夢の場所・理想の場(8)
先日、『広重ぶるう』というテレビドラマを観た。下級武士(火消同心)であった若き歌川広重が「東海道五十三次」で絵師として開眼するまでのBildungsromanだが、同時に不遇の時代を陰ながら支え続けた妻・加代との夫婦愛の物語でもあった。臆面もなく言えば、私は加代のような女性が好きだ。幸か不幸か、私は一度も結婚なるものをしたことがないが、夫唱婦随は妻の鑑だと思われる。加代の他にも、坂田三吉の女房の小春(実名はコユウ)、桂春団治のお浜などに私は女性のVorbildを見出す。しかし当然、フェミニストから見れば、これは男性に都合のいい固定観念でしかないだろう。余談ながら、Donna J. Harawayの『Simians, Cyborgs, and Women:The Reinvention of Nature』(高橋さきの氏による邦訳の題名は何故かサイボーグと女の順序が入れ替わって『猿と女とサイボーグ:自然の再発見』)は実に興味深い研究だが、ヒトのUrbildに関するこれまでの生物学的見解がすでに男性中心の「状況に置かれた知」(situated knowledges)であったことは否定できない。そもそも猿(霊長類)の行動の研究からヒトのUrbildが導き出せるものなのか、ボンクラの私には詳しいことはよく理解できない。ただ、自然科学的(客観的)にヒトのUrbildを抽出できたとしても、それは一枚岩ではあり得ないと思われる。確かに、ヒトもイキ「モノ」である以上、そこにはヒトの子をヒト足らしめる客観的な構造があるに違いない。しかし、ヒトは人として単なるイキ「モノ」の次元を超えていく。尤も、人は「モノ」ではなく霊的存在だなどと言うとオカルト的に堕してしまうが、ヒトのUrbildを一つのnatureとするならば、人は不断にnatureから逸脱していくのではないか。そして更に、その逸脱をreinvention of natureと理解するならば、サイボーグもまた人のVorbildになり得るだろう。少なくとも、人のUrbildは複合的(多層的)なのでヒトのUrbildに拘束されない。従って、それに対応するVorbildも複合的だと考えるべきだろう。例えば、男性の求める夢の場所と女性の求める夢の場所は相対立するかもしれない。しかしながら、もし男性が夫唱婦随の妻を求め、女性も負けじと婦唱夫随の夫を求めるとしたら、およそ結婚など成立するだろうか。それとも結婚は所詮妥協の産物なのだろうか。もとより私には結婚のことはよくわからないが、このアポリアにも夢の場所の限界があることは間違いない。
夢の場所・理想の場(7)
「人はパンのみにて生くるにあらず」とは言うものの、パンが満たされなければパン以上の何かを求めることはできない。パンを肉体の糧、パン以上の何かを魂の糧とするならば、肉体の糧を求めるゾーエーの次元なくして魂の糧を求めるビオスの次元はあり得ない。それが大前提であり、ゾーエーの次元の充足が最重要課題となる。実際、大災害などでゾーエーが危機に瀕すると、ビオスはどうでもよくなる。プロ野球もバラエティ番組も自粛を余儀なくされる。そんなものを楽しんでいる場合ではない。しかし、災害からの復興が進んで生活に余裕が出てくると、再びビオスの次元が必要になってくる。剥き出しの生を維持するだけではなく、生活をもっと楽しみたいと思うようになる。かくして「夢の場所」も復活する。遊園地に足を運んだり、スポーツやお芝居・映画を観に行ったりする。そうしたことがビオスを充実させることは間違いない。確かに、「夢の場所」の娯楽もビオスを充実させることができる。しかし、それは魂の糧だろうか。果たして娯楽は魂の糧になり得るか。難しい問題だ。余談ながら『世界サブカルチャー史:欲望の系譜』というテレビシリーズが好きで欠かさず観続けているが、サブカルチャーの力は無視できない。面白い。しかし、面白ければいいのか。こんなことを言うのは野暮だろうが、私は哲学や文学がサブカルチャー化している現状には疑問を感じざるを得ない。決して徒にメインカルチャーの君臨・支配を望むわけではないが、メインとサブの区別は厳密にすべきではないか。少なくとも私は「夢の場所」の娯楽と「理想の場」を切り拓く哲学を厳密に区別したい。やはり私は時代遅れなのだろうか。
夢の場所・理想の場(6)
先の大震災を陸前高田で体験した或る女性がこんなことを語っていた。
