は楽園か。私が例えば「りんご」という言葉を知ったのは、おそらく母からだと思うが、実際に赤い果物を見せられて「これはりんごだよ」と教えられたに違いない。すなわち、モノと言葉を同時に知ったわけで、そのことによって私は「りんご」というモノと直接に関係する機会を永久に失ったことになる。以後、私はその赤い(とは限らないが)クダ「モノ」に「りんご」という言葉を介さずに接することが不可能になった。更に、ひらがなでは「りんご」、カタカナでは「リンゴ」、漢字では「林檎」、英語では「apple」、エスペラント語では「pomo」と書くことを知り、それぞれの書き言葉に応じて意味のズレが微妙に生じてくることを体感する。とは言え、当然のことながら、その意味のズレを論理的に説明することなどできない。そのズレは人それぞれ違うからだ。幼い頃、風邪をひいた私に母がすりおろして食べさせてくれたモノは「りんご」であって「林檎」ではない、などと言ったところで誰が理解できるだろう。しかし、他者に理解されなくても、ズレは確かにある。それは書き言葉(エクリチュ ール)を全て廃して音声言語(パロール)に遡っても同じだと思われる。言葉を知った以上、人と人とが完全に理解し合うことは不可能だ。それ故、言葉のない世界が絶えず楽園として求められるわけだが、果たしてそれは可能だろうか。たとい可能だとしても、或る詩人が言うように、「言葉のない世界は言葉によってつくるしかない」と私も思わざるを得ない。
Vorbildとしての人間(6)
ヘレン・ケラーは「water」という言葉を知って人になった。以後、彼女の人生はドラマになった。これは三重苦に負けずに生きた立派なヘレン一人に限られたことではない。有名な偉人に限られたことでもない。どんなに取るに足らない、伝記や自叙伝などとは全く無縁のボンクラでも、その人生はドラマとなる。ドラマから逃げられない、と言った方がいいかもしれない。「ドラマを生きる」ことは人以外にはあり得ない。しかし、それは人にとって、特にヘレンにとって幸福なことであっただろうか。サリヴァン先生から指文字を習うまで、ヘレンはホームサインなるもので意思疎通をしていたと言われる。未だ勉強中なので明言はできないが、察するにそれはペットの犬猫の躾と同等のものではなかったか。つまり、ヘレンが受けていたのは教育(education)ではなく調教(discipline)であり、ホームサインは未だ厳密には言葉ではない、ということだ。最近、或る学者が鳥の言葉を確認したとして話題になったが、それはホームサインに準ずるものではあっても言葉ではないと私は思う。確かに、そこには「蛇がいるから気をつけろ!」というような鳥たち同士のコミュニケーションが成立していることは事実であり、その意味では「鳥にも言葉がある」ことを私も認める。しかし、ヘレンが発見した「water」はそのようなコミュニケーションの道具としての言葉ではない。それはドラマを生み出す言葉だ。一体何が違うのか。例えば、今やスマホにも搭載されて重宝されている翻訳機能は実に便利なモノだが、所詮コミュニケーションの道具にすぎず決してドラマを生み出すことはない。しかし、考えようによっては言葉はむしろコミュニケーションの道具に限定すべきなのかもしれない。ドラマを生み出す言葉には魔力がある。決して人を幸福にするとは限らない。そのことの意味を改めて考えてみたいと思う。