新・ユートピア数歩手前からの便り -35ページ目

独立と連帯

かつてローザ・ルクセンブルクの経歴を辿っていた時、彼女が祖国ポーランドの独立運動に反対していた事実を知って意外に思ったことがある。単純な私は独立とは無条件に良いもので、民族自決は当然の正義だと確信していたからだ。今でも、それが「本当のこと」であることを疑ってはいない。しかし、独立は基本ではあっても究極的なものではない。その先がある。それは単独者の真理を深く信じながら、その先にある連帯を理想とせざるを得ぬのと同断だ。単独者のみが本当に連帯できるのであって、連帯を拒絶する者は単なる孤立者にすぎない。とは言え、同調圧力で連帯を強要されるのが現実であって、単独者の真理は常に孤立と背中合わせだ。実際、今の世界情勢を眺めていると、単独者の真理(それぞれの独立)が各地で非常な危機に瀕している。例えば、なかなか終わりの見えないウクライナの危機。ウクライナは自らの独立を死守するためにロシアと戦っているけれども、かつてはソビエト連邦の一員であった。勿論、ソ連の一員であることとロシアに併合されることは全く違う。それにソ連に真の連帯があったかどうかは大いに疑問とされている。しかし、そこには曲がりなりにも連帯の理想があった筈だ。ユーゴスラビア連邦も然り。言うまでもなく、連邦の理想は堕落し、連帯は崩壊して、それぞれの民族は独立を果たした。そして、それぞれの民族間の血で血を洗う戦争が始まった。ウクライナとロシアの戦争もその一環として理解することができる。当然、私はウクライナがその独立を死守することを願っている。それは民族の独立に限らず、香港や台湾、更には沖縄についても言えることだろう。しかし、それにもかかわらず、私はその先を考えざるを得ない。その先の連帯の理想を求めずにはいられない。時代の流れに逆行するかもしれないが、思耕を続ける。

傍観者の苛立ち

腹が立つ。無性に腹が立つ。ウクライナで徴兵拒否が相次ぎ、若者を中心に国外逃亡を企てる者が後を絶たないと言う。戦争に対する恐怖・嫌悪は理解できる。誰しも戦場になど行きたくはない。自分の命が大事。自分の家族の安全を最優先する。そこに「本当のこと」があるのは間違いない。しかし、その「本当のこと」は私を苛立たせる。それでいいのか。自分たちだけ安全な場所に避難できればいいのか。さりとて、そうした不埒なエゴイストどもを激しく弾圧し、戦場に無理矢理送り込もうとする軍部の高圧的姿勢にも腹が立つ。祖国の危機という大義名分は理解できる。国民は一致団結して戦場に赴かねばならぬ。自分の命より祖国の命運の方が大事。そこに「本当のこと」があるのも間違いない。けれども、こうした二つの「本当のこと」が容赦なくぶつかり合うのを、ただ遠くから傍観しているだけの自分に一番腹が立つ。私的領域における「本当のこと」と公的領域における「本当のこと」との軋轢。決して他人事ではない。他人事にしてはならない。身棄つるほどの祖国はありや。

本当のこと

三浦しをんの『舟を編む』はすでに映画化もアニメ化もされているが、今回主人公の視点を変えてテレビドラマ『舟を編む:私、辞書つくります』として始まった。先日放送された第二回の中で、主人公の新人辞書編纂者(女性)が「恋愛」の語釈に疑義を呈する場面があった。すなわち、既存の辞書の「恋愛」の語釈が例外なく「異性間の-」とか「男女間の-」で始まっているのはおかしいと言うのだ。確かに、昨今のLGBTQの多様性を考慮すれば、恋愛はもはや異性間や男女間に限定されないだろう。その女性の疑念は当然だと言える。しかし、彼女たちが編纂中の辞書の監修者である日本語学者は大略「恋愛の語釈にLGBTQを反映させるのは時期尚早だ」と言う。これは決してLGBTQへの差別に基づくものではない。それでも主人公は「辞書の言葉にLGBTQの現実を反映させることで世の中を変えていくことができるのではないか」と熱弁するが、日本語学者は「辞書とはそういうものではない。辞書は時代の先に行ってはならず、常に時代の後を追っていくものだ」と明言する。つまり、辞書における言葉の語釈はあくまでも「典型的用例」に基づくものであり、「LGBTQの恋愛」は未だ「典型的用例」と認めるには時期尚早だ、ということだ。「どんな流行語も、少なくとも十年はその推移を見守って、それが社会にしっかり根付いているかどうかを見極める必要がある」と件の学者は述べる。ちなみに、「左」の語釈の一つは「大部分の人が、食事のとき茶碗を持つ側」とされている。言うまでもなく、この「大部分の人」の中に左利きの人は含まれていない。そして、左利きの人の割合はLGBTQの人の割合にほぼ等しいそうだ。少数者の立場を切捨てざるを得ぬ辞書の世界が保守的であることは間違いない。何れにせよ、辞書の世界では「LGBTQの恋愛」は未だ「本当のこと」ではない。「異性間もしくは男女間の恋愛」のみが「本当のこと」だ。しかし、これはあくまでも辞書の世界に限定されることであって、現実にはそうではない。断じてそうであってはならない。少なくとも、現状の「本当のこと」を唯一絶対のものとして、LGBTQのような新しき現実が要請する「本当のこと」を糾弾してはならない。では、新しき「本当のこと」は如何にして実現するのか。古き「本当のこと」との闘いが必至だとしても、それは如何なる闘いになるのか。

