補足:本質と構造 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

補足:本質と構造

実存主義の熱狂が過ぎ去ると、今度は構造主義がやって来た。「実存は本質に先立つ」という無神論(本質を与えてくれる神の死)は人に自由をもたらしたが、それは呪われた自由だった。本質から解放されたのも束の間、それは新たな本質を求めての果てなき旅への第一歩となったからだ。目的地の見えぬ過酷な旅の始まりだった。そこに構造というものが現れた。構造は新たに見出された神なのだろうか。「実存は本質に先立つが、構造に根付いている」と言えるのか。本質と構造は何が違うのか。「瓜の蔓に茄子はならぬ」と言われるが、そもそも瓜の種に茄子はならない。この場合、瓜の種は瓜の本質であると同時に構造であると考えられる。瓜は瓜以外の何かになることができない。尤も、突然変異というものはあるかもしれないが、それは瓜の意志ではない。では、人の場合はどうか。人にも種がある。両親のDNAが受け継がれた種がある。髪や肌の色など、身体的特徴は種によって或る程度決定されている。性格や性癖もそうかもしれない。しかし、人はヒトを超えることができる。ヒトは種にインプットされた構造に支配されていても、その支配はどういう人になるかという本質にまでは及ばない。ただし、構造はチョムスキーの生成文法のように、かなり柔軟性に富んだ変換を可能にする。例えば、コトバを話す能力の構造はヒトの生まれ育つ環境で様々な人の言葉を生み出す。日本人の両親から生まれた子供が必ずしも日本語を母語とするとは限らない。極端な場合ではあるが、日本人である両親がアメリカで生活し、英語だけを日常語として子供を育てれば、その子供の母語は英語になるだろう。日本人の構造にとって日本語は必然ではない。極端な場合と言ったが、在日の人たちには珍しいことではないかもしれない。韓国人(朝鮮人)でありながら韓国語(朝鮮語)が話せない人はいくらでもいる。しかし大人になって、自らの本質を求める過程で韓国語(朝鮮語)を自らの意志で学び始めるということはあるだろう。その時、韓国語(朝鮮語)は在日の人たちの構造を超えて本質となるのではないか。場が場所になる構造は確かにある。民俗学や精神分析学が歴史の奥底から掴み出そうとしているのはそうした構造だ。しかし、その場所を自分の本質とするには別の活動が要請されると私は考えている。