多様性に関する反時代的考察 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

多様性に関する反時代的考察

最近のドラマを観ていると、LGBTQに関連したテーマが多くなったような気がする。その大半において、性的マイノリティの苦悩を理解しない一般社会との軋轢が描かれる。そして、そこではほぼ例外なく性的マイノリティの「正しさ」が主張される。私はその「正しさ」を批判するつもりはない。むしろ、これまでの抑圧の現実を明らかにすることには重大な意味があると思っている。そうした抑圧の現実に対する性的マイノリティの人たちの闘いは正しい。そこに疑念はない。しかし、その「正しさ」には違和感を禁じ得ない。何故か。私もまた、性的マイノリティを抑圧する側の人間なのか。決してそうではない、と私自身は考えている。ただし、それはあくまでも「考え」の次元であって、感覚の次元ではよくわからない。この「よくわからない」という「感じ」が違和感に通じている。そもそも性的マイノリティの「正しさ」は感覚に根差している。すなわち、「男は男らしく、女は女らしく」という「考え」に対して、「男であっても女らしいものに魅せられ、女であっても男らしいものに憧れる」という「感じ」を主張するところに性的マイノリティの「正しさ」がある。鄙見によれば、この「正しさ」は性的マイノリティに限られるものではなく、一般的な現代人(殊に若者たち)の「正しさ」は「好きなものは好き、嫌いなものは嫌い」という率直な「感じ」(feeling)によって決定されている。文学、絵画、音楽、映画などの芸術の評価も例外ではない。全てにおいて好き嫌いの「感じ」が支配している。その支配の下では「何故好きなのか、どうして嫌いなのか」と深く考えることは野暮だとされる。流行遅れだと嗤われる。だから皆、考えることを放棄している。その方がカッコイイ。クールだ。私はこうした感覚至上の時代の流れに「何かが違う」と考えざるを得ない。厳密に言えば、その「考え」も違和感にすぎないのかもしれないが、私は敢えて区別したい。勿論、性的マイノリティの「正しさ」が感覚に根差すものだとしても、その個性的な感覚は無視できない。少なくとも、浅薄なものではないだろう。しかし、感覚的な「正しさ」が全てではない。そこに安住する前に、「男らしさ、女らしさとは何か」と徹底的に考える必要があるのではないか。と言うのも、性的マイノリティの人たちが反撥を感じている「男は男らしく、女は女らしく」という「考え」は陳腐なステレオタイプに基づくものであり、そこでの「男らしさ、女らしさ」というVorbildは更なる思耕を要する恣意的なものにすぎないからだ。つまり、未だ真のVorbild足り得ていない。確かに、先の便りでも述べたように、現代社会は「Vorbildなき次元」と化している。男らしさ、女らしさ、父親らしさ、母親らしさ、教師らしさ、学生らしさ、そして人間らしさ――全てVorbildとしての意味を喪失している。だからと言って、「ナンデモアリの世界」に安住してはならない。「ナンデモアリの世界」と「多様性を尊重する世界」は質的に異なっている。私はそう考えざるを得ない。これもまた、時代の流れに逆行する抑圧的な「考え」にすぎないのか。