ローティの教訓

図らずも今月のETV「100分de名著」という番組のテキストはリチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』であった。ローティと言えば、伝統的な哲学の本質主義をプラグマティズムの視点からラディカルに批判したことで有名だが、改めて本質主義の弊害について考えさせられた。そもそも哲学とは真理の探究であり、それは物事の本質を見極めることに等しい。かく言う私もこれまで「人間として本当に生きるとは何か」と問い続けてきた。しかし、人生に「本当のこと」などあるのだろうか。確かに、科学的に実証できる「本当のこと」はある。例えば、地動説は「本当のこと」であって、天動説は間違っている。日常的には「東からお日様が上り、西に沈む」と感じられても、地動説が「本当のこと」であることを疑う人はいない。つまり、表層の天動説に流されることなく、深層の地動説を実証することができる。しかし、人生におけるVorbildについてはどうか。或る人が「この人物こそが本当のVorbildだ!」と主張する時、それを「本当のこと」として実証できるか。ローティによれば、哲学的には不可能だ。その意味において「哲学の終焉」が主張されるわけだが、ではこの世界に「本当のこと」は存在しないのであろうか。無理に「本当のこと」を主張すれば、それ以外は「本当でないこと」、すなわち異端として糾弾されることになるだろう。「本当のこと」を熱狂的に求めれば求めるほど、この世界に激しい争いをもたらしていく。とすれば、「本当のこと」など求めない方がいいのかもしれない。「本当のこと」は百害あって一利なし。人は「本当のこと」がなくても十分幸福に暮らしていくことができる。そこにプラグマティズムの教訓もあるだろう。しかし、それにもかかわらず、私は敢えて「本当のこと」を求めたいと思う。果たして、これはローティの教訓に反する愚挙であろうか。

補足:自同律の不快

「私は私である」と言い切ろうとすると、主辞の私と賓辞の私は必ずズレる。そのズレが不快を生む。埴谷雄高はこれを「自同律の不快」と称しているが、その不快はVorbildを求める原動力でもある。例えば、「私は日本人である」と言ってみる。この言述に間違いはない。しかし、私の賓辞は日本人に尽きるものではない。他者(私以外の人)も日本人であることを考えれば、「日本人」が私の究極的な賓辞でないことは明白だ。「日本人」の代わりに、私は男である、私は多治見市民である、私は思耕者である、などと言っても基本的には何も変わらない。水平の次元にある如何なる賓辞もそれ自体では究極的にはなり得ない。ただし、三番目の「思耕者」は少し違う。そこには垂直の次元を切り拓いていく可能性がある。尤も、厳密に言えば、「男」や「多治見市民」にもその可能性が全くないわけではない。それらは全て水平的な賓辞ではあるけれども、垂直的な賓辞になる可能性は常に潜在している。すなわち、私が多治見市民として生活することにおいて、垂直の次元に直面せざるを得ないような瞬間がないとは言えない。例えば、沖縄の米軍基地の県外移設先として多治見市近郊が選ばれるような場合。その瞬間、市民生活の平穏無事な安心安全のみを専一に考えるか、それともそうした水平的利害(幸福)を超える次元へと突き抜けて判断するか、そこに「多治見市民」が私にとって究極的な賓辞になるかどうかの岐路がある。「男」という水平的な賓辞についても同様だろう。究極的な賓辞をVorbildと見做せば、「自同律の不快」はあらゆる水平的な賓辞をディコンストラクトしていくことで、それらが垂直的な賓辞としての究極性に至る契機になる。Vorbildはそのようにして生まれるのではないか。

Vorbildの迷走(10)

