ホームドラマの超克(6)
孝行息子は気儘に家出をすることなく、親元でホームをしっかり守り続けている。立派なことだ。それに引き替え放蕩息子は生前分与された財産を手に家を棄て、放浪の旅に出る。親のホームに束縛されるのが嫌だったからだ。放蕩息子は自由を求め、敢えて荒野を目指す。しかし情けないことに、放蕩息子は過酷な放浪に耐え切れず、すごすごと親のホームに帰還する。随分と虫のいい話だが、聖書によれば、帰還した放蕩息子を親は大いに歓迎し、むしろ孝行息子よりも重視する。当然、孝行息子は納得がいかない。明らかに理不尽だからだ。マルタとマリアの場合もそうだが、イエスの譬話には理不尽なことが多い。後の者が先になり、先の者が後になる。鄙見によれば、これは垂直の次元(聖なる次元)と水平的次元(俗なる次元)における価値の転倒に他ならない。ただし、この放蕩息子の譬話に関しては、通常の宗教的解釈とは少し違った理解を私はしている。すなわち、父親を神と見做せば、たとい神に反抗してその元を離れても、悔い改めて帰還すれば、神は心からその反抗者を赦し祝福する。そうした神の大いなる愛(慈悲)こそ通常の解釈の根幹を成すものだろう。更に言えば、その神の人に対する深い愛は反抗して初めて本当に理解できるものであって、単に律法主義的に最初から従順な者には理不尽としか思えない。そこに孝行息子よりも放蕩息子が祝福される所以がある。かくして楽園喪失は楽園回復へと導かれ、ホームドラマは大団円を迎える。実際、状況設定は様々なれど、ホームドラマは「ホームの喪失」から始まって「ホームの回復」で終わる。そして、人々はその結末に「ホームの幸福」を改めて確認して安堵する。その意味において、ホームドラマの基本構造は放蕩息子の譬話に準じていると言えるだろう。しかしながら、その譬話について通常とは少し異なる理解をする私はホームドラマの幸福な結末に異論を唱えたい。確かに、ホームドラマの円環は閉じ、「ホームの幸福」という結末には多くの人を安心させる魅力がある。それは認める。そこには戦慄はない。しかし、それにもかかわらず、私は敢えて「ホームの幸福は諸悪の本」と言いたい。何故か。