Vorbildの迷走(5)
『仮面ライダー』のドラマを観て、「仮面ライダーになりたい!」と感じるのは子供だけだ。大人はそんなバカなことは考えない。ただし、仮面ライダーはバカな子供にとってはVorbildになる。利口な大人にはそうではない。しかし、大人になっても「仮面ライダーのように悪人をやっつけたい!」と思うことはできる。その場合、仮面ライダーは大人にとっても広義のVorbildになる。つまり、悪人をやっつける弁護士や警察官などがその大人にとっての仮面ライダーになるわけだ。私が鼻をつまみながらでも、玉石混淆、様々なドラマを観続けている理由はそこにある。勿論、古今東西の芸術作品に描かれてきたVorbildを無視するわけではない。しかし、ここでは私自身も含めた大衆の感性に訴えるVorbildを問題にしたい。例えば、古くは『ベン・ケーシー』を見て医者を志す、『ペリー・メイスン』を観て弁護士を志す、というように、Vorbildは一般的に職業として描かれることが多い。そこには「スポ根ドラマ(アニメ)」を観て、プロ野球選手やJリーガーに憧れる場合も含まれる。最近では半沢直樹や花咲舞などの熱血銀行員、ダンダリン(段田凛)のような労働基準監督官、更には地味な徴税吏員までドラマの主人公になっている。他にも消防隊員、自衛官、料理人(パティシエも含む)、アイドルなど、大衆が憧れる職業を挙げればキリがない。そうした様々な主人公が活躍するドラマを観て、それぞれの職業にVorbildを見出すのは珍しくない。しかし、厳密に言えば、そうした職業の次元に本当のVorbildはない。そもそも運よく憧れの職業に就ければいいが、大半の人はその夢を叶えることができない。また夢が叶った場合でも、例えば医者になるという夢が叶っても、自分がVorbildに値する医者になれるかどうかは別問題だ。すなわち、真のVorbildは「憧れの職業」という夢の次元を超えている。残念ながら、凡百のドラマは夢の次元を超えることはない。殆どは夢を描くことがドラマの本質であるかのような錯覚に満ちている。それでもいつか夢の次元を超える一瞬に出会えるのではないかという一縷の望みを懐いて、私は凡百のドラマを観続けている。私は無駄な労力を費やしているだけなのか。
Vorbildの迷走(4)
昨日の便りで問題にしたテーマは『不適切にもほどがある!』というドラマにも見出せる。こちらは最近流行りのタイムスリップもので、やはり昭和の価値観に凝り固まったおっさんが令和にタイムスリップして、そこで正に「不適切にもほどがある」所業を繰り広げるというコメディだ。バスでもレストランでも所かまわずタバコをスパスパ吸いまくるなど、今では到底あり得ない行為の連続だが、意外にもドラマの評判はなかなか良いようだ。人気脚本家・宮藤官九郎の作品ということもあるだろうが、それだけではないように思われる。鄙見によれば、大衆は数多くの社会的規範に雁字搦めにされた令和の現代社会に内心ウンザリしており、その鬱屈した感情が昭和からタイムスリップしてきたおっさんの傍若無人な振る舞いによって少なからず解放されているのではないか。勿論、だからと言って、「昭和の昔はおおらかで良かった」ということにはならない。そのおおらかさを敷衍していけば、戦前は良かった、明治は良かった、江戸時代は良かった、今年の大河ドラマは紫式部が主人公だが、平安時代は良かった、などということにもなりかねない。過去はいつだって美化される。もとより公共の場所での禁煙の徹底、差別語の撤廃、多様性の尊重などが悪い道理はない。実際、未だ完璧には程遠いものの、昔と比べれば今の社会はあらゆる面で飛躍的に清潔になった。黴菌がウヨウヨしているような不潔な場所が徹底的に殺菌され、やがて無菌状態になる。それは基本的には望ましいことだろう。しかし、本当にそうだろうか。キレイすぎる社会に息苦しさを感じ、ゴミゴミした猥雑な場所にやすらぎを感じることはないか。たといそうだとしても、暴力や不適切なことが蔓延る昔の社会への逆戻りが望まれるべきでないのは当然だ。そこには二律背反を孕んだ極めて困難な問題があるが、ここでは取り敢えず一つだけ明言しておきたい。それは「キレイすぎる社会からはVorbildは生まれない」という現実だ。さりとて汚れた社会を要するわけではない。Vorbildは決して穢れたものではないが、同時に単なる清潔さも超えている。この現実を如何にして理解すべきか。
