ローティの教訓 | 新・ユートピア数歩手前からの便り

ローティの教訓

図らずも今月のETV「100分de名著」という番組のテキストはリチャード・ローティの『偶然性・アイロニー・連帯』であった。ローティと言えば、伝統的な哲学の本質主義をプラグマティズムの視点からラディカルに批判したことで有名だが、改めて本質主義の弊害について考えさせられた。そもそも哲学とは真理の探究であり、それは物事の本質を見極めることに等しい。かく言う私もこれまで「人間として本当に生きるとは何か」と問い続けてきた。しかし、人生に「本当のこと」などあるのだろうか。確かに、科学的に実証できる「本当のこと」はある。例えば、地動説は「本当のこと」であって、天動説は間違っている。日常的には「東からお日様が上り、西に沈む」と感じられても、地動説が「本当のこと」であることを疑う人はいない。つまり、表層の天動説に流されることなく、深層の地動説を実証することができる。しかし、人生におけるVorbildについてはどうか。或る人が「この人物こそが本当のVorbildだ!」と主張する時、それを「本当のこと」として実証できるか。ローティによれば、哲学的には不可能だ。その意味において「哲学の終焉」が主張されるわけだが、ではこの世界に「本当のこと」は存在しないのであろうか。無理に「本当のこと」を主張すれば、それ以外は「本当でないこと」、すなわち異端として糾弾されることになるだろう。「本当のこと」を熱狂的に求めれば求めるほど、この世界に激しい争いをもたらしていく。とすれば、「本当のこと」など求めない方がいいのかもしれない。「本当のこと」は百害あって一利なし。人は「本当のこと」がなくても十分幸福に暮らしていくことができる。そこにプラグマティズムの教訓もあるだろう。しかし、それにもかかわらず、私は敢えて「本当のこと」を求めたいと思う。果たして、これはローティの教訓に反する愚挙であろうか。