新・ユートピア数歩手前からの便り -37ページ目

補足:本質と構造

実存主義の熱狂が過ぎ去ると、今度は構造主義がやって来た。「実存は本質に先立つ」という無神論(本質を与えてくれる神の死)は人に自由をもたらしたが、それは呪われた自由だった。本質から解放されたのも束の間、それは新たな本質を求めての果てなき旅への第一歩となったからだ。目的地の見えぬ過酷な旅の始まりだった。そこに構造というものが現れた。構造は新たに見出された神なのだろうか。「実存は本質に先立つが、構造に根付いている」と言えるのか。本質と構造は何が違うのか。「瓜の蔓に茄子はならぬ」と言われるが、そもそも瓜の種に茄子はならない。この場合、瓜の種は瓜の本質であると同時に構造であると考えられる。瓜は瓜以外の何かになることができない。尤も、突然変異というものはあるかもしれないが、それは瓜の意志ではない。では、人の場合はどうか。人にも種がある。両親のDNAが受け継がれた種がある。髪や肌の色など、身体的特徴は種によって或る程度決定されている。性格や性癖もそうかもしれない。しかし、人はヒトを超えることができる。ヒトは種にインプットされた構造に支配されていても、その支配はどういう人になるかという本質にまでは及ばない。ただし、構造はチョムスキーの生成文法のように、かなり柔軟性に富んだ変換を可能にする。例えば、コトバを話す能力の構造はヒトの生まれ育つ環境で様々な人の言葉を生み出す。日本人の両親から生まれた子供が必ずしも日本語を母語とするとは限らない。極端な場合ではあるが、日本人である両親がアメリカで生活し、英語だけを日常語として子供を育てれば、その子供の母語は英語になるだろう。日本人の構造にとって日本語は必然ではない。極端な場合と言ったが、在日の人たちには珍しいことではないかもしれない。韓国人(朝鮮人)でありながら韓国語(朝鮮語)が話せない人はいくらでもいる。しかし大人になって、自らの本質を求める過程で韓国語(朝鮮語)を自らの意志で学び始めるということはあるだろう。その時、韓国語(朝鮮語)は在日の人たちの構造を超えて本質となるのではないか。場が場所になる構造は確かにある。民俗学や精神分析学が歴史の奥底から掴み出そうとしているのはそうした構造だ。しかし、その場所を自分の本質とするには別の活動が要請されると私は考えている。

補足:理想と現実

理想と現実の間には質的断絶がある。必ずズレる。「深層のふるさと」と「表層の故郷」も例外ではない。ただし、「深層のふるさと」は「どこにもない場」なので、厳密に言えば、ズレとは違う。ズレは一つのあるものと別のあるものとの間に生じるものだからだ。ないものとあるものとの間に生じるものはズレではない。従って、「深層のふるさと」という理想が「表層の故郷」として現実化される時に生じる違和感はズレではない。では、何か。例えば、絵を描くとする。芸術的才能のある人ならば素晴らしい絵が描けるが、絵心のない人には描けない。一般的に言えば、前者は「描こうとした絵」と「現実に描いた絵」が一致し、後者はズレがあると理解される。しかし、「描こうとした絵」は「未だないもの」なので、両者共にズレは問題になり得ない。ズレは、予め「描くべき手本となるような絵」、すなわちオリジナルがあって、それに少しでも一致するように描こうとする場合にのみ生じる。つまり、芸術的才能のある人はオリジナルとのズレが殆どないように描くことができるのに対し、絵心のない人は大きなズレが生じてしまう、ということだ。それ故、この場合の芸術的才能は単にオリジナルに一致させる技術(模写)にすぎず、何ら本質的なものではない。しかし、私がここで問題にしているのは「オリジナルがない次元」での無からの創造なのだ。オリジナルがないから、最初からズレは問題にはならない。サルトルは人間の「実存は本質に先立つ」と言ったが、我々はオリジナル(神の設計図)が失われた次元で「人間の本質」をつくらねばならない。そこに理想を現実化する困難さがある。「深層のふるさと」が理想として意識されるとしても、それはあくまでも「どこにもない場」なので、ズレとは質的に異なる何かが問題になる。その「ズレとは質的に異なる差異性」の究明がユートピア実現に向けての今後の課題になるだろう。