Vorbildの迷走(3)
未だ完結していないが、『おっさんのパンツがなんだっていいじゃないか!』というドラマがある。昭和の価値観に凝り固まったおっさんが家庭でも職場でも孤立を深め、一念発起して令和の価値観へと「アップデート」するという内容だ。その「アップデート」の一つにLGBTQへの理解があるが、おっさんはゲイの友人のパートナーに対してアウティングという失敗を犯してしまう。アウティングとは「本人の了承を得ずにその人の性的指向などを公表すること」らしいが、おっさんに悪気はない。むしろ、自分にはゲイに対する偏見がないことを示そうとしただけだ。しかしパートナーは激しく怒り、おっさんに対して「あなたにはゲイであることの苦しみが全くわかっていない。アウティングされて自殺した人だっているんだぞ!」と吐き捨てる。私はこのシーンを目にして、「ゲイであることがそんなに偉いのか」と思ってしまった。私もまたゲイに対する偏見から解放されていないのか。そうでないとは言い切れないが、問題はおそらく偏見ではない。突飛なことを言うようだが、先の私の言葉は「トキ(鴇)であることがそんなに偉いのか」という思いに通じている。トキが絶滅に瀕している貴重な鳥であることは理解している。しかし、余りにも特別視されていることには反感を禁じ得ない。それは過剰にチヤホヤされているペットについても言えることだ。一体、何様のつもりだ。特別視も差別の一種ではないか。話をゲイに戻せば、確かに今の社会においてゲイとして公然と生活することには様々な苦しみが伴うに違いない。その苦しみには私の想像を絶するものがあるだろう。私はその現実を認める。しかし、それでも「私はゲイです。取り扱いには十分注意してください」と特別視を他者に要求するのはおかしいではないか。「ゲイであること」に自らのアイデンティティを見出すのはその人自身の問題だ。私には関係ない。ただし、その人のゲイとしてのアイデンティティが偏見に晒されるような社会は共に変革していきたいと思う。何れにせよ、そこに私が今思耕しているVorbildの問題はない。社会的理解を求めてゲイとして生きる闘いはVorbild以前の問題だ。
Vorbildの迷走(2)
アイドルや推しは一般的にVorbildではない。質的に異なっている。ただし、先日K-POPアイドルに憧れて韓国で練習生としての厳しい日々に耐えている人のドキュメンタリイを観たが、この場合のアイドルはVorbildになる。すなわち、「自分自身もそうなりたい」と心から思えるようなアイドルはVorbild足り得る。逆に言えば、自分自身とは一線を画して遠く仰ぎ見るような存在としてのアイドルはVorbildではない。従って、推しは熱狂的なファンの憧れの対象、応援の対象ではあっても、Vorbildにはなり得ない。Vorbildは人が自らの実存の可能性を前向きに懸けられる存在なのだ。とは言え、アイドルは偶像であり、本来Vorbild足り得る存在ではない。つまり、厳密に言えば、Vorbild足り得るアイドルはもはや偶像ではない。ここで一応、アイドルや推しは原則としてVorbildになり得ないことを改めて確認しておきたい。しかしながら、現実の世界では様々な存在が恰もVorbildであるかのように機能している。例えば、大谷翔平というスーパースターは多くの野球少年たちにとってVorbildであろう。勿論、誰もが大谷翔平になれるわけがなく、むしろ殆どの人にとって大谷翔平はアイドルや推しにとどまる。大谷翔平を自らのVorbildにできる人にはそれなりの才能の裏付けが必要になる。しかし、Vorbildになる対象は何も大谷翔平のような特別な才能をもつ天才に限られない。誰にもクニモサレズ、ホメラレモセズ、イツモシヅカニワラッテヰル「デクノボウ」もVorbild(サウイフモノニナリタイ存在)になる。Vorbildとは一体何か。
