ホームドラマの超克(8)
ここで有名な聖ヴィクトルのフーゴ―の言葉に改めて注目するのが妥当であろう。彼は次のように述べている。「故郷を甘美に思う人はまだ嘴の黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられる者は、すでにかなり力をたくわえた者である。だが、全世界を異郷と思う者こそ完璧な人間である。」
故郷を甘美に思う未熟者がマイホーム主義者だとすれば、その悪しきマイホーム主義はあらゆる場所を故郷と感じることで克服されるように思われる。例えば、沖縄もまた自分の故郷だと心の底から本当に感じられるなら、国土の0.6パーセントという狭い場所に米軍基地の74パーセントが集中している歪んだ現実を無視できないだろう。当然のことだ。確かに、あらゆる場所、すなわち全世界を自分の故郷だと感じることができれば、そうした故郷の普遍化は実に崇高な理想主義に違いない。しかし、この理想主義は現実に機能するだろうか。世界の片隅のどんな不幸をも自分の問題として考える善き面もある反面、ウクライナ(の一部)もまたロシアの故郷だと主張するような悪しき面に転化することもある。後者は様々な国境問題として世界各地でそれぞれのナショナリズムの軋轢を生み出している。鄙見によれば、たとい全世界を自分の故郷だと感じることが可能だとしても、故郷=ホームへの信仰がある限り、その崇高な理想主義は到底マイホーム主義を克服できない。と言うより、ホームへの信仰の本質はマイホーム主義にこそあるのではないか。「我がふるさと!」という熱き思いなくして故郷は意味を成さない。従って、故郷の普遍化は致命的な矛盾を孕んでいると言わざるを得ない。あらゆる場所を故郷と感じることは実質的に「故郷の喪失」に等しい。この点に関連して私の脳裡に浮かぶのは、エスペラントの理想主義だ。一九九六年の世界大会で採択された「プラハ宣言」の第二項(民族性を超えた教育)には次のように記されている。「英語を学習する者は英語圏の諸国、特にアメリカとイギリスの文化・地理・政治について学ぶことになる。それに対してエスペラントを学習する者は、国境なき世界について学ぶのであって、そこではどの国も故郷と見做される。」こうした民族性を超える理想主義はザメンホフのhomaranismo(人類人主義)に基づくものだが、もしそれが真にマイホーム主義を克服するものであるならば、ランティのsennaciismo(無民族主義)へと徹底化されるべきだろう。すなわち、それぞれの民族(国民)が自らの民族性(国民性)を無化して初めてhomaranisimoは論理的に首尾一貫したものになる。勿論、ザメンホフ自身はそこまでの過激化は望んでいなかった。彼が求めたエスペラントの理想は異なる民族間のコミュニケーションを可能にする中立的なpontlingvo(橋渡し言語)であって、民族間の差異をなくして人類人という一枚岩にすることではなかったと思われる。或る意味、それは賢明な判断だった。そもそも差異を前提にしなければ橋渡しはあり得ない。しかし、同時にそれがエスペラントの理想を極めて曖昧なものしていることも事実だ。少なくとも、homaranismoがnaciismoを温存する限り(たといinternaciismoという形式であっても)、マイホーム主義の暴走を止めることはできない。さりとてsennaciismoに現実性があるとは到底思えない。エスペラントの中立性が国境なき世界を故郷にする人類人を生み出すとしても、それは日本人とか英国人といった民族を徒に中性化するにすぎない。国境なき世界は民族性を超えた理想ではあるけれども、同時に民族間の差異なき「のっぺらぼうの世界」でもあり得る。そんな世界に一体誰が住みたいと思うだろうか。結局、ナショナリズムの軋轢・抗争は必要悪として認めるしかないのであろうか。故郷=ホームへの信仰を前提にする限り、そうするしかないだろう。しかし、未だ最後の可能性が残されている。言うまでもなく、全世界を異郷と思うことだ。それこそが「ホームのディコンストラクション」に他ならない。