補足:「表層の故郷」

昨日の便りの書き方では、「表層の故郷」は非本質的なものにすぎないという印象を残したかもしれない。それは誤解だ。「表層の故郷」は第二義の接触によるものだが、決して取るに足りないものではない。もとより「深層のふるさと」が根源的なものであることは間違いないが、そこでの第一義の接触は言わば「未だ主もなく客もない純粋経験」であって、そのままでは可能態にすぎない。その純粋経験が一つの経験に実定化されて初めて、「深層のふるさと」は「表層の故郷」として現実態となる。それは「深層のふるさと」という「どこにもない場」が「表層の故郷」として一つの場所になることに他ならない。「表層の故郷」なくして「深層のふるさと」は画餅にすぎず、両者は不可分・不可同・不可逆であることを補足しておく。

ホームドラマの超克(10)

日本人が単一民族かどうかはさておき、そこには或る同一性があることは否定できない。それは法的な国籍とは質的に異なる次元にあり、民俗学や精神分析学が日本という場所に堆積した歴史の奥底(古層)から掴み出す(発掘する)ものだ。その深層にある同一性は実定化されない目に見えないものであり、実定化されて目に見える表層になると国民性とか日本人らしさとして意識されるようになる。法的な国籍が表層の一部であることは言うまでもない。ちなみにドナルド・キーンというアメリカ人は後年日本人になったが、それは単に法的な国籍という表層を突き抜けて深層にまで達するものだろう。それに対して、生まれも育ちも日本だという凡百の日本人の中には表層にとどまる者もいるに違いない。それでも集合無意識という深層はどんな日本人にもある。ただ意識されないだけだ。とまれ、こうした日本人であることの同一性における表層と深層の区別は、人間にとっての居場所を考えるためには不可欠だと私は考えている。問題を単純化して言えば、所謂「民族対立」などというものは、それぞれの表層の次元での争いにすぎないと思うからだ。確かに、これは問題の過度な単純化であり、楽観的に過ぎるかもしれない。しかし、最近のガザでの出口なき報復戦の報道に日々接していると、出口は深層にしかないと思わざるを得ない。問題は「深層への関心を如何にして喚起するか」だが、これは単にユダヤ人とアラブ人にだけ向けられたものではない。と言うのも、表層での関心にとどまるならば、日本人にとってユダヤ人とアラブ人の民族対立など所詮他人事(対岸の火事)にすぎないからだ。ガザやウクライナで起きていることが全世界の人間にとって真に切実な問題になるためには、どうしても深層において理解する必要がある。そうした「深層への関心」を喚起することは、私がこれまで繰り返し述べてきた「垂直の次元の立て直し」と密接に関係している。実際、表層と深層の関係は水平の次元と垂直の次元の関係に対応していると考えられる。では、この二重の関係をどう理解すべきか。私は瀧澤克己のインマヌエルの哲学を援用して次のように理解したいと思う。

深層:垂直の次元における第一義の接触の場

表層:水平の次元における第二義の接触の場所

人は通常、表層の場所で生活している。それが唯一の現実であるかのように。プラトンの洞窟を思い浮かべてもいい。自分の故郷だと思っている場所が表層にすぎないと自覚することは大切なことだ。その深層に私が聖なるもの(大津のように「玉ねぎ」と言ってもいい)と出会って本当の私になる魂のふるさとがある。私はこのように「表層の故郷」と「深層のふるさと」を厳密に区別したい。尤も、「厳密に」と言っても、「深層のふるさと」は不可視の「どこにもない場」なので、論理的に区別できるわけではない。ただ、「深層のふるさと」は私が聖なるものと出会う第一義の接触の場であるのに対し、「表層の故郷」はその出会いが実定化されたものとの第二義の接触の場所だと言えるだけだ。場と場所の関係は不可分・不可同・不可逆だ。更に重要なことは、「深層のふるさと」は全世界の人間の魂に通底しているという理想(イデア)に他ならない。言うまでもなく、私自身の「深層のふるさと」は日本という「表層の故郷」として実定化される。当然、日本人である私にとって韓国や中国は異郷となる。しかしながら、「深層のふるさと」という原点から洞察すれば、「表層の故郷」である日本もまた私にとっては異郷であることが明らかになるだろう。こうして世界中のあらゆる場所が異郷として意識される時、全世界の人間が共にそれぞれの「深層のふるさと」を祝祭的に実現していく道が切り拓かれる。それは畢竟、「表層の故郷」に束縛されたホームドラマを超克する道でもある。今はこんな杜撰な思耕しかできないが、ホームドラマにやすらぎの場所を見出して安穏としている平地人(水平的人間)を戦慄させる道をこれからもラディカルに摸索していきたいと思っている。