Vorbildの迷走
私は基本的に、他人の迷惑にならなければ人はどんな生き方をしてもいいと思っている。どうせ限られた人生だ。自分の好きなように生きればいい。しかし、「自分の好きなように生きる」とは如何なることか。自分自身のことを振り返ってみれば、幼い私は最初、マンガ家になりたいと思った。しかし、自分に絵の才能がないことに気づかされると早々に諦めた。次にプロ野球の選手になりたいと思った。野球の才能はあると思ったが、これも錯覚にすぎないことが暫くして明らかになった。結局、挫折した。すると、「自分の好きなこと」について改めて考えざるを得なくなった。自分の本当に好きなことは何か。それは自然に決まるものなのか。そうだとしても、人間の自然性はすでに壊れている。かつて或るフォークシンガーは「自然に生きているってわかるなんて、なんて不自然なんだろう」と歌ったが、自然に感じているようで実はそうではない。少なくとも私は、それまで「自分の好きなこと」だと自然に感じていたことが全て何かの影響によるものだったことに気がついた。マンガ家になりたいという「感じ」は手塚治虫の影響だし、プロ野球選手は長嶋茂雄の影響だ。確かに、その当時において、手塚治虫も長嶋茂雄も私のVorbildであった。しかし、今はそうではない。「感じ」は永続せず、全く当てにならない。だから、私は考えることにした。徹底的に考えることにした。かくして私の「判断力批判」が始まった。ただし、殊更難しく考える必要はない。イデア論の復讐に抗するためにはカントの三批判書の復習が不可欠だとしても、ここでは極力日常生活に即して思耕したい。我々の人生行路におけるVorbildは如何にして形成されるのか。それはUrbildと如何に関係するのか。
分岐点への反論
「美しい花がある。それでいいじゃないか。オレが目の前のこの花を見て美しいと感じる。それが全てだ。理屈じゃない。少なくともオレはこの花がどうして美しいと感じられるのかなどと考えはしない。それは考え過ぎというものだ。考えは百害あって一利なし。君は薔薇を美しいと感じ、オレは蓮華を美しいと感じる。されど仲良き。比較は必要ない。ナンバーワンを決めなくてもいい。薔薇も蓮華も他のどんな花も、全てオンリーワンだ。花の美しさなんてことを考えるから、ナンバーワンの美しさを決めたくなる。花の美しさという考えがナンバーワンを競い合う争いを始めると言ってもいい。だから、考えは棄てよ!美しい花がある。ただその感覚だけを信じて生きよ。」
この主張は一つの理想を表現している。もし始源の楽園というものが実在していたとすれば、おそらくこうした自らの感覚だけを信じて生きる人たちの世界であっただろう。しかし、神話によれば、この始源の人たちは知恵の木の実を食べてしまった。つまり、「考え」を持ってしまった。そのために始源の楽園は失われた。そして歴史が始まった。「既にあるもの」に安住せず、「未だないもの」を求める「考え」が歴史を始動させたと言ってもいい。これは過誤の歴史であったのか。もしそうなら、それを停止させるためには「考え」を棄て去るしかない。果たして、それは可能であろうか。この問いを以て、道は二つに分かれる。何としてでも「考え」を棄てて始源の楽園に回帰しようとする道が一つ。もう一つは「考え」を駆使して新たな楽園を創ろうとする道だ。前者は自然楽園としてのアルカディアへの道、後者は人工楽園としてのパラダイスへの道と理解することができる。あれか、これか。あれも、これも。あれでもない、これでもない。迷いは尽きない。
多様性に関する反時代的考察
