ホームドラマの超克(5)
家出は避けられない。放蕩息子は家出をする。それは楽園喪失でもある。何故か。多くの場合、生まれた場所としてのホームは楽園だ。両親に愛され、蝶よ花よと育てられる。勿論、全ての人が望まれて生まれてくるとは限らない。最初から地獄を余儀なくされる場合もある。強姦やら若年での妊娠やら、不幸な出生を無視することはできない。しかし、予めホームが失われている悲惨な場合でも、ホーム自体は楽園として機能する。不幸な出生が地獄であるからこそ、楽園としてのホームがより強く望まれるということもある。とは言え、神話の楽園喪失が不可避であるように、最初のホームも失われる運命にある。ヘーゲルは「始源の楽園に留まり続けられるのはケダモノだけだ」と述べているが、最初のホームに安住できるのは無垢の子供だけだろう。子供は成長して、やがて大人になる。そして大人になれば、生まれた家は次第にホームではなくなっていく。逆に言えば、いつまでもホームを楽園としている内弁慶は大人になりきれない未成年なのだ。尤も、最近ではパラサイト・シングルと称して家に引き籠っている大人も少なくないが、そのような場合でも、家はハウスであってもホームではない。一般的に言えば、子供は両親のホームで育まれるが、大人になれば自分自身のホームをつくることが求められる。たとい同じ家に何代にも亘って親子が同居するにしても、親のホームから子のホームへという世代交代は行われる。そうしたホームの連続に伴って、親と子や嫁と姑の間に生じてくる家庭内の軋轢を問題にするのがホームドラマだ。ホームは循環する。とすれば、家出した放蕩息子が帰還するホームは失われたホームの反復(wiederholen=受け取り直し)ということになる。つまり、それは「新たなホーム」ではない。親から子というホームの世代交代はあっても、ホームそれ自体の構造は変わらない。循環するホームのドラマは人が人間になる可能性を閉じてしまう。然り!そこに放蕩息子が再び家出をせねばならぬ理由、すなわちホームドラマを超克せねばならぬ理由がある。放蕩息子は生まれ育った場所に帰還するとしても、あくまでも「新たなホーム」という場を求め続けるべきだ。それは否応なくホームドラマの次元を超えていく。