ホームドラマの超克(4)
振り返ってみれば、私はこれまで数多くのホームドラマに慰められてきた。その最たるものが山田洋次の『男はつらいよ』だ。地元の高校を卒業して上京し、生まれて初めて一人暮らしなるものを始めた時、恥ずかしながら私は寂しくて、薄っぺらな「ぴあ」を片手に東京中の名画座を渡り歩いた。フーテンの寅に会うためだ。いや、厳密に言えば、私はその世界に自らの失われたホームを求めていたのだろう。言うまでもなく、葛飾柴又は寅次郎の生まれ故郷であるが、私にとっても「どこにもない場」としてのホームであった。寅次郎が柴又の「とらや」に恋焦がれるように、私もまたその場所に憧れた。しかし、寅次郎はそんなにも恋焦がれているにもかかわらず、その場所に定住できない。何度も定住しようと奮闘努力してみるが、その甲斐がなくていつも旅に出ることになる。何故か。「そこが渡世人のつらいところよ」としか言えないが、寅次郎は明らかに定住者ではなく放浪者だ。定住者と放浪者。一体何が違うのか。余談ながら、シェリーのアラスターは夢の中で出会った美女が現実には存在しないことに絶望する。キルケゴール的に言えば、現実の女性を愛して結婚すべきなのに、夢の中の美女への恋を貫くところに永遠の放浪者の運命がある。悲惨な運命だ。柴又という場所に定住できない寅次郎もまた例外ではない。愛することを恐れ、恋に逃げる。「ふるさとは遠きにありて思ふもの そして悲しくうたふもの よしやうらぶれて異土の乞食となるとても 帰るところにあるまじや」――ところが、寅次郎はすぐにまた柴又に帰ってくる。「帰るところにあるまじや」と思いながら帰ってくる。放浪に耐え切れないからだ。そのダメなところ、人間として弱いところが寅次郎の魅力でもあるが、野暮を承知で言えば、私は「定住と放浪に引き裂かれる寅次郎」にホームドラマとしての問題を見出す。もとよりホームドラマは本来定住者の物語であり、放浪者のドラマは一般的にはその対極に位置する。しかし私は敢えて、未だない新たなホームを求めて放浪する人間のドラマもまたホームドラマの一環として理解したい。それは放蕩息子の帰還するホームの問題でもある。それは果たして「新たなホーム」と言えるのか。