夢の場所・理想の場(5) | 新・ユートピア数歩手前からの便り

夢の場所・理想の場(5)

「蛙の子は必ず蛙になる」と言えるのは蛙がゾーエーの次元にしか生きられないからだ。同様にヒトの子もゾーエーの次元では必ずヒトになる。蛙の子には蛙のUrbildがあり、ヒトの子にはヒトのUrbildがある。たといオオカミの中で育っても、ヒトのUrbildが不変である以上、ヒトの子はヒトになる。それがオオカミのように見えるのは、他の人がビオスの次元から見ているからだ。姿形はヒトであっても、オオカミに育てられたヒトの子はゾーエーの次元から一歩も外に出られないのでオオカミとしての自覚しかない。もしそこに何らかの方法で(結局、教育ということになるだろうが)ビオスの次元を導入できれば、オオカミと化したヒトにも人になる可能性が開けてくるだろう。ちなみに、「醜い家鴨の子」の話は擬人化されているので最終的には美しい白鳥としての自覚を得て幸福な結末を迎えるが、現実にはそうならないと思われる。確かに、家鴨と白鳥ではそれぞれのUrbildが違うので姿形に大きなズレが生じてくる。しかし、そのズレが美醜の差になるとしても、家鴨の中で育った白鳥に「白鳥としての自覚」は生まれないのではないか。すなわち、一生涯、他の家鴨たちとは姿形の異なる「醜い家鴨」として生きることを余儀なくされるのではないか。もしその白鳥に「自分は他に抜きんでて美しい」という意識が芽生えるなら、それはビオスの次元に一歩足を踏み入れたことを意味する。そんなことは白鳥にはあり得ない。そもそも「白鳥の方が家鴨よりも美しい」というのは人の目に映る世界だけの価値観ではないか。家鴨に劣等感はないし、白鳥にも優越感はない。幸か不幸か、優劣に惑わされるビオスの次元に生きられるのは人だけだ。そして、そんなビオスの次元にのみ「夢の場所」は求められる。