ホームドラマの超克(9)

人は居場所がなければ生きていけない。誰にでも生まれた場所はある。しかし、そこがホームという居場所になるかどうかは定かではない。最近は「親ガチャ」などという醜悪な言葉が横行しているが、残念ながらその現実は否定できない。先日、『透明なゆりかご』という産科の小さな医院を舞台にしたドラマの再放送を観たが、様々な出生の事情があることを改めて痛感した。大抵の場合、赤ん坊は両親の深い愛情に包まれてこの世に生を得るが、望まれない出生も少なくない。それでもアウスよりはマシだと思いたいが、結婚とは無縁の私にはよくわからない。ただ、無責任なことを言うようだが、どんなに悲惨な境遇でも生の切符は手に入れた方がいい。切符さえあれば、とにかく何処かには行ける。いや、やはり「死んだ方がマシだ!」という過酷な現実を知らぬ私に何も言う資格はない。だから、無責任を承知で「生の場所」から始めることにする。「死の場所」については取り敢えず判断停止だ。では、「生の場所」とは何か。そもそも場所は人にやすらぎをもたらすと同時に束縛するものとなる。やすらぎも束縛も共に同一性から生まれる。つまり、自分が他者と同一であるという意識がやすらぎにも束縛にもなる、ということだ。最初、やすらぎの場所は故郷と意識されるも、それはやがて束縛の場所に転化する運命にある。尤も、一生涯、生まれ故郷から一歩も外に出ることなく、そこをやすらぎの場所として幸福な人生を全うする人もいるだろう。それが一つの理想であることを私は否定しない。しかし、近代主義はそれを「未開(未熟)の理想」と見做し、旧態依然の故郷を束縛の場所に貶めてきた。故郷をやすらぎの場所とする自然主義が正しいのか、それとも故郷を束縛の場所とする近代主義が正しいのか。判断は人それぞれの自由にゆだねられているが、ここでは近代主義の運命を見極めたい。それは「近代の超克」という未完のプロジェクトと重なる。故郷=ホームという場所の力は、これまで数々のホームドラマを生み出してきた。その大半はやすらぎの場所の再発見を目的とするものだが、私はそこに巣食うマイホーム主義にホームドラマの限界を見出している。おそらく、故郷の普遍主義(あらゆる場所を自分の故郷と感じる)さえマイホーム中心の個人主義を克服できないだろう。ホームドラマは明らかに破綻している。いくらホームにやすらぎの場所を求めても、それは人の幸福にはなり得ても人間の究極的理想には程遠い。私は故郷の理想を一概に否定するつもりはないが、その理想に持続可能な輝きを与えるためには、その対極の理想との統合が不可欠だと考えている。故郷の本質が同一性にあるとすれば、その対極の本質は差異性にある。すなわち、異郷に他ならない。

ホームドラマの超克(8)

ここで有名な聖ヴィクトルのフーゴ―の言葉に改めて注目するのが妥当であろう。彼は次のように述べている。「故郷を甘美に思う人はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなり力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ完璧な人間である。」

