ホームドラマの超克(7) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

ホームドラマの超克(7)

「東京へゆくな ふるさとをつくれ」と或る詩人は歌ったが、そこには放蕩息子の苦い経験が込められている。東京に行ったところで、本当に新しいことなど何一つない。それにしても、どうして「ふるさとへ帰れ」ではないのか。詩人はすでに「歌のわかれ」を経ているからだ。ふるさとに帰ろうとしても、赤ままの花やとんぼの羽根を歌うことのできるふるさとはもうない。東京へゆくな。さりとて帰るべき場所がもはやふるさとではないとすれば、ふるさとを新たにつくるしかないではないか。「どこにもない場」としてのふるさと。それはホームドラマでは描けない。ホームは根源的に失われたのだ。とは言え、神の死と同様、人は「ホームの死」を認めようとはしない。認めたくないし、認めることができない。むしろ、失われたホームにしがみつき、性懲りもなくホームドラマにやすらぎを求め続ける。実際、ホームドラマは如何なる形態においてもホームの絶対性を前提にしている。たとい放蕩息子が後足で砂をかけるようにふるさとを去っても、ホーム自体は帰るべき場所として微動だにしない。昨日の便りでも述べたように、ホームドラマは「ホームの喪失」から始まって「ホームの回復」で終わる。それが基本の流れであって、ホームの絶対性への信仰がホームドラマを成立させていると言えるだろう。私はそこに究極的な問題を見出す。その信仰は往々にして悪しきマイホーム主義に堕していくからだ。余談ながら、私は最近「沖縄の米軍基地を「本土」で引き取る!:市民からの提案」という小冊子を読んだ。正論だと思った。その正しい提案については他日徹底的に思耕するつもりだが、ここではNIMBY(ニンビー)=Not In My Back Yardという大衆意識だけを取り上げたい。米軍基地に限らず、ごみ処理場、火葬場並びに霊園、刑務所、障害者施設など、それらがどこかの場所になければばらないという必要性は理解しても、大衆はその場所が自分のホームの裏にできることは頑なに拒む。大反対する。こうした醜悪なるマイホーム主義は如何にして克服されるのか。「キレイゴトを言うな。マイホーム主義の何が悪い!」と開き直られるのがオチだが、マイホーム主義はナショナリズムに通じ、延いてはパラダイス崇拝に辿り着く。様々な異論はあろうが、パラダイスの徹底批判を求める私は「ホームのディコンストラクション」しかないと考えている。おそらく、想定される異論の先鋒としては「悪いのはマイホーム主義であって、ホームそれ自体ではない」という意見があるだろう。尤もな意見だが、「どこにもない場」としてのふるさとをつくるためには「ホームのディコンストラクション」が不可避・不可欠だ。その点について、更なる思耕を試みたい。