通俗的に、Urbildを下部構造、Vorbildを上部構造、と理解することはできる。しかし、「下部構造が上部構造を規定する」と考えるなら、その類比は成り立たない。表層のVorbildならそう考えることもできるが、深層のVorbildにまでその規定は及ばないからだ。従って、深層のVorbildが生成AIによって生産されることなど原理的にあり得ない。とは言え、人それぞれの「なりたい自分になる」という夢として実感される表層を無視するつもりはない。むしろ、表層こそ現実だと思っている。これは「表層に流されるな!」という戒めと矛盾すると解されるかもしれないが、決してそうではない。単に表層に流されている人の現実が深層に根付いていないだけのことだ。ただし、その人の現実(表層)が深層に根付いているか否かを判断するのは至難の業だ。例えば、或る人の「なりたい自分」がアイドルである場合、それがマスコミのタレ流す虚飾の夢に酔わされているだけなのか、それとも自らの実存を懸けた理想を求めるものなのか、他者にはよくわからない。勿論、その人が育ってきた時代背景、家庭環境や教育事情などを分析すれば、「どうしてアイドルになりたいのか」という問いは或る程度解明されるだろう。しかし、諄いようだが、その解明も表層にとどまる。そこから表層を突き抜けて、深層にまで至ろうとするかどうかは偏にその人の生き方による。実際、深層を意図的に拒絶して、表層を漂い続けるのも一つの生き方には違いない。もしかしたら、その方が幸福な人生に近いのかもしれない。パラダイスは表層に宿る。言うまでもなく、私自身は敢えて表層を突破して、可能な限り深層のVorbildを求める道を踏破したいと思っている。それは表層の夢の次元を超えて深層の理想の次元を切り拓くユートピアへの道でもある。果たして、「この道」に多くの人を魅了する力があるだろうか。おそらく、表層のVorbildなら生成AIによっていくらでも生産できるだろう。そして、それらはいくらでも魅力的なものにすることができる。パラダイスはAIによっても、いやAIによってこそ実現される。「なりたい自分になる」という夢のパラダイスと「本当の自分になる」という理想のユートピア。Vorbildの迷走は終わりそうにない。

Vorbildの迷走(9)

「職業芸術家は一度亡びねばならぬ」とは賢治の言葉だが、これは如何なる意味か。かつて日本に職業野球が始まった頃、熊本工業の川上哲治と吉原正喜のバッテリーも勧誘されたが、当初は難色を示したと言われている。純粋な青春の情熱を懸けてきた神聖な野球を金儲けの道具になどできないと思ったからだ。しかし、結局は職業野球の一員になることに同意し、東京巨人軍に入団した。彼等は金の力に屈服したのであろうか。決してそうではない、と私は思う。彼等は野球を労働としてではなく、仕事として選んだのだ。食うための労働と自己を活かすための仕事。前者を肉体の糧を求める表層、後者を魂の糧を求める深層、と理解してもいいだろう。勿論、両者は表裏一体であり、どちらが欠けても人生は成り立たない。しかし、ここでは深層を失って表層だけに流される人生の空虚さを問題にしたい。先の賢治の言葉の真意もその辺りにあるのではないか。すなわち、一度亡びねばならぬ職業芸術家とは深層を失った芸術家に他ならない。ここに賢治の言う「農民芸術」の真意もある。つまり、厳しい労働に明け暮れる農民の生活も決してその深層を忘れてはならない、ということだ。ただし、それは農作業の後に詩を書いたりヴァイオリンを弾いたりするような柔なことに尽きるものではない。そんなところに本当の「農民芸術」はない。むしろ、米作りなら米作りに集中すること、米作りそのものを一つの芸術活動にまで高めることにこそ「農民芸術」は真に実現する。言うまでもなく、それはあらゆる職業について言えることだ。表層においてどんな職業をVorbildとしてもいい。しかし、断じて深層を忘れてはならない。他者の目には下らない職業に映っても、そこには必ず深層がある。問題は、その深層を如何にして判断するか、ということにある。繰り返し述べているように、深層のVorbildはUrbildと密接に関係している。このUrbildの理解においてAIを活用することは極めて有効であろう。例えば、「日本人の元型」を発掘する仕事(民俗学的、精神分析学的、人類学的など)に当たって生成AIはそれなりの成果を上げるに違いない。しかし、そのようにして発掘されたUrbildと深層のVorbildの間には質的断絶がある。AIはその断絶を越えられない、と私は考えている。何故か。

Vorbildの迷走(8)