故郷を甘美に思う未熟者がマイホーム主義者だとすれば、その悪しきマイホーム主義はあらゆる場所を故郷と感じることで克服されるように思われる。例えば、沖縄もまた自分の故郷だと心の底から本当に感じられるなら、国土の0.6パーセントという狭い場所に米軍基地の74パーセントが集中している歪んだ現実を無視できないだろう。当然のことだ。確かに、あらゆる場所、すなわち全世界を自分の故郷だと感じることができれば、そうした故郷の普遍化は実に崇高な理想主義に違いない。しかし、この理想主義は現実に機能するだろうか。世界の片隅のどんな不幸をも自分の問題として考える善き面もある反面、ウクライナ(の一部)もまたロシアの故郷だと主張するような悪しき面に転化することもある。後者は様々な国境問題として世界各地でそれぞれのナショナリズムの軋轢を生み出している。鄙見によれば、たとい全世界を自分の故郷だと感じることが可能だとしても、故郷=ホームへの信仰がある限り、その崇高な理想主義は到底マイホーム主義を克服できない。と言うより、ホームへの信仰の本質はマイホーム主義にこそあるのではないか。「我がふるさと!」という熱き思いなくして故郷は意味を成さない。従って、故郷の普遍化は致命的な矛盾を孕んでいると言わざるを得ない。あらゆる場所を故郷と感じることは実質的に「故郷の喪失」に等しい。この点に関連して私の脳裡に浮かぶのは、エスペラントの理想主義だ。一九九六年の世界大会で採択された「プラハ宣言」の第二項(民族性を超えた教育)には次のように記されている。「英語を学習する者は英語圏の諸国、特にアメリカとイギリスの文化・地理・政治について学ぶことになる。それに対してエスペラントを学習する者は、国境なき世界について学ぶのであって、そこではどの国も故郷と見做される。」こうした民族性を超える理想主義はザメンホフのhomaranismo(人類人主義)に基づくものだが、もしそれが真にマイホーム主義を克服するものであるならば、ランティのsennaciismo(無民族主義)へと徹底化されるべきだろう。すなわち、それぞれの民族(国民)が自らの民族性(国民性)を無化して初めてhomaranisimoは論理的に首尾一貫したものになる。勿論、ザメンホフ自身はそこまでの過激化は望んでいなかった。彼が求めたエスペラントの理想は異なる民族間のコミュニケーションを可能にする中立的なpontlingvo(橋渡し言語)であって、民族間の差異をなくして人類人という一枚岩にすることではなかったと思われる。或る意味、それは賢明な判断だった。そもそも差異を前提にしなければ橋渡しはあり得ない。しかし、同時にそれがエスペラントの理想を極めて曖昧なものしていることも事実だ。少なくとも、homaranismoがnaciismoを温存する限り(たといinternaciismoという形式であっても)、マイホーム主義の暴走を止めることはできない。さりとてsennaciismoに現実性があるとは到底思えない。エスペラントの中立性が国境なき世界を故郷にする人類人を生み出すとしても、それは日本人とか英国人といった民族を徒に中性化するにすぎない。国境なき世界は民族性を超えた理想ではあるけれども、同時に民族間の差異なき「のっぺらぼうの世界」でもあり得る。そんな世界に一体誰が住みたいと思うだろうか。結局、ナショナリズムの軋轢・抗争は必要悪として認めるしかないのであろうか。故郷=ホームへの信仰を前提にする限り、そうするしかないだろう。しかし、未だ最後の可能性が残されている。言うまでもなく、全世界を異郷と思うことだ。それこそが「ホームのディコンストラクション」に他ならない。

ホームドラマの超克(7)

