Vorbildの迷走(9) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

Vorbildの迷走(9)

「職業芸術家は一度亡びねばならぬ」とは賢治の言葉だが、これは如何なる意味か。かつて日本に職業野球が始まった頃、熊本工業の川上哲治と吉原正喜のバッテリーも勧誘されたが、当初は難色を示したと言われている。純粋な青春の情熱を懸けてきた神聖な野球を金儲けの道具になどできないと思ったからだ。しかし、結局は職業野球の一員になることに同意し、東京巨人軍に入団した。彼等は金の力に屈服したのであろうか。決してそうではない、と私は思う。彼等は野球を労働としてではなく、仕事として選んだのだ。食うための労働と自己を活かすための仕事。前者を肉体の糧を求める表層、後者を魂の糧を求める深層、と理解してもいいだろう。勿論、両者は表裏一体であり、どちらが欠けても人生は成り立たない。しかし、ここでは深層を失って表層だけに流される人生の空虚さを問題にしたい。先の賢治の言葉の真意もその辺りにあるのではないか。すなわち、一度亡びねばならぬ職業芸術家とは深層を失った芸術家に他ならない。ここに賢治の言う「農民芸術」の真意もある。つまり、厳しい労働に明け暮れる農民の生活も決してその深層を忘れてはならない、ということだ。ただし、それは農作業の後に詩を書いたりヴァイオリンを弾いたりするような柔なことに尽きるものではない。そんなところに本当の「農民芸術」はない。むしろ、米作りなら米作りに集中すること、米作りそのものを一つの芸術活動にまで高めることにこそ「農民芸術」は真に実現する。言うまでもなく、それはあらゆる職業について言えることだ。表層においてどんな職業をVorbildとしてもいい。しかし、断じて深層を忘れてはならない。他者の目には下らない職業に映っても、そこには必ず深層がある。問題は、その深層を如何にして判断するか、ということにある。繰り返し述べているように、深層のVorbildはUrbildと密接に関係している。このUrbildの理解においてAIを活用することは極めて有効であろう。例えば、「日本人の元型」を発掘する仕事(民俗学的、精神分析学的、人類学的など)に当たって生成AIはそれなりの成果を上げるに違いない。しかし、そのようにして発掘されたUrbildと深層のVorbildの間には質的断絶がある。AIはその断絶を越えられない、と私は考えている。何故か。