最近、芥川賞作家が生成AIを活用したことが話題になった。何が問題なのか。すでに将棋、投資、医療など、様々な分野でAIが積極的に活用されている。もはや人は情報処理能力ではAIに勝てなくても、芸術創造だけは例外だと言えるのか。すでに生成AIによってレンブラントや手塚治虫の「新作」がつくられているが、それは「芸術作品」に値するのか。そもそも芸術とは何か。その厳密な定義をここで試みるつもりはない。ボンクラの私にはそれを試みる能力が欠けている。ただ、Vorbildに関連して言えば、棋士がAIを活用して膨大な棋譜を集積・分析するように、古今東西の芸術作品からカッコイイ主人公を集積・分析して、多くの人が等しく感動できるVorbildをつくることは可能なような気がする。と言うより、そんなことはすでにGAFAなどによって周到に行われているだろう。すなわち、「どんな書籍・音楽・絵画が売れるか」という消費者の嗜好を徹底的に調査・分析した上での商品開発だ。更に言えば、消費者の欲望を意図的に掻き立て、自分たちの商品が売れるような嗜好を生み出すことさえ行われている。「表層に流される」とは正にそういうことだろう。おそらく、表層のVorbildの作成は今後益々AIに依存していくと思われる。しかし、それは商品においては不可避の流れではあっても、芸術作品においてはどうか。芸術作品もまた商品にすぎないのか。言うまでもなく、芸術の厳密な定義についてと同様、今の私に商品の本質の分析に深入りする余裕はない。ただし、「芸術作品は聖なるもの、商品は俗なるもの」という程度の区別でお茶を濁すつもりはないが、芸術作品の価値は深層のVorbildにまで切り込んでいくべきだと私は考えている。商品価値に深層は必要ない。むしろ、邪魔だ。従って、AIは表層の商品開発には極めて有効だが、深層の芸術創造においては必ずしもそうではない、と取り敢えず言うことができる。それとも、今やAIの力は深層にまで及んでいるのであろうか。

Vorbildの迷走(7)

私は「Vorbildなき次元」を問題にしているが、正確には「真のVorbildが失われた次元」とするべきであった。現実には様々なVorbildが乱立している。かつて家父長制が安泰であった時代には、Vorbildは家長によって絶対的に(有無を言わさず)決定された。ただし、それが有効なのは男子(特に長男)に対してだけであって、女性はその対象にはならない。鄙見によれば、女性のVorbildは「幼にしては父兄に従い,嫁しては夫に従い,夫死しては (老いては) 子に従う」という三従に基づく良妻賢母に限られる。勿論、かかる理不尽な制度は崩壊し、今や男女の別なく誰でも自由に自分のVorbildを求められるようになった。多様性の時代の到来だ。しかし、本当に我々は自由だろうか。法的根拠は消滅したとは言え、「家」の力は健在だ。もはや父親にかつての威光はないものの、「家」に束縛されている人は決して少なくない筈だ。「親ガチャ」もそうした束縛の一つと考えることもできる。音楽家に憧れても、ピアノが買えない貧しい「家」に生まれてはどう仕様もない。また、生来の身体能力(障害も含む)による束縛もあるだろう。実際、誰もが「なりたい自分」になれるわけではない。しかし、水平的要因(経済的にせよ、身体的にせよ)によって束縛される次元に真のVorbildはない。これは決して「なりたい自分」になれないことの自己正当化ではない。真のVorbildは「なりたい自分」の次元を超えている。つまり、「本当の自分」になる次元だ。私がここで問題にしたいのは、その次元における自由に他ならない。果たして、人には「本当の自分」になる自由があるだろうか。最近の脳科学は「人に自由意志などはない」と喝破しているが、本当にそうか。「本当の自分」さえ、結局は何かの影響(刺激)によるものにすぎないのか。

Vorbildの迷走(6)

書道がその典型だが、道の最初には必ず先生の手本がある。生徒はその手本を忠実に学ぶことから書の道を歩み始める。茶道、華道、剣道、柔道でも基本的には同じだろう。初めに型ありき。型を習得しなければ「形無し」になる。しかし、型に束縛されてばかりいると「型破り」にまで至らず、道を極めることはできない。始源の型を学び、やがて「型破り」を経て「新しき形」を生み出す。型をUrbildだとすれば、新しき形はVorbildだと理解することができる。UrbildとVorbildの関係、もしくは両者の間での運動にこそユートピアの問題、すなわち未だない「どこにもない場」を如何にして新しき形である「場所」として実現するか、という問題がある。これは単なる社会論(国家論)の問題ではなく、自分が本当の自分になるという人生論でもある。水平的な社会論と垂直的な人生論は螺旋的に絡み合っていると考えるべきだろう。従って、ドラマなどのカッコイイ主人公に影響されて、そこに「サウイフモノニワタシハナリタイ」というVorbildを見出すとしても、その深層にあるUrbildについて考えることを忘れてはならない。カッコイイだけの表層に流されるのは「形無し」の愚だ。とは言え、事はそんなに簡単ではない。「なりたい自分になる」という夢は誰でも懐く。しかし、その夢と「本当の自分なる」という理想との間には質的断絶がある。この断絶に直面して、Vorbildは迷走を余儀なくされる。