「東京へゆくな ふるさとをつくれ」と或る詩人は歌ったが、そこには放蕩息子の苦い経験が込められている。東京に行ったところで、本当に新しいことなど何一つない。それにしても、どうして「ふるさとへ帰れ」ではないのか。詩人はすでに「歌のわかれ」を経ているからだ。ふるさとに帰ろうとしても、赤ままの花やとんぼの羽根を歌うことのできるふるさとはもうない。東京へゆくな。さりとて帰るべき場所がもはやふるさとではないとすれば、ふるさとを新たにつくるしかないではないか。「どこにもない場」としてのふるさと。それはホームドラマでは描けない。ホームは根源的に失われたのだ。とは言え、神の死と同様、人は「ホームの死」を認めようとはしない。認めたくないし、認めることができない。むしろ、失われたホームにしがみつき、性懲りもなくホームドラマにやすらぎを求め続ける。実際、ホームドラマは如何なる形態においてもホームの絶対性を前提にしている。たとい放蕩息子が後足で砂をかけるようにふるさとを去っても、ホーム自体は帰るべき場所として微動だにしない。昨日の便りでも述べたように、ホームドラマは「ホームの喪失」から始まって「ホームの回復」で終わる。それが基本の流れであって、ホームの絶対性への信仰がホームドラマを成立させていると言えるだろう。私はそこに究極的な問題を見出す。その信仰は往々にして悪しきマイホーム主義に堕していくからだ。余談ながら、私は最近「沖縄の米軍基地を「本土」で引き取る!:市民からの提案」という小冊子を読んだ。正論だと思った。その正しい提案については他日徹底的に思耕するつもりだが、ここではNIMBY(ニンビー)=Not In My Back Yardという大衆意識だけを取り上げたい。米軍基地に限らず、ごみ処理場、火葬場並びに霊園、刑務所、障害者施設など、それらがどこかの場所になければばらないという必要性は理解しても、大衆はその場所が自分のホームの裏にできることは頑なに拒む。大反対する。こうした醜悪なるマイホーム主義は如何にして克服されるのか。「キレイゴトを言うな。マイホーム主義の何が悪い!」と開き直られるのがオチだが、マイホーム主義はナショナリズムに通じ、延いてはパラダイス崇拝に辿り着く。様々な異論はあろうが、パラダイスの徹底批判を求める私は「ホームのディコンストラクション」しかないと考えている。おそらく、想定される異論の先鋒としては「悪いのはマイホーム主義であって、ホームそれ自体ではない」という意見があるだろう。尤もな意見だが、「どこにもない場」としてのふるさとをつくるためには「ホームのディコンストラクション」が不可避・不可欠だ。その点について、更なる思耕を試みたい。

ホームドラマの超克(6)

孝行息子は気儘に家出をすることなく、親元でホームをしっかり守り続けている。立派なことだ。それに引き替え放蕩息子は生前分与された財産を手に家を棄て、放浪の旅に出る。親のホームに束縛されるのが嫌だったからだ。放蕩息子は自由を求め、敢えて荒野を目指す。しかし情けないことに、放蕩息子は過酷な放浪に耐え切れず、すごすごと親のホームに帰還する。随分と虫のいい話だが、聖書によれば、帰還した放蕩息子を親は大いに歓迎し、むしろ孝行息子よりも重視する。当然、孝行息子は納得がいかない。明らかに理不尽だからだ。マルタとマリアの場合もそうだが、イエスの譬話には理不尽なことが多い。後の者が先になり、先の者が後になる。鄙見によれば、これは垂直の次元(聖なる次元)と水平的次元(俗なる次元)における価値の転倒に他ならない。ただし、この放蕩息子の譬話に関しては、通常の宗教的解釈とは少し違った理解を私はしている。すなわち、父親を神と見做せば、たとい神に反抗してその元を離れても、悔い改めて帰還すれば、神は心からその反抗者を赦し祝福する。そうした神の大いなる愛(慈悲)こそ通常の解釈の根幹を成すものだろう。更に言えば、その神の人に対する深い愛は反抗して初めて本当に理解できるものであって、単に律法主義的に最初から従順な者には理不尽としか思えない。そこに孝行息子よりも放蕩息子が祝福される所以がある。かくして楽園喪失は楽園回復へと導かれ、ホームドラマは大団円を迎える。実際、状況設定は様々なれど、ホームドラマは「ホームの喪失」から始まって「ホームの回復」で終わる。そして、人々はその結末に「ホームの幸福」を改めて確認して安堵する。その意味において、ホームドラマの基本構造は放蕩息子の譬話に準じていると言えるだろう。しかしながら、その譬話について通常とは少し異なる理解をする私はホームドラマの幸福な結末に異論を唱えたい。確かに、ホームドラマの円環は閉じ、「ホームの幸福」という結末には多くの人を安心させる魅力がある。それは認める。そこには戦慄はない。しかし、それにもかかわらず、私は敢えて「ホームの幸福は諸悪の本」と言いたい。何故か。

ホームドラマの超克(5)