「震災後、暫く本が読めなくなった。幼い頃から読書が大好きで、友人たちも私が本の虫であることを知っていたから、お見舞いにたくさんの本を届けてくれたけれど、全く読めない。特にフィクションがダメだった。読もうとする気が少しも湧いてこない。それでも次第に生活が落ち着いてくると何となく活字の世界が再び恋しくなってきたけれど、私が読みたくなったのはノンフィクションだった。そして不思議なことに、哲学の本ばかり読んでいた。難しくて殆ど理解できなかったけれど、何故か癒される思いがした。読みたいと思ったのは、それだけだった。」
この言葉を、三月十一日を東京で過ごしただけの私が「理解できる」と言ったら僭越だが、私には大きな力になった。何故、この読書好きの女性はフィクションに拒否反応を示したのか。「大地震、津波というすごい現実を見てしまったので、それ以外の全てが色褪せてしまった…」という言葉もあったが、おそらくフィクションが見せてくれる「現実」もまた例外ではなかったであろう。わざわざ読むほどのものではない。通常、娯楽としてのフィクションは暇潰しだ。退屈な毎日、もしくは苦しい日常生活の現実から束の間解放されて、別の「現実」に遊ぶ。それは現実にはあり得ない素敵な恋愛だったり、血沸き肉躍る冒険だったり、荒唐無稽な異界遍歴だったりするが、そうしたフィクションが見せてくれる「現実」は「夢の場所」に他ならない。しかし、その「夢の場所」が圧倒的な現実の力によって無化されてしまう。必要がない、と言うよりも煩わしい。では何故、哲学の本だけは読めたのか。哲学の本は哲学研究の本とは質的に全く違う。そして、哲学にはフィクションの「現実」とは次元を異にするリアリティがある。それが魂の糧、癒しになる。フィクションの「現実」が「夢の場所」だとすれば、哲学のリアリティは「理想の場」を切り拓く。私もそんな哲学の本を死ぬまでに一冊書きたいと思う。
夢の場所・理想の場(5)
「蛙の子は必ず蛙になる」と言えるのは蛙がゾーエーの次元にしか生きられないからだ。同様にヒトの子もゾーエーの次元では必ずヒトになる。蛙の子には蛙のUrbildがあり、ヒトの子にはヒトのUrbildがある。たといオオカミの中で育っても、ヒトのUrbildが不変である以上、ヒトの子はヒトになる。それがオオカミのように見えるのは、他の人がビオスの次元から見ているからだ。姿形はヒトであっても、オオカミに育てられたヒトの子はゾーエーの次元から一歩も外に出られないのでオオカミとしての自覚しかない。もしそこに何らかの方法で(結局、教育ということになるだろうが)ビオスの次元を導入できれば、オオカミと化したヒトにも人になる可能性が開けてくるだろう。ちなみに、「醜い家鴨の子」の話は擬人化されているので最終的には美しい白鳥としての自覚を得て幸福な結末を迎えるが、現実にはそうならないと思われる。確かに、家鴨と白鳥ではそれぞれのUrbildが違うので姿形に大きなズレが生じてくる。しかし、そのズレが美醜の差になるとしても、家鴨の中で育った白鳥に「白鳥としての自覚」は生まれないのではないか。すなわち、一生涯、他の家鴨たちとは姿形の異なる「醜い家鴨」として生きることを余儀なくされるのではないか。もしその白鳥に「自分は他に抜きんでて美しい」という意識が芽生えるなら、それはビオスの次元に一歩足を踏み入れたことを意味する。そんなことは白鳥にはあり得ない。そもそも「白鳥の方が家鴨よりも美しい」というのは人の目に映る世界だけの価値観ではないか。家鴨に劣等感はないし、白鳥にも優越感はない。幸か不幸か、優劣に惑わされるビオスの次元に生きられるのは人だけだ。そして、そんなビオスの次元にのみ「夢の場所」は求められる。
夢の場所・理想の場(4)
一九八八年に放送された『授業巡礼:哲学者・林竹二が残したもの』というドキュメンタリイを観た。僭越ながら、私もまた林先生のような哲学者になりたいと思った。先生は子供たちに「蛙の子は蛙」という言葉についての問いかけから授業を始める。蛙の子、すなわちオタマジャクシは蛙とは異なる姿形をしているが、やがて間違いなく蛙になる。だから蛙の子が蛙になるのは正しい。その論理に子供たちが納得すると、先生はすかさず次の問いかけをする。では、「人間の子は人間」と言えるのか。「言えると思う人は手を挙げて」と促すと、ひねくれ者の数人を除いて教室の大半の生徒は手を挙げる。