ホームドラマの超克(9) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

ホームドラマの超克(9)

人は居場所がなければ生きていけない。誰にでも生まれた場所はある。しかし、そこがホームという居場所になるかどうかは定かではない。最近は「親ガチャ」などという醜悪な言葉が横行しているが、残念ながらその現実は否定できない。先日、『透明なゆりかご』という産科の小さな医院を舞台にしたドラマの再放送を観たが、様々な出生の事情があることを改めて痛感した。大抵の場合、赤ん坊は両親の深い愛情に包まれてこの世に生を得るが、望まれない出生も少なくない。それでもアウスよりはマシだと思いたいが、結婚とは無縁の私にはよくわからない。ただ、無責任なことを言うようだが、どんなに悲惨な境遇でも生の切符は手に入れた方がいい。切符さえあれば、とにかく何処かには行ける。いや、やはり「死んだ方がマシだ!」という過酷な現実を知らぬ私に何も言う資格はない。だから、無責任を承知で「生の場所」から始めることにする。「死の場所」については取り敢えず判断停止だ。では、「生の場所」とは何か。そもそも場所は人にやすらぎをもたらすと同時に束縛するものとなる。やすらぎも束縛も共に同一性から生まれる。つまり、自分が他者と同一であるという意識がやすらぎにも束縛にもなる、ということだ。最初、やすらぎの場所は故郷と意識されるも、それはやがて束縛の場所に転化する運命にある。尤も、一生涯、生まれ故郷から一歩も外に出ることなく、そこをやすらぎの場所として幸福な人生を全うする人もいるだろう。それが一つの理想であることを私は否定しない。しかし、近代主義はそれを「未開(未熟)の理想」と見做し、旧態依然の故郷を束縛の場所に貶めてきた。故郷をやすらぎの場所とする自然主義が正しいのか、それとも故郷を束縛の場所とする近代主義が正しいのか。判断は人それぞれの自由にゆだねられているが、ここでは近代主義の運命を見極めたい。それは「近代の超克」という未完のプロジェクトと重なる。故郷=ホームという場所の力は、これまで数々のホームドラマを生み出してきた。その大半はやすらぎの場所の再発見を目的とするものだが、私はそこに巣食うマイホーム主義にホームドラマの限界を見出している。おそらく、故郷の普遍主義(あらゆる場所を自分の故郷と感じる)さえマイホーム中心の個人主義を克服できないだろう。ホームドラマは明らかに破綻している。いくらホームにやすらぎの場所を求めても、それは人の幸福にはなり得ても人間の究極的理想には程遠い。私は故郷の理想を一概に否定するつもりはないが、その理想に持続可能な輝きを与えるためには、その対極の理想との統合が不可欠だと考えている。故郷の本質が同一性にあるとすれば、その対極の本質は差異性にある。すなわち、異郷に他ならない。