最近のドラマを観ていると、LGBTQに関連したテーマが多くなったような気がする。その大半において、性的マイノリティの苦悩を理解しない一般社会との軋轢が描かれる。そして、そこではほぼ例外なく性的マイノリティの「正しさ」が主張される。私はその「正しさ」を批判するつもりはない。むしろ、これまでの抑圧の現実を明らかにすることには重大な意味があると思っている。そうした抑圧の現実に対する性的マイノリティの人たちの闘いは正しい。そこに疑念はない。しかし、その「正しさ」には違和感を禁じ得ない。何故か。私もまた、性的マイノリティを抑圧する側の人間なのか。決してそうではない、と私自身は考えている。ただし、それはあくまでも「考え」の次元であって、感覚の次元ではよくわからない。この「よくわからない」という「感じ」が違和感に通じている。そもそも性的マイノリティの「正しさ」は感覚に根差している。すなわち、「男は男らしく、女は女らしく」という「考え」に対して、「男であっても女らしいものに魅せられ、女であっても男らしいものに憧れる」という「感じ」を主張するところに性的マイノリティの「正しさ」がある。鄙見によれば、この「正しさ」は性的マイノリティに限られるものではなく、一般的な現代人(殊に若者たち)の「正しさ」は「好きなものは好き、嫌いなものは嫌い」という率直な「感じ」(feeling)によって決定されている。文学、絵画、音楽、映画などの芸術の評価も例外ではない。全てにおいて好き嫌いの「感じ」が支配している。その支配の下では「何故好きなのか、どうして嫌いなのか」と深く考えることは野暮だとされる。流行遅れだと嗤われる。だから皆、考えることを放棄している。その方がカッコイイ。クールだ。私はこうした感覚至上の時代の流れに「何かが違う」と考えざるを得ない。厳密に言えば、その「考え」も違和感にすぎないのかもしれないが、私は敢えて区別したい。勿論、性的マイノリティの「正しさ」が感覚に根差すものだとしても、その個性的な感覚は無視できない。少なくとも、浅薄なものではないだろう。しかし、感覚的な「正しさ」が全てではない。そこに安住する前に、「男らしさ、女らしさとは何か」と徹底的に考える必要があるのではないか。と言うのも、性的マイノリティの人たちが反撥を感じている「男は男らしく、女は女らしく」という「考え」は陳腐なステレオタイプに基づくものであり、そこでの「男らしさ、女らしさ」というVorbildは更なる思耕を要する恣意的なものにすぎないからだ。つまり、未だ真のVorbild足り得ていない。確かに、先の便りでも述べたように、現代社会は「Vorbildなき次元」と化している。男らしさ、女らしさ、父親らしさ、母親らしさ、教師らしさ、学生らしさ、そして人間らしさ――全てVorbildとしての意味を喪失している。だからと言って、「ナンデモアリの世界」に安住してはならない。「ナンデモアリの世界」と「多様性を尊重する世界」は質的に異なっている。私はそう考えざるを得ない。これもまた、時代の流れに逆行する抑圧的な「考え」にすぎないのか。
アリョーシャの忠告
正確な記憶ではないが、アリョーシャ・カラマアゾフは大略「生の意味を問う前に、生を愛さねばなりません」と兄のイヴァンに忠告していたように思う。大切な忠告として今も私の胸に深く刻み込まれている。しかし、それにもかかわらず、私はその逆を生きている。生を愛するために生の意味を問うている。生に限らず、何かの意味を問えば必ずイデア論の魔宮に迷い込む。イデア論は迷宮であり、同時に底なしの沼でもある。そこに迷い込んだら最後、死ぬまで脱け出せない。いや、死後にも何らかの世界があるならば、おそらく死んでからもそこで迷い続けることになるだろう。地獄は一定すみかぞかし。それにしても私はどうしてイデア論などという地獄に生きることを選んだのか。今となってはよくわからない。そんなことをしてもホメラレモセズ、クニモサレズ、大半の人は喜ばない。殆ど誰も救えない。地獄を棲み処とすることに一体何の意味があるのか。すでにこの問い自体が地獄の証だが、私の求めるユートピアはイデア論なくしてあり得ない。アリョーシャには申し訳ないが、その忠告に反して私はイヴァンと同じ運命 を辿ることになるだろう。すなわち、神様が創造されたUrbildに基づく調和の国への入場券を返上し、この世界に生きる意味をラディカルに問い続ける運命だ。
イデア論の復讐