そこで先生はオオカミに育てられた少年の絵を子供たちに見せて、人間の子であってもオオカミに育てられると人間になれない事実を示す。では、「人間になる」とは如何なることか。子供たちは真剣に考え始める。その結果は明らかにされなかったが、それぞれの子供たちがどんな考えに辿り着こうと、そこには「理想の場」が切り拓かれているような気がした。「蛙の子は蛙」と同じ次元では「ヒトの子はヒト」だと 言える。しかし、姿形はヒトになっても、それだけでは人間ではない。ヒトはオオカミに育てられればオオカミになってしまう。ヒトはヒトの社会で人になる。人として生きることの恍惚と不安。人には「夢の場所」が必要だ。それは間違いのない事実だが、人が人間になるためには「理想の場」が更に必要になる。それを子供たちにどう語ればいいのか。
夢の場所・理想の場(3)
つらい時、悲しい時、人は「夢の場所」に救いを求める。遊園地、劇場(映画館も含む)、居酒屋やキャバレーなどに足を運んで、生きることの苦しさからの束の間の解放を楽しむ。それが明日も生き続けることの力となる。それはそれでよい。かつて「新しき村の実現」を考えていた頃、私もまた新しき「夢の場所」を求めていた。「ディズニーランドよりも楽しい新しき村」などと称していたが、単なる娯楽の場所を超える生活の場所としての「夢の場所」を考えていたように思う。そこでは束の間の解放ではなく持続可能な解放、すなわち「永遠の日常」が問題となる。しかし、それは途方もない問題であり、矛盾を孕んだ逆説的な理想について考えあぐねて いるのが私の現状だ。理不尽なことは水平の次元で起きている。それが生きづらさになっている。それ故、水平革命が要請されるが、「夢の場所」には限界がある。どうしても絶対性の世界が求められる。ただし、それは全知全能の強き者の支配する世界ではない。裁きの世界ではなく、むしろ赦しの世界であろう。弱さ、と言うより無力の絶対性。しかし、強き者の暴力に弱き者の無力が勝てるだろうか。勝てる道理がない。必ず負ける。負け続ける。ところが、負け続けることの底の底に「理想の場」が生まれてくる。水平的な「夢の場所」を垂直に屹立させる「理想の場」だ。それが絶対性の世界に他ならない。
夢の場所・理想の場(2)
「夢の場所」は素晴らしい。確かに人を笑顔にさせる魔法をかけてくれる。しかし、その魔法は持続しない。やがて「夢の場所」での祭りの時間は終わりを告げ、再び憂い顔の日常に戻る時が訪れる。笑顔は失われるが、「夢の場所」はなくならない。暫く頑張って労働すれば、また休日には「夢の場所」に行くことができる。そして笑顔を取り戻せる。労働と娯楽。その繰り返し。娯楽が生き甲斐とな って人生の年輪となっていく。こうした人生の何が悪い。悪い道理などない。独立して労働し、独立して娯楽を享受する。その生き甲斐のサイクルが何らかの理由で危機に瀕すれば、人々は連帯することもできる。第一義の独立と連帯。それで事足りる。「夢の場所」を中心に人々は笑顔で暮らすことができる。しかし、そうした笑顔の生活に疎外感を懐く人がいる。皆が笑顔になる「夢の場所」を憎悪し、そこを爆破せんと望む人がいる。狂っている。そうかもしれない。労働と娯楽のサイクルに苛立つ病的なアウトサイダーは一体何処からやって来るのか。三島由紀夫なら「荒野」と答えるだろう。「荒野」は危険に満ちている。けれども「荒野」は、「荒野」のみが絶対性の世界である「理想の場」に通じている。それが厄介だ。
夢の場所・理想の場
『オズランド 笑顔の魔法おしえます。』という映画を観た。熊本の遊園地に配属された新入社員の女性が、最初は不本意だったものの、次第に周囲の「遊園地づくり」に懸ける情熱に心動かされていく成長物語(Bildungsroman)だ。悪人が一人も出てこない気持のいい作品だった。そして、私も主人公の女性と共に「遊園地の意味」について改めて考えてみた。最近は全く無縁だが、幼い頃の私は遊園地が好きだった。岐阜県でも名古屋に近い多治見で育った私は、春休みになると犬山で毎年開催されていた「マンガ博」とか「怪獣博」といったテーマパークを楽しみにしていた。両親と一緒に実に楽しい時間を過ごしたことが今も懐かしく思い出される。そこは確かに「夢の場所」だった。おそらく両親にとっても、子供と過ごす休日の時間は苦しい日常からの束の間の解放であっただろう。「夢の場所」で過ごす非日常の時間。そこに生き甲斐があるのは間違いない。しかし今、私は「その先の生き甲斐」について思耕している。