家出は避けられない。放蕩息子は家出をする。それは楽園喪失でもある。何故か。多くの場合、生まれた場所としてのホームは楽園だ。両親に愛され、蝶よ花よと育てられる。勿論、全ての人が望まれて生まれてくるとは限らない。最初から地獄を余儀なくされる場合もある。強姦やら若年での妊娠やら、不幸な出生を無視することはできない。しかし、予めホームが失われている悲惨な場合でも、ホーム自体は楽園として機能する。不幸な出生が地獄であるからこそ、楽園としてのホームがより強く望まれるということもある。とは言え、神話の楽園喪失が不可避であるように、最初のホームも失われる運命にある。ヘーゲルは「始源の楽園に留まり続けられるのはケダモノだけだ」と述べているが、最初のホームに安住できるのは無垢の子供だけだろう。子供は成長して、やがて大人になる。そして大人になれば、生まれた家は次第にホームではなくなっていく。逆に言えば、いつまでもホームを楽園としている内弁慶は大人になりきれない未成年なのだ。尤も、最近ではパラサイト・シングルと称して家に引き籠っている大人も少なくないが、そのような場合でも、家はハウスであってもホームではない。一般的に言えば、子供は両親のホームで育まれるが、大人になれば自分自身のホームをつくることが求められる。たとい同じ家に何代にも亘って親子が同居するにしても、親のホームから子のホームへという世代交代は行われる。そうしたホームの連続に伴って、親と子や嫁と姑の間に生じてくる家庭内の軋轢を問題にするのがホームドラマだ。ホームは循環する。とすれば、家出した放蕩息子が帰還するホームは失われたホームの反復(wiederholen=受け取り直し)ということになる。つまり、それは「新たなホーム」ではない。親から子というホームの世代交代はあっても、ホームそれ自体の構造は変わらない。循環するホームのドラマは人が人間になる可能性を閉じてしまう。然り!そこに放蕩息子が再び家出をせねばならぬ理由、すなわちホームドラマを超克せねばならぬ理由がある。放蕩息子は生まれ育った場所に帰還するとしても、あくまでも「新たなホーム」という場を求め続けるべきだ。それは否応なくホームドラマの次元を超えていく。

ホームドラマの超克(4)

振り返ってみれば、私はこれまで数多くのホームドラマに慰められてきた。その最たるものが山田洋次の『男はつらいよ』だ。地元の高校を卒業して上京し、生まれて初めて一人暮らしなるものを始めた時、恥ずかしながら私は寂しくて、薄っぺらな「ぴあ」を片手に東京中の名画座を渡り歩いた。フーテンの寅に会うためだ。いや、厳密に言えば、私はその世界に自らの失われたホームを求めていたのだろう。言うまでもなく、葛飾柴又は寅次郎の生まれ故郷であるが、私にとっても「どこにもない場」としてのホームであった。寅次郎が柴又の「とらや」に恋焦がれるように、私もまたその場所に憧れた。しかし、寅次郎はそんなにも恋焦がれているにもかかわらず、その場所に定住できない。何度も定住しようと奮闘努力してみるが、その甲斐がなくていつも旅に出ることになる。何故か。「そこが渡世人のつらいところよ」としか言えないが、寅次郎は明らかに定住者ではなく放浪者だ。定住者と放浪者。一体何が違うのか。余談ながら、シェリーのアラスターは夢の中で出会った美女が現実には存在しないことに絶望する。キルケゴール的に言えば、現実の女性を愛して結婚すべきなのに、夢の中の美女への恋を貫くところに永遠の放浪者の運命がある。悲惨な運命だ。柴又という場所に定住できない寅次郎もまた例外ではない。愛することを恐れ、恋に逃げる。「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしやうらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」――ところが、寅次郎はすぐにまた柴又に帰ってくる。「帰るところにあるまじや」と思いながら帰ってくる。放浪に耐え切れないからだ。そのダメなところ、人間として弱いところが寅次郎の魅力でもあるが、野暮を承知で言えば、私は「定住と放浪に引き裂かれる寅次郎」にホームドラマとしての問題を見出す。もとよりホームドラマは本来定住者の物語であり、放浪者のドラマは一般的にはその対極に位置する。しかし私は敢えて、未だない新たなホームを求めて放浪する人間のドラマもまたホームドラマの一環として理解したい。それは放蕩息子の帰還するホームの問題でもある。それは果たして「新たなホーム」と言えるのか。