「美しい花がある。花の美しさというものはない」と或る高名な批評家は喝破したが、これは単なるイデア論の否定にすぎないのか。「美しい花がある」という現実だけを直視して生きよ。それはそれで実に潔い生き方だが、そのためには「どうしてその花が美しいのか」という問いを完全に封じ込めねばならぬ。問うたが最後、「花の美しさ」について考えざるを得なくなる。従って、「美しい花がある」という現実に徹して生きるためには、「花の美しさ」の意味を問うこと、更には考えること自体を滅却する必要がある。色即是空、空即是色。とすれば、これは結局「Don’t think. Feel it.」というブルース・リーの教えと同じではないか。それだけのことか。私はそうは思わない。いや、その生き方を否定するつもりはないが、私はむしろ逆に思耕に徹する生き方を選ぶ。かつては「denkenの修羅場を潜る」ことがカッコイイとされたが、最近は何かというとFeeling重視の軽やかな生き方がもてはやされている。確かに、Thinkingは重い生き方として敬遠されるのが現代の風潮だ。しかし、その敬遠が過ぎて、生き方が軽薄になっているのではないか。軽やかな生き方と軽薄な生き方は全く違う。私は愚か者だが、軽薄には生きたくない。だから、時代遅れとか空気が読めないとか嗤われても、私は思耕に徹する。軽やかな幸福に見放されても、敢えて重い生き方を厭わない。とは言え、現実逃避をするわけではない。それにいくら「美しい花がある」という現実に徹して生きようとしても、現実は否応なくUrbildとVorbildに引き裂かれてしまう。私はそこにイデア論の復讐を見出す。観念論だの空想主義だのとバカにされてきたが、どっこいIdealismusは理想主義として粘り強く生きている。殺されても死なない。たとい死んでも化けて出る。
模範(Vorbild)なき次元
美容整形手術などの人為的操作によって美しい顔とスタイルを手に入れることは可能だ。それは果たして生まれついた構造からの自由を意味するだろうか。美しい顔とスタイルを自らの本質としたい人にとってはそうかもしれない。しかし、それは人の本質を衣服と考えることにすぎず、根源的に間違っている。『衣服哲学』の著者であるカーライルはフィヒテの哲学に基づいて次のように述べている。
「この地上で私たちが目にし、あるいは共に働いている一切のもの、殊に私たち自身と全ての人は、言わば一種の衣服、あるいは感覚的現象であって、その全てのものの陰に、その本質として、フィヒテの所謂「世界の聖なる理念」が存在する、これが万象の根柢に横たわる実在である。大衆には、このような聖なる理念はこの世では認められない。それは、フィヒテによれば、彼らがその奥に聖なるものの在ることを夢想だにせず、徒に世の中の皮相浅薄なもの、実利的なもの、及び外見の中に生きているからである。」
もとより美しい顔とスタイルが自らの本質であれかしと願うのはその人の自由であり、それを人為的に獲得することで幸福になれるのなら他人がとやかく言う必要はない。しかし、本質と構造に関連して、私がここで問題にしたいのは「美しい顔とスタイルとは何か」ということだ。美白とよくいわれるが、それ以外の色の肌は美しくないのか。一般的にスリムな体形が好まれるが、それ以外のスタイル(例えば太った体形)は美しくないのか。おそらく、大衆がなりたい「美しい顔とスタイル」は人気アイドルなどの顔とスタイルであろう。それが大衆の望む「美しい顔とスタイル」の模範(Vorbild)になっている。しかし、この模範は極めて恣意的であり、何ら本質的なものではない。少なくとも、美の元型(Urbild)とは質的に異なっている。鄙見によれば、元型に構造を見出すことは可能だが、そこから模範を導き出すことには無理がある。美の模範は人それぞれに異なるのが現実だ。蓼食う虫も好き好き。さりとて美の多様性を容認すれば、美の模範は実質的にその存在理由を失うだろう。個々に異なる模範など模範として機能しないからだ。そこには何らかの共通性に基づく合意がなければならない。では、多くの大衆が憧れるアイドルの美男美女に美の模範を見出すしかないのか。勿論、そのような偶像崇拝を私は認めることができない。しかし、如何にして大衆の偶像崇拝と戦えばいいのか。それは模範なき次元において本当の模範をつくっていく戦いに等しい。実に困難な戦いではあるが、それ以外にこの世界から美の理想(本質)を救い出す道はない。