野暮を承知で言えば、「ゾーエーの生き甲斐」の先にある「ビオスの生き甲斐」だ。もとより前者なくして後者はあり得ない。人もヒトというイキモノである以上、肉体の糧の充足が根源的問題となり、食うための労働を余儀なくされる。労働は一般的には苦しいものだ。苦しくても、情熱的に取り組める労働もあるが、大半の人は食うために仕方なく労働している。そうした苦しい労働に耐えるために、遊園地のような「夢の場所」が要請されるのであろう。遊園地に限らず、人は様々な「夢の場所」をつくり出す。平日には食うための労働に励み、休日には「夢の場所」で英気を養う。その循環が「ゾーエーの生き甲斐」となる。人のゾーエーにとって「夢の場所」は必要不可欠だ。従って、私は「夢の場所」を否定するつもりはない。そもそも否定しようとしてもできない。しかし、「夢の場所」での生き甲斐はあくまでもゾーエーが求めるもの、すなわち肉体の糧であって魂の糧ではない。果たして私は間違っているのだろうか。「夢の場所」で過ごす楽しい時間が生き甲斐になることは認める。しかし、それは娯楽を生き甲斐にすることに他ならない。娯楽は魂の糧にはならない。これは偏見であろうか。
補足:家鴨と白鳥では、どちらが本当に美しいか
一九六〇年代に人気を博したアメリカのテレビドラマ・シリーズ『The Twilight Zone』に「Eye of the Beholder」と題するエピソードがある。自らの醜い顔に絶望して何度も美容整形手術を繰り返している若い女性が主人公だ。「今度の手術に失敗したら、もう希望はない」という最後のチャンスに懸ける。そして手術は行われる。ここでドラマとして注意すべきことは、この時点まで主人公の女性の顔はもとより、登場人物の顔は一切映されていないことだ。ミイラのように包帯で厚く覆われた女性の顔のアップ。少しずつ包帯が取り除かれていく。そして全てが取り除かれた瞬間、医師は叫ぶ。「失敗だ!何も変わっていない」女性は手鏡で自分の顔を目にする。そこには絶世の美女の顔!女性は悲嘆の余り錯乱して暴れ始める。それを取り押さえる医師や看護婦たち。そこで初めて主人公以外の人たちの顔が明らかになる。皆、タコのようなグロテスクなバケモノの顔!そこは地球以外の何処か遠い星のことだった、というのがこのドラマのオチであり、そのテーマはBeauty is in the eye of the beholder.に他ならない。確かに、美醜は見る人の主観性によるところが大だと考えられる。所変われば品変わる。また、時が変わっても同様だろう。しかし、そうした相対性の世界に安住していいのだろうか。プーチンの正義はロシアの正義として不問に付すべきか。私は「多様性の尊重」と「相対性との妥協」を厳密に区別したい。そして、誤解を恐れずに言えば、絶対性の世界を追求したい。言うまでもなく、これは極めて危険な道だ。しかし、絶対性の追求は断じて相対的なものの絶対化などではない。プーチンの正義の絶対化でもなければ、ゼレンスキーの正義の絶対化でもない。そうした絶対化は未だ相対性の次元にとどまるものにすぎない。むしろ、如何なる絶対化も不可能にするものこそ真の絶対性なのだ。では、絶対性の世界とは何か。
補足:「醜い家鴨の子」はなぜ醜いか
周知のように、「醜い家鴨の子」は実は白鳥の子であった。家鴨と白鳥では当然それぞれのUrbildが異なる。家鴨のUrbildを有する子たちの中に白鳥のUrbildを有する子が紛れ込むという差異性が「醜さ」の原因だと考えられる。従って逆の場合、すなわち白鳥の子たちの中に家鴨の子が紛れ込んでも同様の「醜さ」が生じるであろう。「自分たちとは違う」という意識が「醜さ」を生む、と言ってもいい。この事実に基づいて、Urbildの同一性の自覚が第一義の独立となり、それを原点とすることで第一義の連帯が形成されると私は考えたい。言うまでもなく、こうした第一義の独立と連帯は確固としたものであり、それ自体の円環は閉じている。家鴨の子は家鴨として独立し、他の家鴨たちと連帯して生きる。そこには家鴨の理想の完成がある。しかし、そこに白鳥が現れたらどうなるか。自分たちとは異なるUrbildを有する存在の出現は何をもたらすか。差異性に基づく「醜さ」故の異形の者に対する憎悪か、それとも自分たちにはない「美しさ」を有する者への羨望か。何れにせよ、同一性の円環に生じた亀裂 から第二義の独立と連帯への道が切り拓かれる。